Annabel's Private Cooking Classあなべるお菓子教室 ~ ” こころ豊かな暮らし ”

あなべるお菓子教室はコロナで終了となりましたが、これからも体に良い食べ物を紹介していくつもりです。どうぞご期待ください。

ハーブ

2017年07月20日 | ヴァイパー(毒蛇)ワイン

  

    An engraving of eight of the thirteen Gunpowder Plotters of 1605 by van de Passe

    右から三人目がガイフォークス

 

一方、ローマ軍が去ったイングランドは、カンタベリーのアウグスティヌスが率いる宣教団と、アイオナからノーサンブリアに移植されたケルト教会のリンデスファーン修道院の布教により再びキリスト教化されますが、9世紀にヴァイキングの度重なる襲撃により荒廃しますが、その後、ベネディクト会修道院がこれらにとって代わります。15世紀になると、ヘンリーⅧ世の離婚問題で国王とローマ教皇との間に軋轢が生じ、イングランド国教会を設立する方向へとカジを切り、女王エリザベスⅠ世が即位すると、イングランド国教会を国教に定めます。16世紀になると、国教会と対立するカルヴァニスト達が、一つの勢力として台頭しました。 

(スコットランドでは、ケルト系カトリックと、カルヴァン派プロテスタントが、イングランドでは、ローマンカトリック、イングランド国教会、カルヴァン派プロテスタントが基本となる宗教であったと考えられます)

 

スコットランド女王メアリーもその息子のジェームズⅠ世も敬虔なローマンカトリックで、カトリックを国の宗教として推挙したいのですが、スコットランド、イングランドのどちらからも宗教的同意(カトリックに改宗する)を得ることは出来ませんでした。

ジェームズは、1584年5月に「暗黒法」を発布して、最高権威者は国王であると決めつけたのですが、反発は強く、1592年には「黄金法」、1598年には「司教国会議員」を認め、結局、教会の推す3人の司教に国会議員同様の立法活動をずるずると許すことになってしまいます。

 

「ハーブのベルガモットの話からオキシメルに始まった話はどこまで脇道に入り込むんだ」とお思いの方もおられるでしょう。或いはそんなことは全く無頓着で読んでおられる方もおられることでしょう。あとしばらくの辛抱です。

 

エリザベスⅠ世が3/24/1603に崩御します。女王の崩御に備えて国王秘書長官であるロバート・セシルは、ジェームズがイングランド王に即位する布告の原案を準備していました。ジェームズが7/25に戴冠し、スコットランド王とイングランド王を兼ねた同君連同の体制を敷いたのです。

ここで後々問題が起きる要因となるのは、エリザベスⅠ世が最後の最後までジェームズの戴冠に合意していたのか否かをイングランド側が明らかにしていなかったことです。イングランド側の体制を持続するのか否か。忖度せよとの条件で、ジェームズはイングランドを引き継いだのでしょう。しかし、一旦引き継いだからには、引き継いだ側に主権が移るのは当然です。そう考えるのは私だけではないでしょう。

 

翌年の1604年、イングランドの国教会や清教徒など宗教界の代表者たちを招いて会議 (Hampton Court Conference) が開催したのです。ところが、この会議で国王は 「主教も、国王もない (No bishop, no King) 」 との言葉に象徴される、国教会優遇政策堅持の宣言を行ったのです。ジェームズⅠ世はカトリックと清教徒の両極を排除することを宣言したのです。これはカトリックの人たちにとってはショックでしょう。あれほどの敬虔なカトリック信奉者が一体どうしたのでしょう。( 私は、ロバート・セシルの影を見たような気がしてなりません。)

当然、カトリックと清教徒の両方から反感を買うことになります。1605年にはガイ・フォークスらカトリック教徒による、国王・重臣らをねらった爆殺未遂事件(火薬陰謀事件)が起こったのです。

( “ No bishop, no King “は解釈の分かれるところかもしれませんが、ジェームズの国教会優遇政策を見れば、” 主教も、国王もない “と訳すのがいいのでは、と勝手に解釈しました。)

 

ディグビィの不運は、このような政治的、宗教的背景の中で始まり、帰結しました。