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ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

「人生決める選択の謎を追う」

2012-08-04 20:03:15 | 新聞を読んで
今日の朝日新聞 be フロントライナー。

人生決める選択の謎を追う・・というタイトル。

どんなことが書かれてあるのか、興味を持って読んだけど、

面白かったのは選択の幅がたくさんあると、購買率が低くなるというもの。

ジャムの瓶が6つしか置いてないのと、もっとずっと多く並んでいるのとでは、

6つしか置いてない方が売れる個数が多いという。

これは調査した人もびっくりだった、ということだ。

たくさん選択肢があるとひとは判断できなくなるらしい。

これとこれとどっちがいい?と聞かれると、「うん、こっち」とすぐに判断できそう。

それが30個もあるうちのどれがいい?なんて聞かれても、

すぐ判断出来ないというのは当たり前という気がするね~

30個だと一個一個の違いが近くなるんだろうか・・・

いろんなことを決められない人というのが世の中にいるけど、

そういう人に何かを「どうする?」と聞いても、

う、う~ん・・・むにゅむにゅ・・・となりがちだけど、

「こうするのとあーするのとどっちにする?」と尋ねると、

「あ、こっちがいい・・」なんていう展開になることがある。

どうするの?という「?」は判断の幅がとことん広いから、

判断できなくなるのかもしれない。



「非業の生者たち」②

2012-07-22 16:21:31 | 新聞を読んで
また、勿論こういうことが起こったその前段階のことも観察しなければならないと思う。

日本兵が中国で酷いことをした。

何故そういうことが“起こった”のか。

何故日本兵がそう“なった”か、そこを見なければならないと思う。

軍隊はリンチやら、理由も無い腹いせみたいな暴力が横行していたのだろう。

いわれもない暴力が横行するような、そういう場に居たら、

ひとは必ずストレスを受ける。受けないわけがない。

そのストレスは自分より弱いものに向かう・・んじゃないか。

その時の日本軍という組織で、

兵隊は自分より弱者に暴力を振るった、

中国の女の人を辱めたその事でそのストレスを放していた・・んじゃないか。

いいとかわるいとかそういうことを云っているんじゃない。

そういうことが在ったのではないかと推察してるだけで。

軍隊はひとの本来性から基づかない事を多く強いた。

暴力を発する側も受ける側も、こんなのは本当の自分じゃない、

という本人も気付いていない心の叫びがそこには溢れていたろう。

今までのどの時代でもひとが残虐行為に走るように“なった”基は、

ひとを人として扱わなかった、それが始まりなんじゃないかと思う。

自由性、自主性、自立性、自律性を持つものである人間には耐えられることじゃなかった・・・

そのエネルギーは必ず出口を求める。

軍隊はひとの本来性から外れる風が吹いていた。

その時代、軍隊だけではなかったかもしれないけど、

特に軍隊という組織はそうなりやすい組織なんじゃないか。


軍隊に何故そういう風が吹くように“なった”のか、やはりその前がある。

その前には前の前がある。ずっーと過去に繋がっている社会の状態がある。

誰が悪い、日本兵が悪い、軍隊が悪い、軍隊を生んだ時代が悪い、思い込んだ人が悪い、

・・・なんて特定できない。

誰のせいでもなく、自分を含めた全体という幾千億人のせいでもある。のかと思う。

このことに限らないけど。

「非業の生者たち」

2012-07-22 15:45:49 | 新聞を読んで
