ブログはネット上に公開する日記式個人情報サイトであるという前提で話をするつもりである。
ブログで自分のペットに関する記事を上げる人は多い。
参考にはならないがgooのブログだけでも
「ペット」38845
「犬」 958223
「イヌ」5160
「いぬ」4470
「DOG・dog」9893
「猫」118306
「ネコ」25070
「ねこ」27693
3月10日(木)16時45分現在
これだけの記事が上がっている。
他にもそれぞれの犬種、ネコ種の名前についてもある。
例えば「柴犬」で2808件の記事があるが、キリがないのでやめる。
要は、多いよ、と言うことが分かって頂ければいい。
僕は新着記事から気に入った記事を拾い読みするのが好きだが、かなりの頻度でペットの写真に出くわす。
阿部昭の「猫と手袋」という話には猫と犬が比較されて登場する。
犬を飼うの人は話好き、猫を飼う人は、お互い干渉しないが存在は認知しているという存在であるようだ。
僕は猫も犬も好きだ。
でもブログで他人の飼っている犬や猫を見せられると苦笑するしかない。
もちろん犬や猫も他人のものでないものはない。カレンダーに映っているものも含めてだ。
TVCMに出てくるアイフルのチワワが亡くなったそうだが確かにかわいかった。
そういった公共性の強いペットと極めて私的なペットでは何が違うのだろう。
ブログを覗いても余りコメントは付いていないようだ。
例えは悪いが、自分の赤ん坊はカワイイ。目に入れても痛くない、とは実に的を射た表現である。
でも他人にそれは通用しない。
自分も含めて他人に「かわいい」と言わせようとする企みをするのは世に言う親ばかの常であるがペットにも同じ真理が適用されているとしか思えない。
別に良いのである。
ブログなんだから…。
これらのブログに共通して言えるのは画像に凝っていても文章に工夫がないことである。
エピソードをふまえて書けば…。
そんなに毎日はないか?
自慢したい?
共感できる友を得たい?
自分の愛情を記録に残しておきたい?
ペットに愛情を注ぐ自分を愛したいのか?
…だんだん性格が悪くなってきたぞ。
犬はいつでも何か話したそうな顔をしている。
猫は自分の都合ですり寄ったり離れたりしている。
阿部昭「猫と手袋」の引用である。
ではそのペット好きブロガーは?
猫も犬も言ってみれば一方的なコミュニケーション媒体である。
犬や猫と言葉が通じると思っている人はそれで良いです。
また昨今は犬語翻訳機なるものがあるが…。
犬猫は人間の心を傷つけるような言葉を吐いたりしない。
一面ブログもそういう面がある。気に入った人のみが見る。
観衆を選ぶことの出来る媒体と思いこみやすいのではないか。
コアなブログであればあるほど褒めてくれる人のみが集約されていけるのではないか。
お互いに傷つけない、そして必要以上に干渉しない人のみが集まるブログ
自分の言っていることが正しいかどうか分からなくなってきた。
「自己満足」を公言する日記も多い。
「ひとりごと」の稿と同じく
認められなくてもいいです。
と
自分は世間的標準から外れてるかも知れません
と半自虐的発想が垣間見られる言葉である。
自分という1個人の人格vs30万余の観衆の図式を想定すれば当然の反応かも知れない。
で、ペットブログである。
自己満足的要素は否定できまいと思われる。
しかし自分が世間一般の基準から外れてるという意識は毛頭ないと考えている節がある。
つまり客観的に見ても私のペットはカワイイと思っているということではあるまいか。
うーんどうなんだろう。
この稿を書きながら、これは眺めている方の意識に問題があるのではないかと疑い始めている。
つまり客観的に見ていないのは僕らの方ではないか?
