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ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

赤ちゃんの意思

2019-12-05 09:53:56 | ひとの幸福

赤ん坊に離乳食をやっている時、

口に入れたスプーンをこちらの意思で出そうとすると、

ききゅっと噛んで離さないことが以前にあった。

後で、娘がネットで調べたところ、

こちらの意思で出そうとしないでいると、

自分から放す、とあったよう。

それを聞いて、あ~なるほど~と思ったよ。

こんなに小さな人でも意志を持った人間。

一方的な意思でこちらが出そうとすると、

いやだよ~、ちょっと待ってよ~・・・こうなる。

スプーンを出そうとしないでいると、する~っと出せる。

相手の意思を確認しないうちに、出させよう、寝させよう・・・

まぁ、おむつを替える時などそういうことはたくさんあって、

そのことが悪いわけじゃないのはもちろんなんだけど、

今は遊んでいたい、今は眠い、今はこちらに興味津々・・・などなど・・

というような意思がしっかりとあることを確認しておくのは

自分にとって大事なことだと思うなぁ。

 

 

 


嫌な自分。

2019-11-30 17:18:36 | ひとの幸福

ここのところ自分が好きと思えてないことに気づいた。

人から「自分が嫌い」とかの言葉を聞いたことがあるけれど、

それがどういうことかわからなかった。

そう思ったことがなかったからだろう、その頃は。

最近、このページに来ることも無くなって、

自分を観る、という一番大切なことを疎かにしていた。

他者を嫌う自分をみつけたこと=自分を嫌っている自分に気づいたこと

・・・なんだ。

いや、人を嫌うことが悪いっていってるんじゃないよ。

嫌いなら嫌いでいいんだよ、そのこと自体は。

それで自分の気持ちが何の後腐れもないなら。

自分を嫌だと何故思うのか・・・

自分を嫌ったりしていなかった頃の自分と比べると、

自分の考えだけで突っ張ったりするようになった、

他者の話を聞く時、プロセスを聞こうとしないで、その話の結論を急ぐようになった、

勿論そんなことが以前に全然なかったわけじゃないよ。

でも、その数値があるとすれば、倍以上、三倍にも五倍にもなっていることは確か。

そういう自分を苦痛に感じていることにやっとこさ気づいたんだ。

自分もその他者も、自分で考え、行為行動する自由を持っている・・・のに、

自分の自由ばかりに傾いていた。

その人のことをその人に任せられない自分をやっと見つけられた。

それはどういうことかと言えば、

その他者が自分で考え、行為行動することが出来ない、と

無意識のうちに私が決めていた、ということだ。

なんということだろう!

ひどいねぇ!

 

