「この国のかたち」的こころ

敬愛する司馬遼太郎さんと小沢昭一さんに少しでも近づきたくて、書きなぐってます。

BLOG上の人格 10万人のジャーナリスト 今昔物語的姿勢について3

2005年03月17日 11時29分18秒 | BLOG論
 無常観をネガティブに捉えるか、ポジティブに捉えるかで今昔物語の解釈は随分違うものになる。

 「祇園精舎の鐘の音諸行無常の響き有り、沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理を表す。」で始まる平家物語の冒頭部分は暗記するほどに読まされた記憶がある。

 一時その動きに停滞を生じたらしい。しかし現在では小学校で「日本語スキルアップ」と称して古来名文と呼ばれたものから落語の「寿限無」、物売りの掛け声に至るまで幅広く覚えさている。

 平家の冒頭では成り上り、天下を恣にし、やがて非業に消えていった歴史上の人物を列挙している。

 所詮人間は死んでゆくもの、一時の快楽を求めて何になる。欲を棄てなさい。そうすれば何事かにとらわれることなく生きてゆける。

 説教じみた教師の声が耳の底に残る。

  読む僕らはそこに、頑張ることのむなしさを叩き込まれるような気がする。
 
 だけど実際はそうじゃない。

 平家物語に出てくる武者達は「名こそ惜しけれ」と精一杯生きて華々しく死んでゆく。

 自分の命を惜しんではいない。また、どうせ滅びるのだからと生を諦めることをしない。
 

 有限で変化し続ける生を「普遍」なものとするために、最後の瞬間までいじらしいまでに生き抜く武者達の姿が描かれる。 

 むしろ生き延びようとする平家の公達の方が無様とも言える醜態を見せる。

 「無常」を限りある時間軸として捉えてはいけないのかも知れない。

 彼等は「無常」を自分の存在を「普遍」に変換する「空間」と捉えているようだ。

 一ノ谷も屋島も壇ノ浦も彼等にとってはステージなのだ。

 そこで有限な公演時間内に自分の役を演じきった人間だけが「名」を1,000年に残し、この平和な現代の僕らの心を感動で震わせる。

 いわば「無常」は「普遍」へのチャレンジ、確かな「生」への動機として「平家」では表現される。

 「今昔物語」でも同様なことが言える。


 どこが10万人のジャーナリストやねん!

  と激しく突っ込まれそうですが何とかやってみます。