フリフリの衣装を着せて悦に入っている場合を除いてね。
飼い主を通してペットを見ている…。
なんだかそんな気がしてきた。
追記 さっきコメント付きにくいって言いましたが例外はあります。
アクセスランキングにも入っている「しまりすのひとりごと」に載ってる犬の写真には40のコメントが付いてます。
これは極めて良い瞬間をとらえた写真として評価出来ます。
ブログで自分のペットに関する記事を上げる人は多い。
参考にはならないがgooのブログだけでも
「ペット」38845
「犬」 958223
「イヌ」5160
「いぬ」4470
「DOG・dog」9893
「猫」118306
「ネコ」25070
「ねこ」27693
3月10日(木)16時45分現在
これだけの記事が上がっている。
他にもそれぞれの犬種、ネコ種の名前についてもある。
例えば「柴犬」で2808件の記事があるが、キリがないのでやめる。
要は、多いよ、と言うことが分かって頂ければいい。
僕は新着記事から気に入った記事を拾い読みするのが好きだが、かなりの頻度でペットの写真に出くわす。
阿部昭の「猫と手袋」という話には猫と犬が比較されて登場する。
犬を飼うの人は話好き、猫を飼う人は、お互い干渉しないが存在は認知しているという存在であるようだ。
僕は猫も犬も好きだ。
でもブログで他人の飼っている犬や猫を見せられると苦笑するしかない。
もちろん犬や猫も他人のものでないものはない。カレンダーに映っているものも含めてだ。
TVCMに出てくるアイフルのチワワが亡くなったそうだが確かにかわいかった。
そういった公共性の強いペットと極めて私的なペットでは何が違うのだろう。
ブログを覗いても余りコメントは付いていないようだ。
例えは悪いが、自分の赤ん坊はカワイイ。目に入れても痛くない、とは実に的を射た表現である。
でも他人にそれは通用しない。
自分も含めて他人に「かわいい」と言わせようとする企みをするのは世に言う親ばかの常であるがペットにも同じ真理が適用されているとしか思えない。
別に良いのである。
ブログなんだから…。
これらのブログに共通して言えるのは画像に凝っていても文章に工夫がないことである。
エピソードをふまえて書けば…。
そんなに毎日はないか?
自慢したい?
共感できる友を得たい?
自分の愛情を記録に残しておきたい?
ペットに愛情を注ぐ自分を愛したいのか?
…だんだん性格が悪くなってきたぞ。
犬はいつでも何か話したそうな顔をしている。
猫は自分の都合ですり寄ったり離れたりしている。
阿部昭「猫と手袋」の引用である。
ではそのペット好きブロガーは?
猫も犬も言ってみれば一方的なコミュニケーション媒体である。
犬や猫と言葉が通じると思っている人はそれで良いです。
また昨今は犬語翻訳機なるものがあるが…。
犬猫は人間の心を傷つけるような言葉を吐いたりしない。
一面ブログもそういう面がある。気に入った人のみが見る。
観衆を選ぶことの出来る媒体と思いこみやすいのではないか。
コアなブログであればあるほど褒めてくれる人のみが集約されていけるのではないか。
お互いに傷つけない、そして必要以上に干渉しない人のみが集まるブログ
自分の言っていることが正しいかどうか分からなくなってきた。
「自己満足」を公言する日記も多い。
「ひとりごと」の稿と同じく
認められなくてもいいです。
と
自分は世間的標準から外れてるかも知れません
と半自虐的発想が垣間見られる言葉である。
自分という1個人の人格vs30万余の観衆の図式を想定すれば当然の反応かも知れない。
で、ペットブログである。
自己満足的要素は否定できまいと思われる。
しかし自分が世間一般の基準から外れてるという意識は毛頭ないと考えている節がある。
つまり客観的に見ても私のペットはカワイイと思っているということではあるまいか。
うーんどうなんだろう。
この稿を書きながら、これは眺めている方の意識に問題があるのではないかと疑い始めている。
つまり客観的に見ていないのは僕らの方ではないか?
フリフリの衣装を着せて悦に入っている場合を除いてね。
飼い主を通してペットを見ている…。
なんだかそんな気がしてきた。
追記 さっきコメント付きにくいって言いましたが例外はあります。
アクセスランキングにも入っている「しまりすのひとりごと」に載ってる犬の写真には40のコメントが付いてます。
これは極めて良い瞬間をとらえた写真として評価出来ます。
曲解してるかもしれませんが、私も同じような考えです。
ブログを彷徨っていると、ブログの良さとは反対の面が見えてきて、いやになってしまう時があります。
(記事の内容にそぐわないコメントだったかもしれません。)
それを前提に記事をあげていかないと記事自体が公序良俗に反する可能性があるんじゃないかと思ったりします。
僕を含めて誰もが「ひとりよがり」であることは否めませんが一線を越えていると思うブログがあることは確かだと思います。