人にはひとの人生がある。

その中身は他者にはわからない。

けれども、他者を応援することは出来ると思う。

それは他者の人生の歩みを邪魔しないことだ。

その人の人生はその人しか歩けない。

このことを忘れないでいたい。

痛いほどの決心。


COPDだという思い込み

2019-06-18 23:08:56 | ひとの幸福

COPDだという診断が誤診だったことは前に書いた。

10年日記というのを数年前からつけているんだけど、

この前去年の日記をなんとなく見ていると、

・・今日も少しだけど、胸が痛いことあった・・・云々

・・なんぞとと書かれているページが幾つかあった。

いや、思いおこせば、そんなふうに痛いと感じたこと、痛いと思ったこと、は確かにあった。

実際にその瞬間、物理的な私の身体に何か異常なことが起こっていたのかもしれない。

起こっていなかったのかもしれない。

それは誰にもわからないことではあるけれど、

最近そういうことは全然ない・・のである。

去年という一年間、私の意識には自分はCOPD患者である、という呪文みたいなものはあった。

年がら年中四六時中それが脳裏から離れないというわけではなかったけれども。

けれど、今年になってそれが誤診だとわかってからは、

胸が痛いということが無いのである。

今年の自分にはCOPD患者ではないという呪文みたいなものが作用している・・・

のではないかと考えられる・・・かように思ったりするのである。

ディーパック・チョプラ氏という名前だったと思うけれど、

その人はインド人のアメリカの医師なんだけど、その人の書いた本に、

誤診であなたの余命はあと三年(三カ月だったかも・・)と宣告された人が

ちゃんと三年後に死んだ、という話があった。

死後解剖すると何の異常も見つからない、健康体だった、という。

思い込むことで人は死ねる能力を持っている・・・

思い込みの強い私は他の医者にも診てもらわず、

ず~っとCOPD患者として過ごし、

ちゃんとそれなりの症状を感じ、呼吸がしにくくなり、

生きにくくなり、COPD患者として、死んでいくことになったかもしれない。

私にはわかりませんが、何らかの理由で家族の強い希望により、

遺体を解剖してもらうことになり・・・・・アレレ???!!!

意識の力というものを発揮してあの人は亡くなった・・・

と、後世に伝えられるほどになるやもしれぬ・・・・・

 

 


新しい人たち 発達障害

2019-04-17 18:52:05 | ひとの幸福

夫の子供の方の孫、私の子供の方の孫、

合わせて12人目の孫が最近生まれた。

この人が10歳になると私は79歳になる、生きていれば。

その頃この世はどんなふうになっているのだろう??!!

よくそんなことを思う。

 

今から15,6年前になるんだなぁ・・・

最近はそういう本は全然読んでないんだけれど、

魂とか波動とかいう言葉がたくさん出て来る本を百冊以上読んだことがある。

その中でどういうふうなことなんだろう??と思ったことは

たくさんあるんだけど、その中の一つに、

21世紀は水瓶座で波動の高い魂(この辺の言葉遣いは正確じゃないかも・・)

が、たくさん生まれて来る云々があったんだよ。

それってどういうことなんだろう???読んだとき、そう思った。

それが本当かどうかはわからないことだけど、

もし、本当のことだとして当時考えたのは、

キリストやブッダみたいな人たちがたくさん生まれて来るんだろうか・・・

わからないなぁ・・だった。

 

最近発達障害という名前をよく聞く。

アスペルガーとかADHDとか学習障害とか。

それは生まれつきの脳機能の発達の偏りによる障害だという。

原因はわからないらしい。

私の周りにもそれかと思われる子供や大人がいる。

自分勝手とかわがままだとか怠けているとか、

今までの常識からはそんなふうに捉えられることが多い。

「こんな簡単な事どうして出来ないんだろう??」

・・・そう、こんな感じに。

 

こういった発達障害の人たちは上に書いた、

波動の高い魂を持っている人たちなんじゃないだろうか!?

そういう思いが最近湧いてきたんだ。

 

キリストの言葉に、

「私が来たのは地上に平和をもたらすためだと思ってはならない。

平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。」

というのがあるようで、これは何を言っているんだろう・・・??

ずっとこれが私の頭の中の『わからないもの入れ』に入っていた。

まぁ、そういうのを「疑問」というんだろうけど、

子どもの頃から、『わからないもの入れ』に入れとこう・・だったんだよ。

 

この世は相対的な世界だから、

「高い」という言葉、概念があるから「低い」があるわけで、

「美人」という言葉・概念があるには「ブス」という言葉・概念がなければならない。

人類の女全員が「美人」なら「美人」という概念、言葉はないはずだもんね。

金持ちと貧乏 利口と馬鹿 上品と下品 上と下 右と左・・・

美人もブスもない、利巧も馬鹿もない、金持ちも貧乏もない、

こういう世界はもうこれ以上人間という存在が

成長出来ないといった世界かなと思う。

 

発達障害の人たちはわがままだとか自分勝手だとか空気が読めないなどと

周りの人たちから否定非難批判されることが多い。

受け容れられないことが多い。

 

