Annabel's Private Cooking Classあなべるお菓子教室 ~ ” こころ豊かな暮らし ”

あなべるお菓子教室はコロナで終了となりましたが、これからも体に良い食べ物を紹介していくつもりです。どうぞご期待ください。

ダマスクローズ 230

2021年05月12日 | ダマスクローズをさがして ― Ⅲ

一部の初期のキリスト教徒、特にギリシャ人のアレクサンドリアの聖クレメント(St. Clement of Alexandria , 150-215 CE)は厳しい禁欲主義で、すべての花と香水の使用は忌まわしいものとして非難しました。ギリシャ人は薔薇とユリをその最たるものとして名指ししました。

     

クレメントを描いたアイコン、14世紀後半

http://www.grkat.nfo.sk/Texty/kliment-ochridsky.html 

 

The writings of Clement of Alexandria. By Clement, of Alexandria, Saint, ca. 150-ca. 215 Topics; Christianity, Philosophy, Ancient, Gnosticism, Christian ethics

Publisher; Edinburgh : T. & T. Clark University of Toronto,1867 から

クレメントの説示 II 232から

 

『そして、金と宝石と変化に富む王冠を被ったユダヤ人の王たち、終油された者たちは頭にキリストの象徴を被り、(これは、)無意識のうちに主の頭を飾っているのです。宝石、または真珠、またはエメラルドは、神の言葉を指し示し、金は腐敗しない神の言葉を(表しています)。

したがって、マギ※は王族の象徴である金を誕生時に彼(キリスト)にもたらしたのです。

 

※ マギ (Magi)

 

東方の三博士(下段中央左)、ビザンチンモザイク ca. 565、サンタポリナーレヌオーヴォ大聖堂 (Basilica of Sant'Apollinare Nuovo )、ラヴェンナ ( Ravenna )、イタリア(18世紀に復元)ラヴェンナの外港クラッシスを出立し、22人の聖女の殉教者たちを連れて聖母子のもとに向かう3人のマギが画かれています。

 

そして、この王冠は、主のイメージの後、花のように色褪せません。 私も、キレニア人の贅沢な男アリスティッポスの言葉を知っています。

「終油された馬は、馬としての美点で傷を負うことはなく、終油された犬も、犬としての美点で傷を負うことはありません。人間は(そのようなことは)無論ありません」と彼は付け加え、そう言って言葉を終えた。

しかし、犬は、馬は、軟膏を付けません、知覚が優れ、女の子らしい香りを付けている人の場合、その使用は咎めを免れ得ません。

これらの軟膏には、ブレンシア(Brenthian)、メタリアン(Metallian)、ロイヤル(royal);プランゴニアン(Plangonian)とエジプトのプサグディアン(Psagdian)など、無限の種類があります。

 

(香水は)商人のために存在しているのです。彼らも、ユリとヒノキから作られた軟膏を使っていた。ナードは彼らに高く評価されており、薔薇で作った軟膏や女性が使用する他の軟膏は両方とも、湿で乾で、マッサージや香を焚きしめるのが目的です。日々、彼らの考えは飽くなき欲望の満足、尽きることのない多様な香りに向けられています。そのため、彼らは過度の贅沢にも甘んじています。そして、彼らは自分たちの服、寝具、そして家に香を焚きしめ、ふりかけます。

贅沢とは、香水の匂いを嗅ぐための賎しい目的で使う容れものを強要することだけなのです。これに気を揉み、悩んでいる者がいます。私には香水をとても嫌っているように見えるのです。』

クレメントの思想の特徴は、ギリシャ哲学と文学はキリスト教へ人々を導くために存在したという考えで、ギリシャの思想をキリスト教へ継承しようとしました。万物の流転のあいだに存する、調和、統一ある理性法則(ロゴス)が即ちキリストの存在そのものであるとしたのです。ギリシャ思想とキリスト教神学を結びつけた彼の考えは、以降のキリスト教神学に大きな貢献をしたのです。

 

それは、近くにいる人間が大切にしている薔薇、和解できない敵であるローマ人に対する自然な反応でした。西暦2世紀から3世紀のギリシャ人にとって、薔薇とローズウォーターはローマの贅沢の主たる象徴であり、消費を誇示する際には不可欠なものでした。ローズウォーターの噴水があっただけでなく、そして、床は時々膝まである薔薇の花びらのカーペットを敷かれ、宴会のゲストには薔薇の花びらが投げられました。

 

