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ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

三重県知事の鈴木英敬さん

2012-05-28 20:43:57 | 新聞を読んで
朝日新聞の「ひと」欄に載ってた。

三重県知事が全国の知事の2番目に育休を取るそう。

この人は2年前に自分のブログで育休をとった人に、

「リーダーたるもの昼夜を問わず働くのが使命」

「危機管理などに汗を流すべきで、少し違和感がある」と書いたことがあるそう。

そのことで会見では「前と言っていることが違う」と突っ込まれたらしい。

けれど、この人は、

「今にして思えば申し訳ない。父親になるのを前に成沢区長の気持ちがわかった」と言ったらしい。

やはり37才は考えが柔軟だと思った。

考えなんて変わって当然。

考えが変わらないことをよしとしている風潮は本当に根強い。

アメリカの大統領選でも、以前はこう言ったのに・・云々かんぬんといった話は

よく聞く。

変わることが大罪みたいな扱いだ。

軽く変われる、こういう人が政治家でもいるようになったのはいいなと思う。

私もこのブログを始めて9ヶ月になるけど、

書いた時と今とでは変わっているものもあると思うので、

今の自分で読み直して更新したりしてる。

「健康不安と過剰医療の時代」

2012-05-27 15:45:14 | 新聞を読んで
書評の欄にこれがあった。

「現代は江戸時代より『進化』していると言われる。

進化のシンボルが科学技術の発展である。

確かに江戸時代までは高度医療も保険制度もなく、

薬は高かった。であるから病気にならないことが重要で、

『養生』が生活の上で大切な役目を果たしていた。

・・・今の日本では薬は満腹になるほど出し・・

・・不安感だけで治療する必要はあるのだろうか?