「非業の生者たち」
 
「集団自決 サイパンから満州へ」のサブタイトル。

下嶋哲朗・著。朝日新聞の今朝の書評欄にこれが載ってた。

終戦間近、沖縄での集団自決。何が人々をそれに駆り立てたか・・・

明治以来日本人の内面に刻み込まれた「強いられた自発性」に着目・・・・

・・こうあった。

米軍は女を陵辱して、男と子供は股裂きにするという話が沖縄に拡がった。

「日本兵が中国で残虐行為をして来たことの投影であり、『写し絵』だった」

という記述が載っていた。私もそう思う。

自分が持っているものの見方で他者を見るのはこういうことに限らない。

自分がそうしたとしても、他者もそうするとは限らない、

行為は状況との相互作用で変わって来るもの・・・ということがわかっていれば、

こんなことにはならなかったろうけれど。

当時、そういう思考は少なかったのかと思う。

そういう観察から、自ら死を選んだという自発性を、

「強いられた自発性」と著者は捉えているのだろうと思う。

そして、生きて辱めを受けるくらいなら死んだ方がいい・・

そういう考えがあったので、自ら死を選んだ。

「写し絵」が在ったがために多くの人が自ら死を選んだ。

そういう日本軍の心の投影が生んだ「話し」を真に受けて、(必ずそうなると思い込み)

多くの人は自ら死を選んだ。

心の投影が生んだ考え・・・がまことしやかに囁かれ、

それを聞いて、必ずそうなると思い込んだこと。

陵辱される事と死ぬ事で、死ぬ事を選んだ価値観があったこと。

この二つが無意識のうちにあり、集団自決という悲劇が起こったのではないかと思う。

続く・・

「be」フロントライナー ②

2012-06-30 15:45:18 | 新聞を読んで
佐野眞一さんは広津和郎さんの言葉を受けて、こう言っている。

散文精神で書かれる作品は「動詞と名詞だけで書かれる文芸」とも言いかえられる。

形容詞や副詞はほとんど必要ない。

動詞と名詞は時代が変わっても、決して腐らないからなんです。

・・以上。

ノンフィクションに形容詞と副詞は必要ないというのはよくわかる。

散文というのがノンフィクションという作品と

イコールなわけではないのかもしれないけど、

佐野さんがこういうことを引用してるということは、

広津流散文精神がノンフィクションを書くのに役立っている、

ということなのかもしれない。

けど、動詞は腐らないんだろうか・・!?

「走った」という動詞は昔でも現代でも、

人間の身体の動きを表わす動詞だから腐らないと言える。

走った は 走った で、食べた は 食べた だ。

走った は 食べた じゃない。

心を表わす動詞はどうなんだろう・・・

例えば「嫉妬した」「後悔した」「反省した」「蔑んだ」・・

こういう動詞の言葉の意味はその言葉が誕生したときから、変わらないし、

変わらないからこそ使えるわけなんだけど・・・


私は走った Aさんは走った どちらもその事実は見た通りかと思うけど、

私は反省した  Aさんは反省した  これは微妙だ。

「私は反省した」そう表現することは出来るけれども、

実際にその言葉通りかは正確には私しかわからない。

「Aさんは反省した」これも同じことかと思う。

Aさんは反省しているように見えた、反省しているのかと窺えた、

Aさんでない人はこのようにしか表現できないはず。

すると、ノンフィクションでのこういう動詞の使い方としては、

反省したのではないかと自分には見える、ということになるのかな。

勿論、そう表現できるからにはかなりの観察がなければ出来ないことだとは思う。

でも、そうなると、それはノンフィクションではなくなるんだろうか・・?

いや、やはりノンフィクションか・・?