「普通こうだよね~」みたいなわかりやすい人たちばかりで集まっていれば

そこは平和と呼ばれる雰囲気の場になる。

そこに「普通こうだよね~」じゃない人、

普通こう・・・だと思っていない人が入ると、その場の、

普通こうだよね~の人は驚き、否定し、非難する、平和ではなくなる・・・

「普通」と「普通じゃない」という言葉がある相対的世界では

今、低いところにいないと高いところには行けないように。

高いところにいたらもう高いところに行けない。

「剣」という言葉・概念が無ければ、

「平和」という言葉・概念は存在しえないんだもんね~

そういう経験を経て経て経て・・・経て経て・・・・・・

全てが「普通」なんだと、

全てが 在るがまま なんだと、・・

そんなふうに人の意識がなる過程には

いろんな障害と呼ばれるもの、大変なこと、

困ったと呼ばれること、人、が居ないとなれない。

いや、発達障害と言われる人たちは別にそのために生きてるわけじゃないよ。

勿論。

そこのところ、誤解しないでね。

困ったとか、いやだとか、思ったときはチャンス。

そういう人、事、が無いと低いところから高いところに行くチャンスがない。

キリストは平和をもたらすために来たのではなく、

剣をもたらすために来た、というのはこういうようなことかと、

思ったんだよ~

特に最近発達障害ということが言われて来たし、

今度生まれた子供が発達障害を持った人かなぁ、

と思ったことがきっかけになって書いたよ。

久し振りに長い文書いた・・・よ。


COPD・・・一年経って・・・4

2019-03-05 14:18:47 | ひとの幸福

すぐに諦めてしまうんだなぁ・・こいつ(わたし)は。

COPDなんだろうとすぐに  諦めた・・  ことが

要らぬ薬を一年も体内に入れたことに繋がったんだと思う。

 

昔から、気性がさっぱりしてると言われてきたけど、

運動神経が鈍くて逆上がりが出来なくても、

走るのが遅くても、バレーボールの球が打てなくても、

跳び箱が跳べなくても、頑張ろう!なんて思うこともなく、

高校の数学や物理がわからなくても、

出来なくったっていいやとばかりにすぐに諦め、

努力ということも一切せず、

いや、高校の数学テストの寸前に問いと答えを丸暗記するという手を使って

しのいだこともあった。それは努力なしで出来たから。

 

・・・自分の持ってる少ない能力の範囲でやれることをただやって来たんだなと。

そんなふうに生きて来たんだとこの年齢になって気づく。

努力ということをしなくて生きて来たから、

悔しいとか、なにくそっ!、とかの思いを持ったことがない有り様だ。

あ、あった、唯一努力したのは

15年以上前のある日突然、ピアノを弾けるようになりたいと思いついて、

レッスンに一年間通ったことだ。

努力した、努力した。努力とはこういうことかと納得した。

「嫌でもそれをやる」

練習が嫌でもそれをしない限り、ピアノを弾けるようにはならないのだとわかって、

練習を放り投げたくても、ピアノを壊したくなっても、

練習するしか方法がないのだと観念して、ええ、練習しましたとも。

だから今はモーツアルトのトルコ行進曲くらい弾けますの・・・

いやいや、決してそうではなく、(ここのところ、必ず読んでください)

その経験で得たことは「努力」とは自分の願いを実現するために、

実現方法としてコレだと確信することを、

゛嫌でも”やること。コレを理解した、そのことだ。

今頃??と思う人、いるのかなぁ・・

実際その辺のところもわからない。

(嫌でも)というのがなくちゃ努力とは言えない、と私は思ってる。

願いを実現するという過程に努力は要らない場合というのは・・・

願望実現を目指してそのために行為行動することが

簡単には出来ないことでも楽しくて面白くて嫌にならなかったら、

努力 は要らない。努める、なんて無い。

出来ないことがあっても嫌にならずに、

ただやるべきことをやるだけなんだろう。

 今は出来ないんだ、と思うだけで。

すぐに出来るはず、と無意識のうちに思っているから、

そうならないから、嫌だぁ! になるのかな・・・

走ることや球技やら、数学やら物理やらに、

(出来るはず)や(出来るようになりたい)がなかった私は

こんなこと出来ないわぁ・・でおしまいだったのだと思う。

家族からも期待されてなかったのも幸いだったのかもしれない。

何が幸いなのか・・!?