・・・病気ではない人にお金を使わせるには、『健康不安』という武器がある。

・・あらゆるものに警告が発せられ、健康商品が大量に消費・・・」

実に面白い文章だった。

なるほどなるほどと読んだ。

血圧やコレステロールを下げる薬、骨粗しょう症の薬の副作用。

私たちの身体は常に動的平衡状態だから当然そうなる。

こういった知識を得ればひとはその薬を止めるんだろうか。


こういう文章もあった。

「本来は『ストレスに強い』ことを強要する社会の問題であるにもかかわらず、

それは問題としないで医療に金を使わせる構造になっているのだ。・・・」

勿論社会の問題も大有りだ。

だけど、この社会で不安を煽られているというふうにならない人もいる。

そのことに何故そうなんだろう?という疑問、関心が生まれないこと自体が、

こういう社会になっているということもあるかもしれない。

不安感を払拭するために身体に薬物を入れる。

不安感という感覚を薬物という物質で解決しようとすることに疑問を抱かない人が多い。

不安感という心に正体を合わせてみようとする人は少ない。

山崎勉さん

2012-05-27 14:56:26 | 新聞を読んで
同じく朝日の書評欄の「著者に会いたい」というところに、

俳優の山崎勉さんの文章があった。

「前略、中略・・・でも読書って、そういうものなんじゃないか。

読み手ごとの世界ですよ」

・・というもの。

「読み手ごとの世界」・・まことにその通り。

実際の人が織り成す世界も本も同じだ。

それを読む人、それを体験する人ごとの世界に違いない。

観念動物としての人間はそこから抜け出すことは出来ない。


「見るもの聞く声みな楽しく美しく飽きるを知らず・・」

これはこの文章を残した山岸さんの世界だろう。

木嶋佳苗さん・・・

2012-05-27 14:43:51 | 新聞を読んで
「毒婦」木嶋佳苗100日裁判傍聴記 北原みのり〈著〉

「別海から来た女」木嶋佳苗 悪魔祓いの百日裁判 佐野眞一〈著〉

についての書評(朝日新聞)を福岡伸一先生が書いていた。

最後の方の文章がこれ。

「著者たちは意識するしないに関わらず、

明らかに木嶋佳苗という鏡に映った自分を語っている。

それは裁判に関わった、聞いた、見た、すべての人々についてもいえる。

嘲りは自らへの嘲りであり、

いらだちは自らにいらだつ。

勇気ある者は、このあまりにもリアルな記録を読んで、

その鏡にいったい何が映るのか、試してみるがよい。」

・・・以上。

木嶋佳苗さんに限らず、他者は誰でも自分の心が映る鏡なのだ。

そう、ナントカナニコという自分も自分の心が映る鏡。

誰が見ても同じものが映る鏡ってあるんだろうか。

見えない意識はやはり人や場合によって違ったものに映るもの。

万人が見て、「遺体」と解釈するような、「死んだ人」というものでも、

いつだかあった新興宗教は「生きている」と解釈した。

言葉に現われる人の意識というもの、これは意味であり、解釈。

どう解釈するのかはどう映るのかということだ。

言は人なり とはこういうことなんだろう。


木嶋佳苗さんはとても特色ある世界を生きているようだ。なので、

「彼女は独自の方法で、自ら閉ざした全く別の世界を生きているのだ。

私たちには彼女の世界が読めない。

あえて読もうとすると彼女は透明な鏡になる。」

・・こういう文章もある。


木嶋さんでなくとも、誰でもが全く別の世界を生きている。

他者の世界は読めない。こうではなかろうか、止まりだ。

あえて読もうとすると彼女は透明な鏡になる・・とは

透明な鏡とはどういうことを云っているんだろう。

鏡とは対象が映るものでなければそう言わないはず。

鏡が透明だったら素通しということ?何が映ると言ってる?

あえて読もうとしたら・・・とは?

読むということはどこまで行っても、自分の解釈だ。

作者の意図とぴったり一致したとしても。

読まれるものは在るだけで。

【木嶋さんになるくらいの自分にならなければ、

在るものをそのまま読み取れない。

そんなことは可能なんだろうか???】

前の方の文章に、「・・・犯した罪は裁かれなければならない。

しかし、私たちにはもう一つ考えるべきことがある。

了解の不能性。社会性の欠如。・・・」がある。

その『了解の不能性』というのが、

上に書いた【】の中のことと同じなんだろうか・・・?

福岡先生じゃない私は「透明の鏡」の真意が読み取れない・・・

ただよく映る鏡だということなんだろうか・・?