「be」フロントライナー

2012-06-30 15:38:28 | 新聞を読んで
今朝の朝日新聞の「be」というのの「フロントライナー」に、

佐野眞一さんという人が載っていた。

前にここで引用したことがある「別海から来た女」というのを書いた人。

今朝の記事の中で興味深い文章をみつけた。

作家の広津和郎の「散文精神について」という講演の中の言葉。

どこまでも忍耐強く、執念深く、ただただ淡々と物事を見るべきだというのがその論旨で・・というもの。


(物事を見る)ということは散文を書く為だけにあるんじゃないのは当たり前なんだけど、

散文を書くのは表現の一つで、

そして、表現は文学や絵画や音楽や映画なんかだけじゃなくて、

日常私たちが話し、行為し、行動するのも全部表現だ。

表現とは表に現れるもの。

何が表に出るかって、ひとが物事を見る、その見方が顔や言葉や行為に現われるんじゃないかな。

淡々と物事を見る、それが広津流 散文精神ということになる・・・

淡々とではなく物事を見る、それが・・・なんになる・・・

「池上彰の新聞ななめ読み」

2012-06-29 08:57:13 | 新聞を読んで
今朝の朝日新聞に、こういうのがあった。

「『その瞬間』再現は難しい」の見出し。

オウム真理教の高橋容疑者が逮捕された時の報道記事について、

夕刊と朝刊、朝日と読売、みな、その瞬間についての文章が違う。

「」で表現されている高橋容疑者の言葉も異なる。

比較して読むと、いろいろ辻褄が合わない部分が出てくる。

部分を表現した文章が幾つかあって、それを合わせて、時間の経緯で見ようとすると、

矛盾が出てきてしまう。全体でぴったりはまらないみたい。

一つのジグソーパズルに、関係ない他のピースが入ってるみたいだ。

こういうことは当然起こることだと本当に思う。

そこに悪意だの黙殺だの捏造などは無いと思う。

言葉は意識なので、在った事実を描写しているつもりでも、

その人の捉えたことが言葉になる。

起こった現象をフィルムを巻き戻して見ることが出来れば、

起こった現象をその通り言語化できるのかもしれないけれど、

映画じゃないから、誰もその日にカメラを回してない。

まぁ、それも絶対じゃないとも思う。

相対的に物事を見てしまう人間というものの在りようがあるから。

みな、各人の記憶に頼っている。

記憶は思い出した時に新たに作られる。

夕刊では「高橋克也か?」と聞くと「はい」と答えた・・というもの。

朝刊では「・・・捜査に協力してください」と声をかけた。

男は「はい。私が高橋克也です」と言った・・というもの。

違うのが悪いと云ってるんじゃない。

面白いと感じている。そういうふうになるんだなぁと感心してる。

新聞社が夕刊では省略して記事にした・・のかもしれない?

でも事実を報道してるって云ってるんだから、そういうことはないか・・?

認識が言葉になる。事実が言葉になるわけじゃない。

その現象を無意識のうちにどう捉えているのか、

どう観測しているのか、

その人の関心の行き所で現象が一つの言葉になってそこに現われる。

簡単な例で言えば、或る男が私の夫なら、私は「男は・・」と認識しないだろう。

「夫は・・」と認識する。赤の他人や警察官ならその男を「男は・・」と認識する。

或る男の子供なら、その男を「父親は・・」と認識する。

どれも当然だ。

現象の一瞬一瞬を一人一人がその人仕様で捉えている。

この記事の最後のほうに、

「夕刊と朝刊で内容が異なっています。まるで芥川龍之介の『藪の中』のようではありませんか。

事実関係を正確に取材して記事に再現することが、いかにむずかしいかわかります。

と同時に、新聞を読み比べ、『本当は何が起きていたのか』

を推理することもまた楽しいのです。」とあった。

正確に取材して記事に再現することがむずかしい、

と、池上さんはわかっている。

でも、再現なんてあり得ない。

この事件に限らず、日常の暮らしの中でこんなことは山のようにあるだろう。

松本サリン事件で誤認逮捕された河野さんが言ってた、

「人間は間違うもの」という認識を持っているか、持って居ないかでずいぶん違うんじゃないかと思う。

起こっている現象を、在りのままに認識する、なんてことはかなり高度なことかと思う。

それには深い智慧がいるようにも思う。

自分の口から出る音、言葉は全部自分の捉えだということを自覚できたら、

批判がひとに向かうことはないのかなぁと思う。



増税 縮む暮らし ②

2012-06-27 21:00:10 | 新聞を読んで
暮らしが縮んでもいいじゃないか・・・

消費が減ってもいいじゃないか・・・

そんなこといったって・・・

物を生産してる組織は暮らしが縮んだり、消費が減ると困るんだろうな。

金の世の中なので、そうなると経済界が困るようになっている。

そこで働いている人や家族がおまんま食い上げになったらどうするんだっ!えっ!?