ピアノの練習を嫌でもやったことで上に書いた以外に

私に起こったことは・・なんだ?

一応バイエルを終えた・・・

けれど、それがどうした・・というような思いもある。

それからの日常生活でピアノを楽しむ、ということにもならず・・・。

元々の私の趣味嗜好とピアノを楽しむこととはあまりにかけ離れていた、

という気はする。

けれど、嫌でも練習したら出来る日が来る、という感想は持ったなぁ。

嫌でも、やる、という経験をしないより、

そういう経験をした、というのはよかったろう・・・

 今、思うのは、心が意識が自由自在な存在でいたい・・

(出来るはず、なれるはず、)が無いからこうして

なれてもないのに、のほほんとしていられるんだろう。

 

 

 

 

 

 

 


在ることとそれに執着することと

2019-01-12 15:07:16 | ひとの幸福

書いてよかった。

学園の出来事と当時の私の意識の在りようとは無関係ではない。

世界の出来事が私と無関係ではない、というのと同じように。

そけれど、学園は世界よりずっと小さな身近な世界だった。

自分の意識の未熟さがよくわかるこの過去の出来事を、

無いものには出来ない。

在っていい。在って当然だ。在るんだから。

けれどそれに執着するのは人生によくない。

正しさと、それを持つこととは別というのと同じだ。

執着が人生を暗くする。

執着が世界をダメにする。

 

 


子どもの学園

2019-01-12 14:56:08 | ひとの幸福

いつかは書ける時が来る・・・

自分の心の奥にあるものをちゃんと観ず、

うやむやにしたままで終わらせるのは・・・

やりたいことじゃない。 

それは子供の事じゃなくて自分の事なんだから。

さて、こうして書き始めたはいいが・・・

夏川りみのCDを聴きながら、今、

今度生まれる12人目の孫用にベビードレスを裁って、

縫う処に印のようにアイロンをかけていたところだったのだ。

それを終えて、さぁ、縫おうとしたときに、

どうしてこういうことを書き出したんだろう、私は。

普段こういうことがいつも頭にあって、くよくよしたり、

鬱っぽくなったりとか、そんなわけじゃないんだよ。

そのことで起こる表立った障害に悩まされているわけでもない。

けれど、私の心の奥で消えることのない、

排泄しきれていない便みたいなもの。それ。

排泄しきれていない便って、

出したくても出て来られなかったもの。

 

