歌わない時間

言葉と音楽について、思うところをだらだらと。お暇な方はおつきあいを。

「城の古址」・教会・春徳寺

2011年08月20日 | メモいろいろ
鳴滝の入り口のところにある春徳寺さんは臨済宗のお寺ですが、あそこはキリシタン時代にはトードス・オス・サントス教会があった場所だそうで、石碑が建っていた。石碑だけぢゃなくて、坂を登ったところの道の壁に石がはめ込まれていて、ここがカトリック教会にとって?重要な遺跡であることが顕彰されていたように憶えています。

新大工町の商店街から桜馬場中学校のほうへそのまま通りを歩いていって、桜中の手前で左折して坂を上がると、突き当たりに「トードス・オス・サントス教会跡」の石碑がありました。そこを右に折れると鳴滝、左に折れるとすぐ春徳寺。

山門の手前の階段をちょっと下りて、春徳寺さんに沿ってぐるっと回るように狭い道をあるいて、出たところの坂をまた登っていくと、春徳寺裏手の墓地です。家並みの向こうに長崎港が見えた。その斜面にひろがる墓地群の裏山にある「城の古址」というのが、長崎の領主・長崎甚左衛門のいた古城の跡、と伝えられていました。

「城の古址」は、上のほうは岩ばかりなんですが、確かに下のほうには空堀らしい遺構があった。中世城郭の遺構としては貴重なもんだったろうと思いますよ。今はあのへん、どうなっていますかね…。

長崎甚左衛門というのはかわいそうな人で、大村純忠が長崎をイエズス会に寄進したせいで長崎を追われて流浪したとかいう話です。

教会が建てられたのは長崎がイエズス会領になるよりも前です。ということは、一時期は、教会の裏山に、長崎甚左衛門のお城が共存してた、ってことになりますね。そしてその後、時が流れて、甚左衛門が去り、教会が破却された跡にできたのが春徳寺、と。自分の通っていた中学校の裏手に、そんな歴史があったんですよ。長崎にいたころから、知識としてはなんとなく知ってましたけど、ふりかえって歴史をこうたどってみると、なんかもったいない気になりますね。もっとちゃんと調べときゃよかった。