困りはてる・・・・スピノザじゃないけど、絶望は幸福の入り口ともいえる。

こういう時代に生まれ合わせた私たち人類は、

これからどうなっていくんだろう。

なかなか見られないドラマのようだ。

みんなで共同作業だ。共同ドラマ作り。

「増税 縮む暮らし」

2012-06-27 14:07:02 | 新聞を読んで
増税すると実際の家計は苦しくなるので、

民はその案に反対が多いということなんだろうか。

公約で増税しないと謳ったこともあるしで。


「縮む暮らし」同じく3面に「消費も落ち込む恐れ」という見出しもあった。

その見出しの言葉使いを選んだ事や、記事の全体的な印象で、

暮らしが縮むこと=良くないこと

消費が落ち込むこと=良くないこと

そう捉えているのかと思う。

経済的に云ったらそんなこと当たり前だと言われそうか。けど、

暮らしが縮んでもいいじゃないか・・・

消費が減ってもいいじゃないか・・・

「言えないコトバ」 益田ミリさん

2012-06-27 09:47:10 | 新聞を読んで
私の好きな新聞の書籍広告の欄に今日、こういうのがあった。

「言えないコトバ」というタイトルで、

その案内としてのコピー・・「ズボンをパンツって呼べない!など、

言葉の不思議を綴るコミックエッセイ。」

・・・というもの。

どんな内容なんだか読んでないからわからないのは勿論だけど、

こういう本が世に出て来ている事が嬉しく感じる。

言葉の不思議と表現してあるけど、

ズボンをパンツと呼べない、その意識カラクリがわかると不思議でもなんでもなくなる。

どんなことも不思議が不思議でなくなるのは、

それがどうしてそうなるかを合点!した時。

そうなったプロセスを納得した時だ。あ~、そうなのかって。

だからこそ、不思議?だと感じることが大事というか、大きい。

それを不思議と思わなかったら、意識に何も始まらない。




黙殺?? ⑤

2012-06-19 10:42:25 | 新聞を読んで
昨日の朝日新聞の記事についての奴で、

こういうのは善意的過ぎるというような感想もあるのかもしれないなぁと思った。

実際、文科省の次長の、公表すればよかったと今は思うのですが・・

・・その発想がその時なかった・・

という発言や原発保安院の言葉を、記者は(黙殺)と捉えたんだろうけど、

実際、黙殺であったのか、そうじゃなかったのか、はどうでもいい。

例えば、その次長が公表しないことにしよう、黙殺しよう、

と去年の3月のその時点で思ったとして、

嘘を言おうと決めた、その意識の状態がその人のその時の在るがままの意識状態だ。

嘘を言いたくなる、ということが起こるのは、

それ以前の無数の経験を経て、その人に瞬時に現われる平衡状態と言える。

嘘を言いたいその事をしたくて言うんじゃない、と思う。

こう言った方が自分が痛めつけられないで済む・・・

それを実現したくて瞬時にそう言ってしまう、ということかと思う。

この感情は当たり前と思う。

それまでの時空全体でそうなって来ている、嘘を言いたくなる、その気持ちが、

自分一人で創って来たものではない、

と心の奥深くでひとは知っている。

共に創って来たんだ、一部である自分だけ責めないでくれ・・・

そんな悲鳴のようなものが嘘をつくという現象に現われているんだと思う。

謂わば、その行為は誰のものでもない。

その人も含め人類の時空全体で共に創った行為だ。

まぁ、全ての現象がそうなんだけど、

そのようになっている現象を、どう捉えるのか、

それがそれ以後の展開に繋がる。

(黙殺)と捉え、その個人、組織を犯人扱いし、とっちめる。

それも一つの方法ではあると思う。

今までそうしてこの世界を創って来た私たちだ。

身体の一部が不調になり、それを犯人扱いして取り除くという今の医学と同じだ。

(捉え)という意識がそのような行動を起こすのだから、

いろいろな場面で同じような現象が生まれるのは当然。

その現象をどう捉えるのかで、現象は変わって来る。

全ての現象に言えること。

黙殺??③

2012-06-18 16:15:32 | 新聞を読んで
その朝日新聞の記事の中に「責任の所在はあいまいなままだ」

「避難国民に一刻も早く情報を伝えるという責任感は文科省にも保安院にも希薄だった」