それがこの前のブログと関連して、

出て来れなかった便が日のもとに出てきてくれた、そんな感じがする。

そうだ、それを書こう、となったのだ。きっと。

娘が育った学園では子供にとって辛いことがたくさんあった。

前回書いた出来事の後で、

娘がその学園についての非難の言葉を発したときに、

それがすっと耳に入った。

「ひどいね!」この言葉が何の屈託もなく、

するっと自分の口から出た。

世界で起こる悲惨な出来事を新聞で読んだ時の感想のように。

便秘が続いたあとの排便みたいに。

これはどういうことなんだろう。

自分がその学園に行くことを娘に勧めた・・・

なので、娘たちが学園での出来事を話しているのを聞く時、

自分が責められている、というとげを自分が自分に刺していたのだ。

それがなくなったのでなければ、すっと軽く聞けたわけがない。

確かに娘たちは私を責めるためにそれを言っていたのではないと思う。

私は紐付きで聞いていた。それはわかる。

どんな紐だったのか・・・

学園での出来事と当時の私の意識の在りようを結ぶ紐だと思う。

そしてそれはどうしても無関係とはいえないものだと思っている。

当時そこに居た人たちの見えない意識のうちにそれは成り立っていたものだと思うから。

けれど、すっと聞けたこと、それは本当になんだったのか・・・

そのことは今の私にとって、軽くなった、よかった、

それだけでいいのか・・・

娘たちは、そういう出来事があった、と言った。

私はそういう出来事があったんだ、と聞いた。

そして、ひどいね、と私は言った。

それだけ。それだけでいいのか。

あ、そうか。

無関係ではない、という私の思いはそのまま在っていいんだ。

そういう私の思いが在る、ということと、

彼女らが言った言葉をあぁ、そうかと聴くことは矛盾しないんだ。

そうだ、そうだよ。聴く時は聴くだけだ。

こちらの都合はこちらの都合。それを

聴く時に持ちだしたらいけない。

そうだ、前回のと同じだ。

私のそういう思いは在っていい。だって在るのだから。

あぁ、書いてよかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


正しさ と 正しさを持つことと・・・

2019-01-09 17:56:50 | ひとの幸福

あの日からもうじき三カ月が経つ。

いやぁ、このページに来たのも四カ月も前のことだ。

あの日から書こう書こうと思ってたんだけど、

ついついその時その時のやりたいことに気が行って、こんなに月日が経ったよ。

パソコンに触れるのも久し振り。

 

娘が保育園時代のことをずっと寂しかった、と私に何度も言ったことがある。

私は専業主婦ではなく、子どもを育てて居た頃、ずうっと働いていた。

勿論、仕事を続けたいというのもあったし、

生き物は群れの中で育つのが当たり前と思って、

家で一人で育てる、なんて考えたこともなく、

そんなこと能力的にとても出来ないとも思っていた。

娘は産休明けから小学校に入るまでずっと保育園で育った。

なんせ物心もつかぬ生後八週間からの毎日が保育園と我が家。

保育園行くの嫌だとか一度も言ったことがなかったと記憶してる。

友達いっぱいいて楽しく過ごしているんだなぁ、そう思い込んでいた私だった。

その娘が大人になってから、保育園の時、寂しかった、と言ったのだ。

勿論、保育園時代に寂しい思いを経験したことがある、ということで、

のべつ幕無しで寂しかったということじゃないとは思う。

それを聞いた時、最初は本当にびっくりした。

そんなふうに思ったことがあるなんて露ほどにも思っていなかったから。

40年くらいの間に何度かそれを言われた。

そう、言われた、と受け取った私だった。

聞いた、のではなくて。

娘が責めて言っているように私はとらえたのだろう、それに反発した。

当時、保育園に行きたくないなんて一回も聞いたことがないのに・・・

いやいや行っていたと感じたことも一度もないのに・・・

無理に行かせたことなんか一度もないのに・・・

何十年もたってるのにまだそんなこと言ってるなんて・・・

そんな思いしか出て来なかった私だった。

 

友人にそんな話をしていた時、彼女が言ったのだった・・・

「・・ちゃんが、保育園の時寂しかったと言った、その時に、

寂しかったことに気づいてあげられなくてごめんね、と言ったの?」

と言ったのだ。

え????????!!!

・・・そんなこと一度も思ったことがなかった・・・・・

そんな思いは微塵も出て来たことはなかった・・・・

相手に心があることなんてこれっぽちも知らなかったようなもんだ。

ひどい・・そんな自分だったんだ。

自分は間違ってない、それしかなかった、自分だったんだと思う。

なんて傲慢なんだろう。

娘はただ、寂しかったと言った・・・

たった、それだけのことを聴く耳がなかった・・・

料理を出して、美味しくなかった、と言われて、

そんなはずはない、と怒るのと同じだ。

そんなはずはないと思おうと思わなかろうと関係なく、

美味しくないと思うことはあるくらいのこと私も知っている・・はず・・

 

