「この国のかたち」的こころ

敬愛する司馬遼太郎さんと小沢昭一さんに少しでも近づきたくて、書きなぐってます。

上司なんて くそくらえだ!

2005年03月20日 00時39分36秒 | 日記
 今日は送別会だった。

 いわゆる公式な送別会なんかじゃなくて、若手の有志が集まって開いた会なんだけど。ありがたいことに僕は上司だけど呼んでもらって参加した。
 僕は今年、直属の部下といえる人を二人失う。
 一人はいわゆる結婚退職で寿退社と世間では言われていて
 僕は明後日に来賓としてスピーチをする。

 もう一人は僕の職場で自分の立ち位置が見いだせることが出来なくて他の場所で自分を活かせる可能性を探す。

 彼女は3年間僕の下で働いていてそれなりに相談に乗ってきたし、おこがましいが教えても来た。随分と、いや、見違えるほど逞しくなってきたし、十分に独り立ちできる存在になってきたわけで、そういう成績も充分アピールしてきたつもりだったけれど、もっと上の人たちはそうは受け取らず、需要が女性に不利なこともあって、はっきりとは言わないけれど正規採用の可能性を提示することはなかった。

 「ほんっとにお世話になりました。」何度も何度も繰り返し彼女はそういってくれるけれど、無力な上司はすまない気持ちで一杯で、最後はみんなの前であるにもかかわらず抱きしめてあげるしかなかった。彼女も僕の涙した。
  
 でも、こんなことは毎年経験してるはずなわけで、今年に限ったことではないはずなのに、なんだか今日は悔しさに堪えきれなくて今こうしてブログを書いている。

 かいても詮無きことなれど書かずにられないこの気持ちは誰に向かう気持ちなのか分かるはずもなく書いている。

 後輩を育てられない職場環境、魅力を感じられない職場なんてどこに未来があるのだろう。

 そう思って何年になるのだろう。何人の部下を見送ったろう。

 そんなことを数える自分が情けなく、上司という肩書きなんか糞食らえと思う夜でした。 

BLOG上の人格 10万人のジャーナリスト 今昔物語的姿勢最終話 

2005年03月18日 23時22分48秒 | BLOG論
 今昔物語に登場する人々も宿業を恐れて萎縮して生活している人はいない。作者が集めた世俗の伝承は、どんなに仏教の教義に反するものでも構わない。
 そしてここには無数の残酷物語がある。幽鬼や狐狸に関する話も、陰陽術や外術のような異端に関する話も収められている。
 人間の生活に現れるさまざまな相が示される。

 世相と言えばおそらく最古のストーカーの話も登場する。

 平安のストーカー

 この話に救いはない。主人公は改悛もしなければ、覚悟もしない。ただ悶々と女を思い続け死んでゆくのみである。

 この話はフィクションではあるまいと考えている。「事実は小説よりも奇なり」というがこの記事が当時の作家によって創作されたものとは考えにくい。

 作者は実際にあった話を取材し、それが平安朝の人間の一形態としてあり得たと、読者が自分たちの日常の延長線上にあり得る話として受け入れるだろうと判断して掲載したのではないかと思われる。

 だからこそ記事になりうるのだと思う。

 そしてこの様な物語を描ききることで、世俗全体と仏教の説く世界を結びつけようとしたのではないだろうか。
 
 ブログにその日あった出来事や、今話題となっていることに対して、ご自分の批評なり感想なりを書いて記事にしている方が多い。

 そのこと自体にどうのこうの言うつもりはない。

 気になるのはブログタイトル下のgooで言えばブログの概要に当たる部分のコメントである。

 「日々の出来事について思ったことを書きつづってます。」

 「今日あったことに対するコメント書いてます。」

はノーマル。

 「ぼそぼそ書きます。」

 「勝手なことを書いてます。」

ややネガティブ調

 「ひとりよがりですけど」
 「別に読んでくれなくて良いです。」
 「わがままなこといってすみません」

はかなりネガティブ

 えーと、世間の出来事に興味を持ったのであるなら、人間として他の人間の行為に好奇心を持ったのであるならば、それは立派なジャーナリズムである。

 そしてそのことに対して記事を揚げたら、その時点で立派なジャーナリストなのである。

 だから、もっと堂々としていませんか?