というのがある。

本当に大雑把な独りよがりの観察だなぁとつい思ってしまうし、

責任をハッキリさせてそいつをとっちめたい、というようなニュアンスを感じる。

国民がどうなってもいい、被爆してもかまわない、

そういう意識が顕在化していた、なんて言えないんじゃないか。

みんなそんなに非情じゃない。

あの地震があったあの頃、いろんな場のたくさんの人たちが

そんなふうに悪人だったとはとても思えない。

人間というものをそんなに見くびってもらうのは困る。

そういう記事を書く人たちには、

人間はそういう邪悪なものだという大前提があるんじゃないのかなぁ・・・

黙殺?②

2012-06-18 15:33:51 | 新聞を読んで
福岡先生の「「平衡が揺れているということは本当はそこに秩序がないということ。

なにかしら生命現象に因果関係を求めるのは、幻想なのかもしれない。

なにかがなにかの原因であるということは、

止めたときにドミノ倒しのように見えているだけで実はそうじゃない。

後から振り返っていくと、この現象が起きたからここが原因だ、

と見えてきますが、そのプロセスを巻き戻していくだけだから、

同じ現象が起きたら同じことがまた起きるとは限らない」

・・という発言があるけれど、

意識というものは人が創ったものではないし、生命であり、

生命現象だと思うので、

今回の報道が云っているのも、ここが原因だと見たい、

そういう意志が働いているように見える。

ひとは見たいものを選択して見ている。無意識に。

見たいものを見ている、という記述もどこかにあったし、そうなんだと思う。

「動的平衡」か「せいめいのはなし」どっちだか忘れたけど。


『動的平衡』は「意識の問題」と「記憶の問題」とも、

福岡先生は云っているけど、わかる気がする。

「後から振り返っていくと、この現象が起きたからここが原因だ、

と見えてきますが、そのプロセスを巻き戻していくだけだから、

同じ現象が起きたら同じことがまた起きるとは限らない」

・・・全くその通りと思う。

全ての一致で、事はその時その場で起こった。

この現象で、もしアメリカ側の誰かが、

「このデータを送ったけど、

日本政府はどうして公表しないのですか」と菅首相に電話して、

公表を勧め、「危険地域に避難する事は避けた方がいいと思いますよ」

とでも言っていたら違う現象がそれに続いたかもしれない。

(実際どんなことがあったのか知らないので、勝手に書いてるけど)

アメリカ側がそれをしなかったのは、

そこまでするのは僭越だと思ったとか、思わなかったか・・

データだけただ、送ればいいと思ったか、

送れと指示した人がその位わかるだろうと思って、そこまで指示しなかったのか、

これも勝手な妄想だけど・・・

そのアメリカ側からの電子メールを受け取った外務省の誰かが、

文部科学省や原発保安院にそれを送信する時に、

危険区域に避難することは避けた方がいいのではないか、というような

コメントをつけていたら、違った現象が起こったかもしれないし、

外務省の誰かも他のことに頭を占められていて、

そういう発想が浮かばなかったのかもしれないし、

そういう発想が浮かんだけれども、無意識のうちに、

それは越権行為になるからというのが働き、やめたのかもしれないし。

これみんな今、考え付いた私の勝手な推測なんだけど、

実際にはこういった無数の意識の可能性がある。

その瞬間瞬間で無数の選択肢の中から無意識にそれを選んでいる、のだけれど、

ひとは無数という全体を見られないから、

部分である自分のその時の意識で何かをしている。

仕方がない。起こったことは済んだこと。

けれど、その意識プロセスを明らかにするのは意味あることと思う。

あぁ、自分はこういう意識の状態になって、こういうことをしたんだな、という自覚は、

必ずその後の時点で役立つ。

人をより自由なものにする。

どの時点での現象と意識なのかを観察出来ない状態で、

過去の現象の止まった形を見て、自分流にその“原因”を探り、

それを事実かのように、無自覚に判断し、

それを非難否定する魔女狩りは、

人をすくませるし、生きる事を窮屈にし、不自由にする。

そう思う。

黙殺???