彼女がそう言ってくれた、翌日だったか翌々日だったか、

娘に会ったとき、今までの自分と違う聞き方が出来たのだ。

自分でも驚いた。

その娘は私にとってこの世で一番引っかかる人だったのだ。

一番愛しいのに一番ひっかかる人。

その〝引っかかり”が消えた。

子供を保育園に預けながら働くという選択肢を選んだことに後悔はないけれども、

その考えを持って、

それに固執していた自分だったのだ。

なんと40年もの長い間それに固執していたのだ。

そういう〝意識のからくり”で、

娘の、寂しかった、という気持ちをあぁ、そうかと聴けなかったのだ。

本当にひどいもんだ。

でも嬉しい。それがわかって。

わかったことが嬉しいんじゃなくて、

娘に対しての自分がすっきりしたことが嬉しい。

心が軽くなったことが嬉しい。

心が穏やかになったことが嬉しい。

重い荷物を下ろしたみたい。

二人の間の空気が変わった。

 

 

 

 

 

 

 

 


いつになったら・・・

2018-08-31 16:34:03 | ひとの幸福

2014年から10年日記なるものをつけている。

で、同じ日のを読むことがある。

なんとほとんど同じことが書かれてあることがあるのである。

あまり心の動きなど書かない方だけど、

そういったものが4年前と同じだったりする。

ひとの言葉をただそのまま、在りのままを聴けなかった、というもの。

他人じゃなく、家族、身内の人の。

話しを聞くそばから、じゃじゃ~んと出てくる出て来る。

心の中で出るだけならともかく自動的に漏れてしまう・・感じ。

やれやれ・・・

そして、後でその成り行きを見れば、思った通りの結果になる。

全く素晴らしく、 あ~すれば、こ~なる  という方程式みたい。

後悔・・・そして勿論反省。大反省。

かの人の話を聞くときは手にマジックで何かの印をしておくとか、

せねばならん。

 


泣いてる場合じゃない

2018-06-21 15:23:42 | ひとの幸福

その人がその人で在るだけで、私が私で在るだけで。

ただそれだけのことなのに。

哀しいなぁ。

なんで涙が出るのか・・・

互いに誤解してるから?

この気持ちはなんだ?

嫌いじゃないのにスムースにやり取りが行かないもどかしさか・・・

もどかしくて泣くか?いや、泣かない。

自分を観なくちゃ、そう思って、

何だ何だ??・・・

私は事柄についての意思ばかりを聞こうとしている。

それを言うその人のその時の心がどんな状態なのかを

観ようともしていない。

様子がおかしいと感じていても言葉ばかり聞いてた。

本当になんということだろう・・・

うんざりする。自分に。

その人は心を生きている。

私は何を生きているんだ・・・

その人のその時の心を聴こうという姿勢が私になかった・・・

そうだ。その通りだ。

そこが私のやるところだ。

泣いている場合じゃない。

ここまで来て、やっと靄が晴れたように感じた。

自分のこれからやることがわかったから。

それにしても、やれやれ・・・(馬鹿だった自分に)

 


名前のない家事・・・の経験3

2018-03-27 08:53:50 | ひとの幸福

前回有難いこっちゃと書いたけれども、

一番有難い出来事は私の気持ちも変わった、ことだ。

彼が変わったから私も自然に変われた。

それってどんなことかって・・・

彼と暮らしていて炊事をすることが前より楽しくなった。

そりゃ、彼が自然に動いてくれることで、

私の労力だけでやらなくてもいい、

というような物理的に楽になったということもあるけれど、

彼が変わったことで、彼に対する私の見方も変わったんだと思う。

こうしてあ~してと軽く声をかけられるようになった。

前は声をかけるということが自然に出来なかった私だ。

一人で頑張ってしまうという私の芳しくない癖が大いに活躍してた。

でもそれも私だけのせいじゃない、そう思えるのもいい。

なんか、こうして書いてみると、私一人で頑張ってたなぁ・・・

しみじみとそう思う。

もちろん彼がまるで何もしない人じゃなく、

かなりいい方の男なんだけど、ね。

今回、共に変われたな。そう思う。

 