 一刀両断じゃありませんが、「はっきり言うわよ!」でいいんだと考えています。

 仏教の教義に頼らなくてもあなたという人格はあなたの中で完成しているはずです。それだけで良いのだと思います。

 話が主観にかたよる?

 結構じゃないですか?いつの時代の新聞に話が偏らない記事を書いた人がいました?ありませんよ、そんなもの。

 NHKは公平だ?冗談じゃない、ある面比較的公平さは持ってるかも知れませんが、たいしたことはない。

 今昔の作者はそんなこと怖れなかった。

 好きなように書いている。脚色もせず、説教に焼き直しもせず、後世の御伽草子や昔話のように教訓や説教のあるなしにこだわらず極めて主観的に書いてます。

僕らもそうしませんか。
 
10万人を超えるジャーナリスト集団を作りましょう。世論を動かす大きな力になるはずです。

それでも尻込みする僕たちに

 太宰がいたらきっとこう言うでしょう。

「好きなようにお書きなさいな。どうせ後で書き直すんだから…。」

なんてね。





 この稿に最後までつきあって下さった方に感謝します。

BLOG上の人格 10万人のジャーナリスト 今昔物語的姿勢について3

2005年03月17日 11時29分18秒 | BLOG論
 無常観をネガティブに捉えるか、ポジティブに捉えるかで今昔物語の解釈は随分違うものになる。

 「祇園精舎の鐘の音諸行無常の響き有り、沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理を表す。」で始まる平家物語の冒頭部分は暗記するほどに読まされた記憶がある。

 一時その動きに停滞を生じたらしい。しかし現在では小学校で「日本語スキルアップ」と称して古来名文と呼ばれたものから落語の「寿限無」、物売りの掛け声に至るまで幅広く覚えさている。

 平家の冒頭では成り上り、天下を恣にし、やがて非業に消えていった歴史上の人物を列挙している。

 所詮人間は死んでゆくもの、一時の快楽を求めて何になる。欲を棄てなさい。そうすれば何事かにとらわれることなく生きてゆける。

 説教じみた教師の声が耳の底に残る。

  読む僕らはそこに、頑張ることのむなしさを叩き込まれるような気がする。
 
 だけど実際はそうじゃない。

 平家物語に出てくる武者達は「名こそ惜しけれ」と精一杯生きて華々しく死んでゆく。

 自分の命を惜しんではいない。また、どうせ滅びるのだからと生を諦めることをしない。
 

 有限で変化し続ける生を「普遍」なものとするために、最後の瞬間までいじらしいまでに生き抜く武者達の姿が描かれる。 

 むしろ生き延びようとする平家の公達の方が無様とも言える醜態を見せる。

 「無常」を限りある時間軸として捉えてはいけないのかも知れない。

 彼等は「無常」を自分の存在を「普遍」に変換する「空間」と捉えているようだ。

 一ノ谷も屋島も壇ノ浦も彼等にとってはステージなのだ。

 そこで有限な公演時間内に自分の役を演じきった人間だけが「名」を1,000年に残し、この平和な現代の僕らの心を感動で震わせる。

 いわば「無常」は「普遍」へのチャレンジ、確かな「生」への動機として「平家」では表現される。

 「今昔物語」でも同様なことが言える。


 どこが10万人のジャーナリストやねん!

  と激しく突っ込まれそうですが何とかやってみます。
 

BLOG上の人格 10万人のジャーナリスト、今昔物語的態度について2

2005年03月16日 18時46分55秒 | BLOG論
 「無常観」と聞いて退かないで頂きたい。
 
 この言葉の「無情」の意味は「一切の者は生滅・変化して常住でないこと。」とある。(世の中の全てのものは出来たり、生まれたりしてこの世に現れて、やがて死んだり壊れたりしてなくなっていく。)
という意味(←わかりやすくなってない?)