2012-06-18 11:57:34 | 新聞を読んで
今朝の朝日新聞の一面、

「米測定 避難に生かさず」

「福島原発事故 政府、線量図放置」

2面に「命守る情報 黙殺」と大きな活字が並んでいる。

アメリカのエネルギー省が去年の3月17日から19日、

米軍機で空から放射能測定(モニタリング)を行なって詳細な汚染地図を作成したが、

その情報を受けたのに、日本政府は公表せず、

住民の避難に活用しなかった、との批判記事。

あぁ、又、メディアは正義の味方をやってるなぁ、と思う。

正義の味方には悪役が必要。

そして悪役を創りだす。


新聞を読むと、その情報を3月18日に外務省から受け取った文科省の次長は、

「すぐに公表すれば良かったと今は思うが、

当時は提供されたデータを住民避難にいかすという発想がなかった。

安全委などにも伝えるべきだった」と話したという。

とても正直な話しだと思う。

その時点でそのようで在ったというのはわかる気がする。


「黙殺」と言えるからには、

このデータを公表した方がいいと、その時点で思っていたが、

公表しないことにしよう、という意志があったということだ。

「黙殺」の意味はそれを無視したということだ。

無視とは在ることを知って、見ない振りをすることだ。

無視するとは意志を表わす言葉だ。

そういう意志がこの次長に在ったと、朝日新聞はわかったのだろうか。

そういうことだとわかっていたのだろうか。

いつ、それがわかったのだろうか。次長がそう発言したのだろうか。

実は黙殺したのです。国民の事なんか何も考えちゃいなかったんですと

彼は言ったんだろうか。朝日新聞の記者は多分自分の書いた原稿について、

そこのところが無自覚だったのではないかと思う。

この人は公表しないことにしようと意志したのではないと思われる。

これは私の推測だけれど、この発言の文脈からは、

正直に話していると感じる。

あの当時、それどころではなかった・・・

原子力・安全保安院の人も原発制御で必死だった、という記事もあったように、

この次長も他のことで頭がいっぱいだったのだと思う。

なんでそうしなかった、なんていうのは

その事故の全体が見えるようになった後の時点での発想だし、

現象は意識の流れで起こるということを知らないことからの発想だと思う。

それをこの記事にした朝日新聞は「黙殺」と大きな活字で世の中に発信した。

それはそれでその時点では仕方の無いことではあるけれど。

自分が黙殺と書いたその意味を知らなかった、

ただ未熟だということなんだから。

けれど、思ってしまう・・・

この報道でまた誰が悪かったのか、

そんなふうな続きがありそう。

中世の魔女狩りに似たような感じ・・・





表現

2012-06-01 16:49:35 | 新聞を読んで
現在日本の人口が一億あるとして、ホントはもっとあるみたいだけど・・

例えば今日のある時間に、殺人があったとして、

一億人のうちの一人が人を殺した・・それを事実という・・

あとの9千9百9拾9万9千9百99人の人の

起こした現象は、新聞に載らない・・

殺人を犯さなかった人の起こした現象も、それも事実ではある・・

偏っている、といえば言える。

まぁ、表現の自由というけど、

何のための自由か、というのはあるかもしれないね。

それを報道する事を通して何を伝えたいのか・・

殺人の事細かいやり方まで堂々と一面記事にしたりして・・。


何か事件があると似たようなことをする人が出てくる。

その記事に触発されるものが出て来るのかと思う。

獣性が引き出されるんだろうな。

日光の三猿の話の「見ざる」はかなり有効だ。

見えないものに反応はしない。

「寝た子起こすな」というのもそういう意味なのか知らん。


以前に銀行のATMが建物ごと壊されたことが起き、

新聞は、どうやってそれをやったか、こと細かく説明、表現し、

テレビ局は映像で誰にでもわかるように、

ATMの壊し方を伝えていた。