 

 

 


覚えた百人一首、なんと55首になりにけり・・

2018-02-26 08:07:35 | ひとの幸福

 

なんだかんだと日が過ぎて、今日はもう二月も末、26日なんだ~

毎日毎日飽きることなく百人一首を覚えております。

楽しいもんだねぇ。

今までに覚えた歌を思い出して声に出したり、紙に書いたりしてる。

50首書くのに30分くらいのものなんだけど。

こんなふうに意識的にものを覚えるという行為を

小学生、いや、小学生に限らず学生は毎日のかなりの時間を

それに費やしているんだなぁと思った。

一日のほとんどの時間を勉強と遊びで満たしてる。

なんてリッチなことだろう。

自分もそういう時代があったわけだけど、そういう自覚はなかった。

何故勉強?が楽しいのか・・知らないことを知る喜びが得られるからか・・・

それにはやはり自分がそれを知らないと知ることから。

この頃は何かにつけ、知らないことばかりだなぁとよく思う。

こんなふうな思いを持つようになったのはいつの頃からだろう・・・

それ以前は無意識のうちにだけど、

なんだかんだ知ってるという土台で生きてたんだろか・・・

いや、今だってそうだ。

自分がムキになったり、腹立ったりしてるときは

そんな自分なんだと思う。


病気を得て

2018-01-30 15:15:31 | ひとの幸福

COPDは今より良くなることがないようで、

いわゆる進行性の病気らしい。

そうネットで読んでもあぁ、そうか、としか感想がないのは

未来のことも過去のことも頭に浮かばないわけで、

もしかしてこれは 今に生きる ということをしちゃっているのではあるまいか・・・

と、能天気な私は思っているんだけど・・・

でも、こういう持病を持つようになって自分の中が変わって来たこと・・・

は、ある感じがする。

なんというんだろう・・・まだはっきりとは観察できてない気もするんだけど、

自我、というか、何かこう・・強いものが幾らかかもしれないけど、

減った・・ような感じ。心の中がなんとなく静かな感じ。

悲観している、とかそんなんじゃないんよ。

 

今まで人からこうした方がいいんじゃないか、なんて言われても、

そんなのしなくたって大丈夫だよっ!・・・みたいな感じで、

人が言ってくれている、その気持ちを聴こうという姿勢がなかったと思う。

いや、ズバリ、なかった。

こうして書いていると、はっきりしてくるもんだねぇ。

自信たっぷりな感じ。恥ずかしいねぇ。

こうして病気を得たことは当然のことだし、

わたしには必要だから起こったというふうにも思えるよ。


事柄遂行と楽しさ

2017-12-16 09:35:21 | ひとの幸福

夫と二人、引っ越し準備であーじゃないかこーじゃないかとやってる。

なるべく経済的に安く上がるように・・・コンパクトに箱詰めできるように・・・

小さなことでも考えが違うこともある。

それで二人の間の空気が微妙に歪むというか、

イヤな感じのモードになったりすることがある。

こりゃなんじゃ?!と思って検査。

互いが「自分のやり方でやりたい」があるからだと思った。

このやり方の方がいい、と突っ張るからじゃないか。

そう気付いたら、どっちでもいいじゃん、と思った。

どっちに決めても時間的にも経済的にも大した違いはないのにねぇ。

こんな小さなことでイヤなモードになるなんて馬鹿らしい、と思った。

いや、小さなことでなくても、どんな揉め事も、

この我というか我執というかが根本にあるからだからねぇ。

正しく?生きたいのか、夫(人)と共に楽しく生きたいのか、

よ~く自分の胸に聴いてやって行きましょうと自分に。

 


