金町駅を電車が発車しました。次は柴又です。
電車が居なくなると、何にも無い駅周辺です。
遮断機が上がると狭い商店街が在ります。
もう電車は見えなくなりました。
ホームにも誰も居ません。単線鉄道です。
商店街を行きます。
残暑の昼下がりです。人通りは少ないです。
踏み切りを振り返ります。高層マンションが建設中です。
この商店街も民家に建て替わりつつあります。
この商店街が、旧水戸街道なのです。
往時は主要街道だったのです。
金町駅を電車が発車しました。次は柴又です。
電車が居なくなると、何にも無い駅周辺です。
遮断機が上がると狭い商店街が在ります。
もう電車は見えなくなりました。
ホームにも誰も居ません。単線鉄道です。
商店街を行きます。
残暑の昼下がりです。人通りは少ないです。
踏み切りを振り返ります。高層マンションが建設中です。
この商店街も民家に建て替わりつつあります。
この商店街が、旧水戸街道なのです。
往時は主要街道だったのです。
まだ駅前広場が工事中です。ここにあった屋台の店を整理して再開発する計画です。工事フェンスがズラリと立ち並んで殺風景ですが、原宿みたいに小綺麗にするんじゃないよ。下町なんだから・・・
見送る妹、振り返る兄です。
あんなに沢山の人が写真を撮っていた銅像です。周辺には人がワンサと居ました。
誰も来ない・・・ こんな柴又は初めてです。
別れる兄妹。
心配そうに見送るさくら。
振り返る寅次郎。
その台座には、「寅さんは損ばかりしながら生きている 江戸っ子とはそういうものだと別に後悔もしていない 人一倍他人には親切で家族想いで金儲けなぞは爪の垢ほども考えたことがない そんな無欲で気持ちのいい男なのになぜかみんなに馬鹿にされる もう二度と故郷になんか帰るものかと哀しみをこらえて柴又の駅を旅立つことをいったい何十辺くり返したことだろう
でも故郷は恋しい 変わることのない愛情で自分を守ってくれる妹のさくらが可哀想でならない ーごめんよさくら いつかはきっと偉い兄貴になるからなー 車寅次郎はそう心に念じつつ故郷の町をふり返るのである 1999年8月 山田洋次」
21年前に、こんなことが書かれていました。
人が居ないのでじっくり読んだ次第です。
災害を残して台風10号が去りました。年々勢力が大きくなります。日本は亜熱帯地方になったのですね。水が濁っています。河岸の葦が上流に向かって大きく揺れます。強い南風が残っています。電車が行きます。空は青いです。
撮影が再開されました。少年野球のドラマでしょうか? 随分大掛かりです。
荒川を行きます。
残暑の帝釈天前です。
晩夏の太陽が色濃く影を落とします。
ここから人が居ない境内を撮るのが困難でした。
参道商店街です。人が居ません。
浅草仲見世と並ぶ門前町です。浅草より外国人観光客が少なかったここ柴又は、もっとコロナ禍の影響が大きいように思います。想定外です。日本人が来ません。
参道商店街を自転車で行きます。自転車に乗ってここを走るなんて、1年前には想像できません。考えたこともありません。
振り返ります。今まで撮ったここからの写真は、観光客の頭ばかり写っていました。
映画「男はつらいよ」縁の団子屋にも客が居ません。
どの店の前にも客が居ません。
「神明會」の看板の向こうは鎌倉街道です。
振り返ります。
暗雲が覆いそうな参道商店街です。
昨日の風と雨で落ち葉がこびり付いた「矢切の渡し歌碑」です。
うわあ! 随分茂りました。夏草の勢いは凄いと感心すると共に、いつも綺麗にしていたのに、と心配になります。
桟橋の先で船頭が声を掛けます。界隈には私しか居ません。風が強い平日のお昼時です。
客待ちの渡しです。
暇な船頭には申し訳無いですが、これはこれで絵になります。
値段表や運航方針を眺めます。
「今日は乗らないよ」
「渡し」の看板を眺めます。
エンジン音がするので桟橋に行ってみます。船が松戸矢切の向かっています。直射日光が暑いものね。向こう岸は日陰だものね。
私的には、この絵が必要です。
桟橋と渡し船です。
そして、誰も居なくなった渡し場です。
もう少し涼を取ります。
9月の声を聞いて1週間になりますが、気温は真夏日です。江戸川の土手下を走っています。見上げるのはバス停と、秋みたいな空です。
バス停とバス停の間に階段が在ります。土手の中ほどを走る道路の、上り下りのバス停のどちらへでも行かれる階段です。
この土手を上がります。
押しボタン式信号を渡って最終の階段に向かいます。
最後の階段です。自転車を抱えて上がります。
途中休んで、柴又方面を見ます。雲の動きが早い空です。