で、無常観ってなると「観」が付くから、これに(一つのことに心を集中して深く観察すること)って意味が付け加わる。

 つまり徹底して「この世のもので変わらないものはないんだ。」って思うことなんだな。

 で、何が言いたいかっていうと、この言葉の意味自体はニュートラルな存在だってことで、つまり僕らは、この言葉のネガティブな側面だけを意識しすぎているんじゃないかと思っているわけで、もっとポジティブなとらえ方をしても良いんじゃないかと思ったりするんだ。

 作家太宰治が東京大学の講師として呼ばれたことがあって特別講演をしたときに、その場にいる将来のエリートに向かって「何でも好きなことをおやんなさい。どうせ後悔するんだから。」と言ったそうだが、僕はこの言葉がいたく気に入っている。

 太宰の真骨頂とも言える言葉だが不思議と肩が軽くなる気がするのは気のせいではないと思う。

 「後悔先に立たず」はカルタにも登場する名句だが、失敗をおそれる余り萎縮しがちな姿を思い浮かべる。

 だが太宰の言葉はどうだ。
 開き直って正々堂々と立ち向かう姿が想像できはしまいか。

 「後悔」という言葉にはネガティブな面しか現れてこない。しかし見方を変えれば「後悔」も「あり得ない完璧」を救う言葉として、当初から予定に組み込むことで心を自由に解き放つ言葉に変容するのではないだろうか。

 「無常」には(人生のはかないこと)(人の死去)という意味で使うこともある。このネガティブな側面を際だたせて1000年後の我々を拘束しているのは「平家物語」の冒頭部分と徒然草であろうと考えられる。 

 
 

BLOG上の人格 10万人のジャーナリスト、今昔物語的態度について1

2005年03月15日 22時49分13秒 | BLOG論
 福永武彦氏が「今昔物語」について語った一節を借りて話を進める。

 言うまでもなく「今昔物語」は我が国説話文学の代表的傑作である。
 それ以前にも説話のカテゴリーにはいる作品はあった。一度見たら忘れられない「日本霊異記」入試によくでた「三宝絵詞」や「日本往生極楽記」などがそうであるが、「今昔」は比較にならないくらいスケールで構成されている。

 それまでの仏教的説話だけでなく世俗説話も納めている点。

 1000以上の記事がある点。

 それらが一人の作者によって書かれ、尚かつ文学的に統一されているという点。

以上のような規模を持つ作品はない。「今昔」以後に書かれた「宇治拾遺」「古今著聞集」「古本説話集」も規模は及ばない。

 福永氏は言う、作者は一人だが作者の中に明らかに異なった二人の人物が住んでいると。

 一人は学者であり、広く仏籍や漢書を自在に読みこなし和漢に通じた学識の高い人物である。

 そしてもう一人は遙かにジャーナリステックな感覚を持ち、話し好きで人をそらさず、才芸に長じ、趣味も広ければ文も自由自在、人間を観察して愉しむが内向性の性質ではなく、皮肉屋でもなくゴシップのみを追いかける人間とも異なる。
 この手の人間は新聞記者に多いのではないかと評している。

 こういった二つの人格が同一人に住んでいたところに「今昔」の凄味がある。

 ジャーナリストとは好奇心が服を着て歩いているような人間をいう。

 その目は生きた人間の住む世界に、名もない地方人の生活に深い好奇心を抱く。

 人間のさまざまな地位。性格、境遇を通して、彼等の変転する運命を追体験する能力を持ち、しかもそれを作者の主観から眺めるだけの余裕を持っている。

 そしてとにかくマニアックなまでに話を集めている。

 さらにその集めた話を一つのコンセプトで書き直している。

 それが「無常観」だ。

 

アクセス解析の効能?  叫べ! 