「寂しい生活」・・えみ子さんの洗濯・・・ 

2017-12-15 09:13:12 | ひとの幸福

今のところ洗濯機はあって働いてくれている。

ここを出る前にリサイクルショップで引き取ってもらう予定。

『寂しい生活』の稲垣えみ子さんは洗濯機も放して、

洗面器で手洗いしているそう。

それが面白くてたまらないよう。

お気に入りのヨーロッパ製のチノパンを手洗いしたら色むらが出来てしまって、

じゃあ次はこうしてみよう、あぁしてみよう、と、めげない。

それが面白いと感じるよう。

まぁ、確かに一人暮らしと違って育ちざかりの子供が何人もいる共稼ぎの家庭なんかじゃ

特に洗濯機は本当に有難いもの。

最初の子供を産んだ頃、賃貸の古い一軒家でぼっとん便所だったから、

ウンコで汚れた布おむつのウンコだけ便所に捨て、

汚れたおむつは洗剤と漂白剤を入れたバケツに漬けておき、

手洗いもし、だいたい綺麗になってから洗濯機で洗った。

二人目の時は和式の水洗トイレがある家で、それが本当に嬉しかった。

汚れたおむつはそこで下洗いできたからね。

いやいや、それが言いたかったわけじゃなく、

いや、でも、洗濯機の在ることは本当にありがたいと思っていた。

私の母の時代は水道も洗濯機もないし、

井戸水を汲むための棒をガチャンコガチャンコ何度も押して、

おむつも何もかもたらいと洗濯板で洗い、

その上、井戸は外だったから冬なんか手は冷たかったろうし、

大変な肉体労働だったはず。

そんなふうにして育ててくれたんだなぁと思うけど、

今の子供には洗濯機のスイッチ入れただけじゃん・・と言われてもしょうがないねぇ。

けれど、けれど、家電は有難いものだとやはり思う。

けれど、けれど、達成感とかあっただろうなぁ・・・

自分のこの手で一つ一つ汚れを見ながら綺麗にしていく。

この前まで一緒に住んでた孫の靴下は洗ってあっても汚れている。

最新の洗剤、最新の洗濯機だけど。

でもまぁ、洗濯機は本当に便利だし、使える時は使っていきたい家電だけど、

えみ子さんが手洗い洗濯を面白く感じるのは、

自分の手でやった事の結果がはっきり見られることや達成感や、

汚れが落ちたり、失敗したりのプロセスがわかることなんじゃないかと思ったんだよ。

工夫の余地がたくさんある。

洗濯機にポンと汚れ物を入れ洗剤を入れボタンを押すだけで

洗濯が終わってしまうのは達成感も感じないし、面白くもない。

私は今、二槽式の洗濯機を使っているけど、

洗剤で洗った後それを脱水槽に移すと残った水の汚れが見える。

それだけでも嬉しく感じるんだ。

あぁ、こんなに汚れが落ちたんだってね。

そして、洗濯物が多い時はその水でもう一回洗濯機を回す。

こういうのもなんか好き。

結局のところ、自分の手で何かをするのは疲れもするし面倒くさいこともあるけれど、

直接身体に感じる感覚が豊かになるというか、

生きているってこういう事って言うか、

いろんなことを体で感じて生きて行くことの方が

便利さを感じることより人間の在りようとして真っ当なのか・・・

なんてことを思ってしまうよ。

どうだろうねぇ。

不便は楽しいと言ってもいい。

工夫の余地がたくさんある方が面白い。

若い頃から、それをすることが面白いか面白くないかが

行動を選択する基準だったことも多い。

面白いと言うと面白おかしいというふうに誤解されたこともあったから、

興味深くその事柄をやれるという感じといってもいいかもしれない。

まぁ、これから体力も落ちて来るだろうし、

既に落ちているし、

面白さと便利さとその都度、その事柄、によって選んでいくんだろうなぁ。