ネロが行った宴会で、この薔薇の花びらの雨は、高貴な客の何人かが花の塊の下で窒息死したとされるほどの割合に達したといいます。これは、アルマ タデマ ( 8/6参照)がヘリオガバルスの薔薇のパーティを描いた絵の誤った情報源である可能性があります。

 

ペスタムローズはダマスクローズ、Rosa x damascenaだったのでしょうか? DNA検査なしでは決定的な同定は不可能です。そのために、McCurdyは最近、文献と考古学を再調査しましたが、今日まで、思わしい結果は得られていません。

したがって、Rosa x damascenaの同義語としてのペストゥム ローズが成り立つためには、植物を詳細に説明している、先に引用したローマ人とギリシャ人の著者による形態学による説明に頼らざるを得ません

 

開花回数、色、香り、花のサイズと茂みの形、今日畑で育っている植物の記録等が必要になってきます。上で説明したように、ローズオイルの供給源はダマスクローズだけではありません。栽培者はオイル採取が仕事です。できるだけ多くのオイルを採ることが優先します。彼らは利用可能なできるだけ生産的な雑種、或いは品種のみを育てていたはずです。ローズウォーターのような貴重な商品をパエストゥムの生産者は、国際的なつながりの中で、最も生産性の高い薔薇を広範囲に渡って探してに違いありません。その目的に適う薔薇は今日であっても、当時であってもダマスクローズに違いありません。 二季咲きに関しては問題の残る点です。ウェルギリウスが農耕詩(4,119)で、パエストゥムを( biferique rosaria Paesti 2度咲きの薔薇園?)と詠んだ点は興味深いですが、最近のリモンタンシーに関する研究に照らして必ずしも役立つものではありません。

 

気候変動、特に気温の上昇は、かつて一季咲きであった薔薇にリモンタンシーを引き起こしました。花の咲いた同じ枝に再び花を咲かせることはありません。繰り返し、または継続的に開花する薔薇は、新しい枝から出た茎に、又は新しい枝に花を咲かせるのです。植物が再び開花するかどうかを決定するのは、成長阻害剤TF1に相応するRFKが関係しています。この遺伝子は、熱、水、栄養素、日長の影響を強く受けます。したがって、Rosa x damascenaがどこで栽培されているかによって異なる開花特性を示すことは十分に考えられます。

系統発生学は、DNA分析が始まると大幅に進歩しました。どの薔薇がどの薔薇に関連しているかを確実に定義するバラ科の系統樹が最近編集されました。

 

以前にもお話ししたように、今までのところダマスクローズの変異や移動を知る方法は、ローズウォーター生産のためにこれまで栽培を続けてきたという歴史的事実と、今日でも実践されているものとの製造過程を比較することに限られています。文献から得られる内容は、あまりにも貧弱です。今後期待される遺伝情報や、1/24で述べた環境考古学の分析能力の進歩を待つしかないようです。

 

       

BC1900-1600, BC1244-1209, BC699-627でのアッシリアの領土

https://sites.google.com/a/syd.catholic.edu.au/boudica/year-11-ancient-history/assyria/introduction 

 

11/30と12/24のブログで、アッシリアで既にBC4000年には薔薇の生産がされていたと書きましたが、今回はそこからお話を始めようと思います。

 

薔薇がアムダリヤ川流域から、乾燥地域を横切りローマへと、吸枝という手段で運ばれた事は既に述べたところです。(8/4,8/12参照)

ローズウォーターの生産の広がりとともに遠く離れた地での薔薇の栽培が求められるようになりました。薔薇の吸枝を暑く乾燥した地形を馬や荷車を使って運んだのでしょうが問題は当時の道路状態です。2015年に発表された研究によれば、アッシリア人によって紀元前2〜3,000年までに交易路がこの地に既に作られていたということがわかりました。

 

アッシリアの交易路と主要都市の地図紀元前2〜3 0000年、青銅器時代の11の失われた都市がマッピングされています

Map of ancient trade routes. Source: Barjamovic et al., 2017.

https://www.geographyrealm.com/mapping-the-11-lost-cities-of-the-bronze-age/ 

 

   

古代都市の名前が抽出されたタブレットKt83-k117。 画像:Barjamovic et al。、2017。

 

アッシリア帝国の粘土板に書かれている都市名を定量分析した結果、26の都市が浮かび上がってきました。そのうちのいくつかは4,000年以上前のものでした。これら26の都市のうち、15の遺跡は既に知られていました。残る11の都市は長くその所在がわかりませんでしたが、これらの都市の場所についての既知の事実をつなぎ合わせることで、行方不明の11の都市が存在する可能性が最も高い場所を特定する事ができました。その結果出来上がったのが上の地図です。

 

 


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