「この国のかたち」的こころ

敬愛する司馬遼太郎さんと小沢昭一さんに少しでも近づきたくて、書きなぐってます。

岡山へ 建部氏について

2007年11月06日 23時43分49秒 | 人々
 金曜日にお仕事で岡山市に行ってまいります。なぜか高知だの広島の福山に行く機会はあったのですが岡山はいつも素通りでしたのでチャンスだと思ってます。

 とはいっても岡山の山中のお仕事なので大して楽しめないのですが、僕の行き先の近くに「建部」(たけべ)という地名があります。ぼくの仕事場には「竹」の方の苗字の人がいます。その人は北九州の炭坑の町の出身なんですね。で、その家のいわれとして先祖は浅野家の家老だった家柄なんだっていうのがあるそうなんです。あの赤穂浪士の浅野家ですね。
 ほんとかいなって思って調べてみると、映画なんかじゃ欠かせない役柄として建部氏が出てくるんです。播州赤穂藩の江戸家老の一人だったようです。浅野内匠頭は吉良上野介に虐められて江戸城松の廊下で意趣返しをするんですが、その遠因になったのが家老の不手際って言うのがあったみたいですね。つまり浅野家は儀礼式典に通じた吉良さんに助けてもらうしか道は無かったのですが、そういう場合は頭を下げるだけじゃなくて誠意を形に表すのが常識だった時代に、浅野家はひたすらお願いしちゃったみたいなんですね。当主は良いですよ、それで。でも実務面を担う家老はそれじゃいけないでしょ、みたいないきさつがあって吉良がへそ曲げちゃったみたいなんですね。建部氏さんもう少し空気読まなきゃってなところでしょうか。でもまあ仕方なかったんでしょうがね。
 で、討ち入りの時にはいないんですよ、建部さん。どうしちゃったんでしょうね。これも改易になった家臣の9割は仇討ちに参加してないっていう事実をみれば当然かもしれませんね。でも仇討ちに参加しなかった人たちって、その後ずいぶん肩身の狭い思いをしたそうです。
 浪人して再就職運動しても「赤穂浪人」とかいうと「あら生きてたのかい、普通死ぬでしょ。」ぐらいのことは言われたんだろうと思います。建部が竹部になったのもそういう事情があったからかもしれませんね。

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