わからないから休憩しよう。

大型バスの事故

2012-05-03 10:17:35 | 新聞を読んで
痛ましい事故が起こった。

どんな現象もそうだけど、この事故も起こるべくして起こった。

こういうのを無くす方法を考えても、きっと実にならない。

付け焼刃、その場しのぎ、法律、そういうものは役立たない。

ざるで水をすくうようなもんなんだろうな。

時代の風 ジャック・アタリさん

2012-04-22 14:46:34 | 新聞を読んで
今朝の毎日新聞「時代の風」欄の「『ソマリア化』する世界」を読んだ。

サブタイトルは「政治の力で市場制御を」で、

市場は世界規模に拡大しているのに国家は国の枠組みの中に、

留まったままでいるという実状からの文章なんだけれども。

その中で「グローバル(地球規模)経済に対応するには、

法の支配を地球規模にまで拡大することだ。

とてもユートピア的ではあるが必要なことだと思う。」

・・という文章があった。

ユートピア(想像上の理想的な社会)的ではあるが・・という文章は、

ユートピアを絵空事、実現しないものとしている見方が多いからなんだろうと思った。

けれど、ひとは想像できる事は創造出来る。

その時点時点で不可能なことは望まない。何度も書いてるけど、

明日火星に歩いて行きたいなんて思うことはないし。


「法の支配を地球規模にまで拡大・・・」これも、

地球規模にまで拡大できる法の支配の「法」とは、

世界中のどの民族、どの国の人も納得できるもの、と思う。

それでなければ成功しないだろうと思う。

誰一人として苦しまない悲しまない「法」でなければならない。

それで、ユートピアということになるのだと思った。


その後で、私には難しいけれど、いろいろな具体的な方法とかが書かれてあった。

国連、安全保障理事会、国際通貨基金、世界警察・・はどうするこうする・・・。

私にはとてもわからないことだけど、

ひとつひとつ解決していくことで世界は変わっていくと示している。

「国家が自国の領土しか制御しないのであれば、何も制御していないのと同じだ」

・・この文章は全くその通りと思った。

世界は一つだから、部分である一つの国家の事だけやってても、成果は上がらない。

人体のヒスタミンとアドレナリン作用(3月6日ブログ)と同じことだ。

部分のことしか考えなかったら全体が迷惑する。

「欧州連合(EU)は『世界政府がどのような機関になるのか』の実験でもある。」

・・・世界政府という言葉は湯川秀樹博士の文章で見たことがあるくらいで、

あまり見たことがないのは私の不勉強のせいだけど、

こういうことを考えている人は世界中にたくさん居るんだろうな。

人はたくさんたくさん失敗してその失敗を自覚できるようになって、変化進化する。

人が創っている世界という生き物もそういうプロセスを経て変化して行くのかと思う。

世界が政治的にも経済的にも実質的に一つになるには、

多くのプロセスが要るんだろうな。

自分さえ、自分の国さえ、よければいいという考えは、

部分的にいっとき成果と思われることが現われるんだろうけど、

それは永続しないものなのは人体の働きと同じことなんだろう。

こういう考えが世界が実質的に一つになることを遅らせるんだろうな。


でも、自分さえ良ければいいと思ってるわけじゃないのに、

やっていることは結果として、周りに迷惑をかけてしまっていることになっている・・・

というのが実状だと思う。

やはり結局のところ、自分の心の状態を知ることがすべての始まりなのかなぁと思う。

「火論 タイタニック1世紀」

2012-04-17 09:57:23 | 新聞を読んで
今日の毎日新聞の「火論」欄はタイタニック号の事故についてだった。

アメリカのノンフィックション作家ウォルター・ロードと云う人が

1955年に出した「タイタニック号の最期」という本のこの文章が引用してあった。

「移民が多く質素な三等船客の乗客らの誘導やボート避難は後手に回り、

一、二等に比べ女性や子供の犠牲者が多い。

当時の新聞も事故調査の議会もこれに着目しなかった。

もみ消された形跡はない。

ただ、誰も興味を持たなかったのである。」

この、「誰も興味を持たなかったのである」がとても興味深い。

100年前の事故当時、移民法という法律があり、

それもこの事に作用があったようだ。

(三等船客はぞんざいに扱われて当然)というような意識が

多くの人の心の奥底にあったのだろう。

~で当然・~なのは当たり前・・こういったものの見方は

日常暮らしている時の意識には上がって来ていない。

それが在るのに、意識に上がってないけど、

在るのでそこから物事・現象は始まる。




田中慎弥さんが・・

2012-04-15 19:23:23 | 新聞を読んで
毎日新聞の『今週の本棚』のページに田中慎弥さんが載ってた。

その文章の中に、・・毎回、ラストを決めずに書く。

「早く結末を読みたい。書かないと結末が出て来ない。書いてしまって、

(自分も)こういうラストだったのかと初めて分かる」というのがあった。

こういうのは内田康夫さんの文章でも読んだことがあるような記憶がある。

自分で推理小説を書いてるけど、途中では誰が犯人かわからないって。

村上春樹さんの文章でも、確か、「書くことで考えられる」というのと、

(これは低速思考ということなんだろな)

「書かないと自分でもこの物語がどうなるのかわからない・・」

・・といったようなものがあったと思う。

私なんか作家でもなんでもないけど、

高校生の頃、小説みたいなのを好きで書いていたときに、

こんなふうなのを書きたいと思って書き始めても、

自分では思ってもないストーリーの展開になってしまった経験があるし、

こうしてブログに書いている時も、思ってもない展開になってしまうことはよくある。

書く前はわからない。わからない、ということもわからない。

コレってどういう作用なんだろう??

