歌わない時間

言葉と音楽について、思うところをだらだらと。お暇な方はおつきあいを。

丸谷才一『袖のボタン』

2011年08月30日 | 本とか雑誌とか
丸谷才一『袖のボタン』(朝日文庫)読了。短編のエッセイ36編を収める。新聞連載だそうですが、ちょっとどうでしょうか。新聞の紙面の限られたスペースにそれぞれの文章を押しこむことにきゅうきゅうとしていて、あるいは調子が出る前に枚数が尽きちゃう感じで、闊達な気配がぜんぜんないのね。無理している。口調も『オール讀物』の時とは違ってあいそがないし。年寄りに無理をさせたらいけないと思う。

丸谷さんが大好きな歌舞伎役者は勘三郎と海老蔵で、これは前から分かっていましたが、このふたりに次いで、仁左衛門と吉右衛門が御贔屓らしい。(女形については分からない。やはり玉三郎か。)それから、モーツァルトで1曲えらべ、と言われたら『クラリネット五重奏曲』だそうだ。まあそういう、ファンにとっては「へー」と声が上がるような情報はちらちら出てきますが、大したことはないですよ。

伊東祐子さん(この方、もしかして「すけこ」さんてお読みするのかしらん?)て研究者が、『源氏物語』の匂宮と薫は、愛人の浮舟に向かって話をする時に引き歌を用いていない、ってことを発見なさったよし。浮舟は田舎者なので、ふたりから見下されているのだ。丸谷さんも喜んでいるが、こういう話はわたしも好きだなあ。

「モノノアハレ」と題された一編。いきなり「秋が深む。」と丸谷さんは書きはじめているのだが、この「深む」は微妙ぢゃないかねえ。たしかに『日国』第二版を見ると、「(秋が)深まる。」のつもりで「深む」という例もないではないらしい。マ行五段動詞で、木山捷平「秋がだんだん深んで行った」(1933年)という例が上がっている。活用は、深まナイ、深んデ、深む、深むトキ、深めバ、深め、深もウ、ですか…。この「深む」は俳句では今も使われるらしい。なるほどね。しかし、うーむ、少なくともわたしは、ふつうの散文の文章ではたぶん死ぬまで使わないなあ。丸谷さんは和歌の「秋深み」なんて言い方に慣れているから、それでつい「秋が深む」なんて書いちゃったんぢゃないのかなあ。