土手の頂上が見えて来ました。江戸川の向こう岸にある高層マンションが現れます。
視界が開けました。土手の上です。柴又方面です。
浦安方面は雨のようです。
対岸を望みます。向こうは千葉県です。
下町ロケットの主人公と同様に座ります。
今日は河川敷に誰も居ません。夏休みが終わった平日の江戸川です。
上流方面です。江戸川の上だけ雲が切れています。
振り返って、下町の屋根と、遠くにスカイツリーを眺めます。
日陰が無いので暑いです。
あの雲の下へ行きます。柴又界隈へ行きます。
おっ、玄関のシャッターが半分開いています。
屋号の謂われの宝船の木彫です。
「弓を射る」を「湯入る」と読ませます。江戸時代に始まった「湯屋」のアイキャッチアイテムです。
もうすぐ「ぬ」の板が「わ」に裏返って、「沸いた」で開店です。
私の1日の終わりを迎える時間がゆるゆると始まります。
タカラ湯は、今日の仕事がのんびりと始まります。
家の佃煮を食べ尽くしました。残暑の陽射しが白くまばゆい「本家佃煮 田中屋」です。
向こうにも佃煮屋が在ります。その向こうは高層マンション群です。新旧が共存する魅力の街です。
「元祖佃煮 天安」の佇まいを見ます。
佇まいも老舗の味です。
残暑の路地には誰も居ません。
田中屋へ行きます。田中屋のお勧めは「穴子の佃煮」です。
面白いもので、天安のお勧めは「鰻の佃煮」なのです。
佃島は古い民家が残る街です。運河の向こうに高層マンションが在ります。新旧の文化が見られる街です。
防火用水が植木鉢になっています。
ここに井戸があります。
この町は島なので出る水は塩分が高いと思いますが、ここだけでなく島内には複数の井戸が現役で残っています。そんな暮らしを続けて来た集落です。
路地が煉瓦に舗装されても井戸が必要とされる集落です。それは、家に入る前に汚れを落とす習慣があることを意味していると思います。
私が生まれた農家がそうです。仕事が終わって家に上がる前に、土で汚れた手足を庭の井戸で洗っていました。ここは漁業の集落です。徳川家康の開幕に大阪から付いて来た漁師の町です。農家と同じように、仕事の後は外で汚れを落として家に入る習慣があるのだと思います。この周囲の家の皆がそうして来たのだと思います。
路地の表通りには「屋号」を持った家があります。
この家には玄関を開けると土間があって、そこに井戸があります。今も、労働の汚れを落としてから家に上がる生活を続けています。数年前の例大祭の時の写真です。
これらの家が、徳川家康に付いて上京(当時は下野)した漁師の直系の子孫だと推察しています。
この薮の陰に井戸が在ります。新しいアパートがありますが、古い民家の間に枝道のような路地があります。
こんな、人ひとりがやっと通れる狭い路地です。
その一つを行ってみます。
振り返ります。あの明るい場所が井戸のある路地です。
ここには居心地の良い日陰があります。残暑厳しい東京ですが、涼しい風が通ります。子供の頃に体験した心地良さです。
佃島は月島とはちょっと違った新旧共存の街です。あの高層マンション群は運河に隔てられた一角に集中しており、こちら側の古い町並みとは隔離されています。ある意味、違う世界が隣接しています。
佃小橋の上から聖路加タワーを見ます。あのビルも隅田川の向こう側です。佃島はある意味近代建築物を眺める街です。
佃小橋からマンション群を見ます。佃島の代表的な景色です。
こちら側では銭湯が健在です。
こちら側では住吉神社の大祭が行われます。この立て札の下に、大祭で使う幟を掲げる木の棹が埋まっています。
こちら側は徳川家康の江戸開幕事に大阪から付いてきた漁師の子孫の町です。そして今でも漁を行っています。
水辺に下ります。佃小橋を見ます。手前の四角いスペースが、大祭で使う木の棹が埋まっている場所です。佃島の人達には大切な場所です。
永い工事が終わって船が戻って来ました。
桟橋の向こうの緑の屋根が住吉神社です。徳川家康に付いてきた人達が大阪の住吉大社を分祀しました。
住吉神社脇のこの水路を通って、正面の水門を潜って隅田川に出ます。今日は水門が開いています。
満潮の水路です。
佃島に来ると必ずお参りします。
いつもの狭い参道を行きます。
そして、いつも見上げてしまいます。大銀杏です。
参道の中央に在ります。
手水を使います。
天井を突き抜ける銀杏の大木を見上げます。
いつ頃からか英語の説明書きがあります。
お参りします。
以前から気になっていた立て札です。ここに書かれている地蔵尊が特定できません。この柵の奥でしょうか?