いま、思っていることを書いて、それを自分が読んで、

又それについて浮かぶことを書く。それを又読む、読んで又何かが引き出される、

こういうリレーみたいなものか・・・

だから、書かないと次の言葉、文章が書けない。

18才のとき、仲のよい4人でリレー小説を書いたことがある。

一人が物語の第1章を書く、その続きの2章を違うメンバーが書く、

その続きの3章を又違うメンバーが書く・・こうして4人で書いた。

当然、1章を書いた人はその物語がどう終わるのかわからない。

友人が書いた印象的な一つの文章しか覚えてないけど、凄く面白く楽しかった。

本当に面白い。今、コレをこうして書いていても、こういう展開になるとは全く思ってもみなかったよ。

このことは自分と自分との対話なんだろうけど、

その自分はその都度その都度、時点が違うから別の自分なんだ。

ふーーん。なるほど。

自分というと固定している感じもあるけど、

自分という言葉を英語で「human being」というように、

Being 動いている在るもの。 

現在進行形の自分というものを自分というんだろう。

人類全員 human being。

相互作用で変化し続ける。

こういう展開になったか・・。




河瀬直美さん

2012-04-12 09:12:00 | 新聞を読んで
ここのところ毎日新聞の『時代を駆ける』欄に映像作家の河瀬直美さんが出ている。

昨日金原ひとみさんの子供についての言葉を聞いた後だったせいか、

河瀬さんの言葉が印象的に入って来た。

「子供を育みながら『自分が、自分が』という気負いが抜け、

客観的に物事を見つめられるようになりました」というもの。

子供を育てる、という言葉は使わず、

子供を育みながら(はぐくみながら)という言葉を使っている。

「育む」 とは 羽包む(くくむ)の意らしい。

親鳥がその羽で雛を覆い包む・・という意味だという。

「育てる」の意味も「生い立つようにする」「養育する」「大きくなるようにする」

が一番先に書かれてあったけど。

自分が、自分が、という思いは、

子供をナントカよくしよう、してやれる、というような自我のことと思う。

相手が言葉を使える大人でなく、

言葉の通用しない乳幼児に接するという経験は

自分が、自分がという自我が抜け落ちるいい体験になる場合と、

そうならない場合とがあるのかと思う。

その違いはどこから来るのだろう・・・?