2005年03月13日 22時44分44秒 | BLOG論
 シャア専用道路の記事に貼り付けたHPは偶然見つけたんじゃありません。

 アクセス解析にある検索語の項目を見てたら何日おきかに「挫折禁止」という語が入っている。
そんなに有名なのかこのステッカーと思っていた。

 ふと、思いついて自分でも検索かけたら、さっきのHPにたどり着いたって訳です。

 これも一つの解析の効果なのかなって思って紹介しました。

 こういう拡がり方があるってのもちょっと面白いでしょ。
 
 ちなみに

 今日の画像は「叫べ!」見通しが悪いから叫びましょうってことらしい。

 こういうことを真剣に考えている人がいるっていうのが良いですね。

 もっともアイデアとして商品化されているわけですから立派なお仕事といえます。

猿丸幻視行

2005年03月12日 23時54分56秒 | 書評
猿丸幻視行

講談社

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 井沢元彦26才の時の作品。今は「逆説の日本史」を書いていますね。ちょっと前にテレビで見かけたら随分老いちゃったなあ、という印象でした。
 以前は歴史評論の若手のホープみたいな具合でテレビにもよく出てたんだけどなあ。
 禿げちゃって太っちゃって老け込んだ感じになってた。
 他人のことは言えないんだけどテレビって出続けてると良いけど、間が開いちゃうとダメだね。

 そんなことはどうでも良いわけで、この本はミステリー嫌いの文学少女も青年も必読の書でしょ。
 なんつったって数ある探偵の中でも異色中の異色、折口信夫を探偵にしちゃっているんだから、しかも現代の学生の意識が折口の意識に憑依して語るんだから国文系の大学生にはたまらない設定になってるはずなんだ。
 題の猿丸はもちろん猿丸太夫のこと。
 それが柿本人麻呂やいろは歌の謎をパズル駆使して次々に解き明かしてゆく、面白いと思うと同時に頭良いやっちゃなぁ~と井沢元彦を尊敬したくなる気持ちにさせる1冊。

難癖を付けるならば最後の殺人トリックに少々難ありだったけど、ミステリーの部分は元々期待してないから僕には関係なかった。

 文学における異端の説をわかりやすく且つ魅力的に紹介してくれている本ではないかと思う。

 井沢元彦はこの後も色々とミステリーを書いたんだけどこれを超える作品が書けなくて、純粋に歴史を書くようになったんだね。

 いわく付きの作品になっちゃったわけさ。

 僕は個人的に「義経はここにいる」が大好きなんだけどそれはこの次にします。


殴り合うBLOG ストリートファイトの果てに

2005年03月12日 18時27分12秒 | BLOG論
 あくまでも私見である。
 アクセスランキングの上位には僕のイメージと違うものが多々ある。

 まあ、年齢も年齢だから仕方がない。

 ゲームの攻略法や映画のネタばらしも最初に見たときは意外だった。

 自分でチェ・ジウさん画像をアップしておきながら韓流男性スターのブログもあって驚いたりしていた。今は慣れたから「そういうもの」としてブログの多面的な性格の一部を覗かせているという認識でいる。

 でも年齢。性別。趣向の差を超えたところで違和感を抱くものがある。

 なんて言ったらいいのか分からないが…

 自分で自分のブログを称して「毒舌」と言っているから僕もそれに倣う。

 この「毒舌系」にも多種あるようで自分で毒舌を標榜している場合もあり、逆に「正義」を宣言しているブログもある。

 この攻撃的ブログの標的も様々である。

 事件、事故、スキャンダル、社会的弱者の救済、政治、思想、宗教、そして個人…。

 断っておくがこの稿はブログ攻撃が目的ではない。

 僕は批判批評をすることを非難している訳ではない。

 アクセスランキング上位に位置しているいじょう、そこに何らかの真理、または僕などが逆立ちしても思いつきそうにない新しい視点があるのかと思って覗いたことがあった。

 読んでみた記事を此処であげるつもりはないが、内容は極めて常識的な視点からのものだった。

 特徴としてはブロガーの姿勢が極めて居丈高であることぐらいだった。

 こんなに興奮して書かなくても人の心を打つことは出来るはずなのにと思った。

 そして謎が残る…。


 どうしてアクセスが上がるのか?

