歌わない時間

言葉と音楽について、思うところをだらだらと。お暇な方はおつきあいを。

ディック・フランシス『度胸』

2011年08月11日 | 本とか雑誌とか
ディック・フランシス/菊池光訳『度胸』(ハヤカワ文庫)再読。主人公はロバート・フィン。26歳、騎手。フィンにとって先輩騎手にあたるアート・マシューズが、レースの行なわれている日の競馬場で拳銃自殺する。それをフィンが目撃するところから話がはじまる。フィン自身は騎手になってまだ2年目の新進で、注目されてもいず、収入も少ない。どちらかといえば口数は少ないけれど、でも言うべきことは言う男で、血の通った性格を持ち、常識的な判断力もある。みじかい第1章だけでそれだけのことが分かるように書いてあります。

次の第2章、最初のパラグラフは「ケンジングトンのアパートはからであった。きょう二度目の配達分の手紙が何通か入り口の横のバスケットに入っていた。取り出して自分あてのものをよりわけながら居間に入って行った。」むろんあとで調べて知ったんですが、Kensington(日本語ではケンジントンと書かれることが多いようだ)はロンドンの高級住宅地だそうで、ロンドンの読者は、まだペーペーの騎手だと思っていたロバート・フィンがそんないいところに住んでるのか、と、このパラグラフだけで思うんだろう。実は彼は高名な音楽家一族の出身で、父は指揮者。母はピアニスト。なのに、ただひとり彼だけが、音楽の才能がなかった。演奏旅行の足手まといになるからという理由でフィンは休暇のたびに農場に預けられた。その農場で、乗馬を覚えたわけですな。同居してるくらいだから、いまは両親とは折り合いをつけているけど、息子の職業について、両親は今もまるで無関心。

ロバート・フィンが結婚しようとしない理由は従姉妹のジョアンナで、じつは彼女もクラシックの歌い手(たぶんアルト)。すでにロバートはジョアンナに結婚を申し込んだことがあり、断られている。血縁が近すぎるから。それに「あなたでは胸がわくわくしない」という理由で。でも、このジョアンナがいいんですわまた。一族のなかで、このジョアンナだけは、ロバート(ロッブ)のことを理解してくれている。(ただしジョアンナは競馬には興味なし。)つかず離れず。ちょっとかわった関係だけど、これはこれでアリだろう。ディック・フランシスの小説にはたいてい、追いつめられた主人公を救いとめてくれるキャラクターが出てくるけど、この小説ではそれがジョアンナなのである。

ああもう書きすぎました。一族からの疎外感、ていうのが通奏低音みたく作品全体に底流しています。ストーリーは一直線で、敵役は早々と面が割れてしまいますが、ロバート・フィンの追いつめられ方もそれに対するフィンの復讐も手に汗にぎる展開で、わたしは一気に読みました。