「田中慎弥の掌劇場」

2012-04-08 07:57:15 | 新聞を読んで
自分の心を傷つけることが出来るのは自分だ、と書いたことがある。

いや、正確に言えば、見えない自分の心が自分にわかる自分の心を傷つけるのだろう。


今朝の毎日新聞の書籍広告にこの前芥川賞をとった田中慎弥さんの本が載ってた。

「田中慎弥の掌劇場」という本。

その小説の一部が転載されてあった。

第18話「意思の力」というタイトルで・・

「男は天国と地獄の境目までやってきた。出勤途中で胸が苦しくなり・・・中略

・・・気がついた時にはここにここに立っていたいうわけだ。・・・中略

一番やっかいなのは、その信じられないことが起きてしまったのだと、

自分自身がはっきりと認識している点だった。

なりたくてなったわけではない立場なのに、自分で自分をここへ立たせたかのようだった。

考えてみれば、どんな事情でここへ来たのであろうと、

それは自分自身のことなのであり、だとすれば、そこに多少なりとも自分の意思が

関係しているのではあるまいか。

意思と全く関係なくここへ来てしまったと考えるのはあまりに悔しいではないか。

するとどこからか声が聞こえた。(以下は本書でお楽しみください)」

・・・以上。


受賞した小説も読んでいないし、これだけで何がわかるというものじゃないけど、

この人はこういう小説を書くのか、と思った。

ここで言っている「意思」とは自分でも気がついていない(思い)、

無意識のうちに持ってしまっている考え、プログラム、

なのではあるまいか、と思った私であった。

「するとどこからか声が聞こえた」というのは自分でも経験のあることだし、

以下は本書でお楽しみくださいともあるので、いつか読みたいと思ってる。






南京大虐殺

2012-03-01 14:59:34 | 新聞を読んで
名古屋市の河村市長が何かの席で、

30万人もの中国人を虐殺したという、その数字は間違いじゃないか・・・

・・というようなことを発したようで、

今朝の毎日新聞の「木語」欄にもそれについての考えが載っていた。


日本人の“済んだ事は水に流して”という言葉が言っている内容は、

過去の現象に心が執着するのは理から外れているということで、

在った現象を無視することとは違う。


戦中に南京でどういうことが在ったのか。

誰が何を思って、なんの為に、そこで何をしたのか。

物事がどういうプロセスを経てそうなったのか。

30万人という数字は実際その通りなのか。

様々な利害関係を超えて、

在った目に見える現象・在った目に見えない現象である意識を観察しないと、

経験から学べない。


南京大虐殺といわれることについてたくさんの本が書かれているようだ。

けれど、こういうトラブルが起こるという事実から考えると、


世界中の多くの人は、

先入観や、偏見や利害関係に縛られて、

在った事実・現象を在りのままに観察することが出来る能力を

まだ発揮出来ない、未熟な状態で在る、

ということなんじゃないかな。


他人の不幸の上の幸福

2012-02-18 10:32:46 | 新聞を読んで
他人の不幸の上の幸福。

一番簡単な例では、資本家が安い賃金で労働者をこき使って、

巨万の富を得ている、というようなことかと思う。

今、世界中で格差が言われている。

「自分さえ良ければいい」という考えがこういう現実を創っているのかと思う。

「自分さえ良ければいい」という顕在意識もあるだろうけど、

自分でそう思っているという自覚が無い場合が多いと思う。

自分や自分の身近、周囲のことは考えているけれど、

考えはそれ以上にまで及ばない。

悪意で及ばないわけじゃない。

防潮堤のことで書いたけど

一部は全体に繋がっているという事実を知らないことから生まれる思いがそれ。

世界で起こるいろいろなトラブルの元は

こういう“無知”から来るものかと思う。

一人に起こることは全員に関係しているということ。

身体の一部にガンが出来るということは全身に影響を与えるということ。

そこが悪化すれば全身というものが死ぬということになるのと同じ。

世界は身体と同じ、一体なのだという事実をたくさんの人が心から知ることで、

自分さえ良ければいいというプログラムが変わって行くのかと思う。

他人の不幸の上の幸福 というものは一時的な、

砂上の楼閣だということ。

「時代の風」

2012-02-12 15:23:30 | 新聞を読んで
今朝の毎日新聞、五百旗頭 真さんという防衛大学校長先生のもの。

「世界文明フォーラム」という催しに参加しての話だった。 

インド生まれの世界的学者さんや世界の英知を聞きながら、

日本の大きな方向性を考える場となった、とあった。

今回のメーンテーマは「世代間の公正」

印象的だったのはスウェーデンの話。

高い税金の下で何故高い経済成長ができるのかとか、

何故人口減少が反転したのか、などの?に対して、

スウェーデンの財務相が言ったこと・・

「公的部門の腐敗が少ないこと。

オープンな議論を行なって政治が社会的信頼を築いたこと。

政策内容として徹頭徹尾人間に投資したこと

(保育園の充実、教育施設の無料化、社会全体が育児休暇を受け入れていること、

失業は個人の不幸であるだけでなく、社会の人的損失であるとの見方から

失業保険だけでなく、再就職のための再教育の充実など)

こんなふうにどこまでも人材重視らしい。

研究開発への投資も経済成長の要件であると共に

将来世代を支える方策でもあるらしい。

ひと が尊重されているんだなぁと思った。

そして一番に書いたように腐敗が少ないこと。

これはひとがあまり未熟じゃないということだろうと思うけど、

社会がひとを尊重するものであるがゆえに、

人として成長できる、とも言える。

社会と人がいい循環になっているんだろうなと思う。


日本の被災地の若い大学院生、人材である一人が

形の見えない「心」の財こそ本当の豊かさではないかと提起し、

「他人の不幸の上に自分の幸福を築かない」生き方を震災体験を通じて悟り、

「世代間の公正」を世界の論客に劣らす雄弁に表現した、とあった。

地震という災難に遭って、

そういう心境になったというのは素晴らしいなぁと思った。

そういう心境になるのに震災は大きな機会だったとも言える。

「艱難汝を玉にす」という諺のようだ。

可愛い子には旅をさせよとか、苦労は買ってでもせよとか、

そういう言葉があるけど、

苦しみを感じてその苦しみを我慢する術を覚えるなんていうのは、

“玉”にならない気がする。

ただ鈍感になるだけだ。

艱難の何が汝を玉にするのか、

苦労の何が人を成長させるのか、

よくよく目を見張り“経験”しないといけない。

苦しみがただの苦しみだけならそんなもの経験しない方が楽だ。

読書感想文

2012-02-03 10:46:40 | 新聞を読んで
今朝の毎日新聞に読書感想文コンクールに入賞した文章が載ってた。

とても興味深く読んだ。

どれを読んでも、言葉を読むという行為は

自分の心を読んでいるのだなぁと思ってしまう。

読むことで引き出される自分の心がある。

こうしてブログに向かって湧くままに言葉を綴っていると、

それを綴っている自分と、

それを読む自分とが、分かれてるという感じになる。

そして又湧いて来る言葉がある。

読む 書く というのが呼吸みたいな感じ。

入れる 出す という循環みたい。