失礼して上から覗き込みます(大変失礼な行為です)。よく見ても地蔵尊の御影は見えません。もう消えてしまったのでしょうか? 罰当たりな行為をすると見えないのでしょうか?
一方、立て札の手前の石には、地蔵尊がハッキリと見えます。これ(失礼)のことでしょうか? だったら奥の囲いの中の石(失礼)は何でしょうか? 大切にされているように思います。
今日も得心できないまま帰ります。社の半分以上を銀杏が占めています。本当の御本尊はこの銀杏じゃないかと思ったりもします。
天井の隙間がギリギリです。
地蔵尊の社の前は民家の玄関です。多分この家の方がお世話をしているものと勝手に思っています。住職みたいな存在ではないでしょうか?
東の参道から振り返ります。
屋根を突き抜けた大銀杏を見上げます。
今日も取り留めのない参拝になりました。疑問・煩悩の固まりです。
久しぶりに行き当たりました。閉店した米屋です。玄関が開いていました。
覗き込みました。あぁ、懐かしい景色です。子供の頃に還ります。
それは、去年の今頃、偶然行き当たった閉店前の姿と一緒でした。
お米や醤油などの商品が無いだけです。
この景色と再会できただけで、今日は良い日だったと思いました。
玉ノ井の娼館は大正7年頃から始まったと言われ、大正12年の関東大震災で被害に遭った、浅草から流入した業者によって発展します。大正15年には娼婦の数が653人でした。昭和5年には902人との記録があります。一般にいう旧「玉ノ井遊郭」は「玉ノ井いろは通り」の南北になります。南側にあった「私娼窟」は東京大空襲で焼けてしまってその痕跡はありません。北側は無傷だったので、戦後の「赤線」に続きます。東京大空襲で焼け出された南側の業者が移転した先が「鳩の街」(の現況はこちら)です。
さて、戦争で焼けなかった戦後の元赤線地帯を訪問しました。「玉ノ井」の名称は各所に残っています。
もう随分年月が経っているので、痕跡も残っていないと思い込んでいたのですが、実際に見てから結論を出そうと思い、今までよりちょっと丁寧に散策しました。娼館の特徴は、カフェ風建築の丸い柱と大きな窓です。確証はありませんが、この路地の正面がそうだと思います。
「鳩の街」より保存状態は悪いですが、その特徴を残した家をサラリと眺めました。タイル貼りの円柱を塗料の吹き付けで目立たなくしています。
窓の装飾も特徴的です。
同様にこちら正面玄関脇です。
以下、説明抜きで。
こちらにも在りました。円柱の家です。
ここもそうだと思います。みんな古い建物をリフォームして使っています。これは「鳩の街」でも「須崎パラダイス」でも同様です。
向こうは東武スカイツリーラインの高架です。
無かったことにしてはいけません。貧しい時代に存在した歴史の名残りです。皆が正業で暮らせる経済が必須です。
夏休みが終わっても学生が戻って来ません。
今日は秋の風情です。
学生がキャンパスに居ません。
どうするんだ日本? 全ては菅さん頼みか?
もんじゃ焼き屋を巡っています。コロナ禍の影響は大きいです。平日ということもありますが、誰も並んでいません。
新しい超高層マンションが完成しました。この街にどのような影響をもたらすのでしょうか?
もんじゃ焼き屋を巡ります。この路地はいつも曲がる路地です。
「もん吉」です。月島の魅力はこんな路地です。
「まぐろ家」は人気店です。
「わらしべ」は「タートルネックの上野クリニック」のCMの店です。
・・・一角が地上げされて、新しいマンションができて、広い範囲の路地が無くなりました。このマンションが切っ掛けになって開発に拍車が掛るように思います。
路地を行きます。
この路地もいつかは無くなってしまうのでしょうか? 一方で、そんなに日本経済は発展できないようにも思いますが・・・
好い雰囲気の店ですが、もんじゃ焼き屋ではありません。
メインストリートを外れて更に路地を離れると、月島らしく無くなって普通の街になります。
開発で路地が少なくなっていきます。
傍観者の利己的意見ですが、魅力あるこの景色、残らないかなあ・・・?