 もう一度記事を読み返し、付いたコメントを読んで少しだけ分かったことがある。

 殴り合っている…

 居丈高の文体は攻撃する対象より読む人を傷つけるようである。

 そして気の強い人は当然のごとく反抗する。

 そして始まる泥仕合。

 そうするとアクセスが上がるらしい。

 電脳上で繰り広げられる、ノールールの果てしなきバトル。

 一見バトルロワイヤルの様相を呈しているが

 どんなにアクセスが多くてもリング上にいるのは多くて5,6人である場合が多い。

 その周りを取り囲む1000人以上の沈黙の観衆。

 静かな分だけ不気味な印象だ。

 

 ブログは独りよがりなものである。

 自主規制はその個人の道徳観や倫理観、そして個人防御という自分で築いた塀に頼るしかない。

 規制をかけても無駄であろう。

見なければいい。

 無視すればいい。

 殴り合いの中でも交わされる言葉である。

 でも止まない。

 テレビプロデューサーの大御所と言われる人と話をしたことがある。

 その人が言った
 「テレビは社会の縮図です。いろんな奴がいる。信じられない奴がいる。でもそれは現実的に社会にいる人物なのです。面白くなくても芸人やってる奴がいても、それはそれで現実の投影なんです。」(僕は出川がなんで面白いのか分からないという質問をした。愚問である。)

 ブログは今、各社あわせれば50万人を超えたところぐらいか。ウオッチャーまで入れても100万は超えないか?

 でもしっかり社会の縮図であり、僕らは僕らが日常的に生活しているレベルで危険に晒されていることを認識すべきである。


 もっと言えばこの世界に都会も田舎もなく年齢差もなく危険であるといえて、もしあなたが人の親であるならばブログを始めようとしている子どもたちに、その危険を知らせる義務があり、ご自身も、いついかなる時も初対面の人に話しかける心遣いが必要であることを自覚すべきだと考えている。
 

 最後、説教じみているね。

 失礼

 

何か憑かれてないか 静岡大学 向集団埋没傾向に関する考察

2005年03月11日 23時59分59秒 | 妄想
静岡・店員2人強殺:容疑者逮捕 目立たぬ静大生が… /静岡

 ◇「申し上げられない」 県警、黙秘のまま証拠積み
 アニメ好きの目立たない若者がなぜ――。静岡市の健康用品販売店で従業員2人が殺された事件で、県警は10日、同市内に住む静岡大生、高橋義政容疑者(24)を強盗殺人容疑で逮捕した。高橋容疑者はこれまで事件への関与を否定し、事件と直接結びつける証拠は見つかっていないが、県警は自転車のタイヤ跡などの状況証拠を積み上げ逮捕に踏み切った。ほとんど面識のない女性従業員を2人も殺害する恨みとは一体何だったのか。県警の捜査に事件の全容解明に向けた期待がかかる。【古関俊樹、吉崎孝一、賀川智子】
 重要事件での容疑者逮捕という大きな節目にもかかわらず、10日午後7時過ぎから静岡市の県警本部であった会見では幹部の顔に笑みはなく、今後も厳しい捜査が続くことをうかがわせた。森下克弘刑事部長が淡々と高橋容疑者の逮捕容疑を読み上げた後、動機や逮捕の根拠などについて報道陣から質問が相次いだ。しかし、森下刑事部長は「現時点では申し上げられない」と繰り返し「容疑者が黙秘しており、非常に厳しい事件だ」と語り、会見はわずか15分で終了した。
 県警は今回の事件で、被害者2人がいずれものど元付近をナイフでひと刺しされて失血死している点に注目。当初は複数の犯罪グループによる犯行も念頭に捜査を始めた。しかし、事件現場を丹念に調べる中で、被害者の財布がそのまま残っていたり、同じ建物内にあるクリニックでも物色が不自然な点があるため、健康用品販売店やクリニックに恨みがある者が起こした事件も視野に入れた捜査に変更。その中でクリニックとトラブルがあった高橋容疑者が浮上した。
 高橋容疑者は1月29日正午ごろ、捜査本部に任意同行を求められた。静岡南署であった取り調べは長時間に及び、30日午前0時20分ごろ、高橋容疑者は力ずくで外に出ようとして暴れ、公務執行妨害や傷害などの容疑で逮捕された。
 高橋容疑者は公務執行妨害の容疑での逮捕後は「事件前日の27日にはクリニックに行ったが、当日は行っていない」と事件への関与を一貫して否定。その後は調べに対して黙秘を貫いており、強盗殺人容疑での再逮捕を告げられても黙秘したままだったという。
 今回の事件で、県警が注目しているのはクリニック付近に残っていた自転車のタイヤ跡。前輪と後輪の大きさが異なる特殊なタイプのもので、高橋容疑者の自宅アパートから押収した自転車のタイヤと一致した。
 一方、容疑者逮捕に被害者の関係者は一様に複雑な表情をみせた。井本さんと旅行に行くなど親しかった近所の主婦(67)は「逮捕されても井本さんは戻ってこない。大事な人を失ってしまった。高橋容疑者は井本さんにどんな恨みがあったのか。まったく関係のない人を殺すとしたらひどいことだ」とうつむくように語った。
 ◇面倒見よいが頑固--高橋容疑者
 高橋容疑者は静岡大ではアニメ同好会に所属し、アニメを描く技術の高さで知られた存在だった。後輩を自宅のアパートに招いて、絵を描いて見せたりすることもあり、後輩の面倒見もよかった。しかし、一方で自分が正しいと信じたことは絶対曲げない一面もあり、周囲と衝突することもあったという。
 高橋容疑者を知る関係者によると、所属する同好会が大学祭で上演する映画を製作する際、方針をめぐって先輩と対立。自分の意思を貫いた結果、25人いた部員のほとんどが辞めてしまったが、悪びれた様子はなかったという。
 高橋容疑者に変化が表れたのは昨年夏ごろだった。「身辺整理をしたい」と突然言いだし、大切にしていたマンガやテレビゲームソフトを後輩に配った。後輩は、事件2日前の1月26日に高橋容疑者と会った。ふらりと自宅を訪れ「今日で辞めるから」とアニメ同好会の退部届を書いたという。
 高橋容疑者の自宅は、大学から歩いて数分の住宅地にある古い木造アパート。近所の男性(23)は「部屋に人の出入りはあったが、騒いだりすることはなく、目立たない感じの人だった」と話した。
 ◆強殺容疑での逮捕までの流れ
1月29日 2人の遺体が見つかり、県警が捜査開始
  30日 高橋容疑者が任意の事情聴取中に暴れ、公務執行妨害などの容疑で逮捕
2月 4日 「長時間取り調べによる逮捕は違法」と弁護士が人権侵害救済を申し立て
  14日 拘置理由開示の公判で、高橋容疑者が強盗殺人事件への関与を否認
  18日 県警が事件現場に小型ナイフを携帯したとして高橋容疑者を銃刀法違反容疑で再逮捕
  22日 高橋容疑者が弁護士を解任
3月10日 高橋容疑者を強盗殺人容疑で再逮捕

3月11日朝刊
(毎日新聞) - 3月11日16時51分更新


 警察がはっきりしないね~。

 物的証拠に乏しいところが弱点か。

 現在容疑者にされているのは静大の夜間部の学生だね。

 静大は昨年台風が近づいているときに海岸でバーベキューしてて波に浚われたことが記憶に新しい。

 なんか良くないことが続くね。

 …と、こういう見方を世間はするんだろうね。

 ついでに言うと当の静大では昼間部の学生達が「あれは夜間部の奴がしたことだから」とか言っているんだろうか。


 日本人は緊急事態に弱い。

 とりあえずかわそうとする。

 自分の身の安全が確保できた次点で思考を始めようとする。

 その「とりあえず」が問題なわけで、時に不快感を催す場合や、国際的に評価されない事例もある。

 もちろん逆の例もあるわけで、阪神大震災における神戸の人たちの地域コミュニティの協力の仕方は世界的な驚きを持って評価された。


 日本人はある一定水準「普通」というものに追いつこうと努力を惜しまない部分を共通して持ち合わせている。

目的は「普通」という集団に埋没して目立たなくすること。

 そしてその普通に追いつくと今度は「普通」のちょっと上を目指そうとする。しかし表面上は「普通」を装いながら…。



 最近自分のブログが嫌みっぽくなってるような気がする…。


 僕たちはもう個人の時代に入っている。

 集団や帰属する組織で判断をする時代ではなくなってきている。

 ライブドアなのではない、ホリエモンのしてることなのだ。

 そうでしょ堀江社長。