「この国のかたち」的こころ

敬愛する司馬遼太郎さんと小沢昭一さんに少しでも近づきたくて、書きなぐってます。

田舎に泊まろう! テレビを見る目の悪意

2006年09月01日 18時06分14秒 | 人々
 「田舎に泊まろう」というテレビ番組がある。タレントさんが何のアポイントメントなしに田舎に出かけていき、土地の人と触れあいながら、その日の内に宿泊をさせてくれるお宅を見つけてお礼に家業か何かしらのお手伝いをして帰って来るという企画である。何軒か断られ、必死の思いで懇願するタレントの姿と、土地の料理や泊めてくださった方の優しさが強調されて別れ際の涙へと繋がっていく番組で何年も続いているから視聴率も良いのだろうと思う。

 この番組に限らず、事前の承諾なしに対象になった町や村に飛び込んで取材したりする形式の番組は多い。所謂素人の予想外のリアクションが楽しめるからであろうと思うし、タレントの受け答えに対する力量もみることが出来て面白い。

 もちろん全てが場当たり的に行われるはずはなく、事前の充分な調査と多少の案出はあって当然だと思う。

 そしてその手の番組の基調をなすのはテレビカメラに対する信頼感であり、人ずれしていない田舎人達の無防備とも思われる「人の良さ」である。

 実際それがタレントであってもいきなり玄関先で「今日一日泊めてください。」といわれて、それを許可する方に社会常識的な意味での「迂闊さ」は否めないかと思われる。実際僕らがみていて面白さを感じるのは「よく泊めてあげられるなあ」という思いがあるはずで、その裏には「自分のところじゃ絶対無理だし、第一安全性に対する保障はどこにもない」という考えが潜んではおるまいか。

 そして僕はこうも思う。

 こういった人の良さを悪用されはしないかと。


 僕の住んでる場所で、僕の家の前でロケが行われたことがある。それは地方局の地域情報的な特集で全県に15分ほど流れた。そして僕のおじさんの家が取材された。おじさんの家、つまり僕の家の本家は東南海地震で壊れたとき立て直し、自分の家の山から切り出した木材で造ったので材料的には贅沢であった。
 で、応対したのは僕のおじさんで、去年亡くなったんだけど、そのころから認知症が進んでいて見ていた人ならそれと分かる感じだった。妻であるおばちゃんは畑にいて、他のみんなは会社にいたり学校に行っていたりしていた。

 「昼間、大きなその家はボケた爺さんが一人でいる。」テレビに映ったおじさんの姿を悪意で見ればそういうことになる。

 放映のあった次の日に黒い背広を着た人達が何人もおじさんの家に来て、イベントをしたいから家を半日貸して欲しいという申し入れがあって、何も分からないおじさんはいうとおりに承諾してしまった。

 そして催眠商法が本家を会場として、地域の老人を対象に行われていったのだった。

 僕の父は、老齢でありながら黒服をものともせず、「何者だ!」という言葉に対し「弟だ!」と切り返し、家族の安全を図って何とか追い払ったらしい。

 父親のすごさを感じた瞬間だった。

 テレビに悪意はなかったと思いたい。


 そして報道は自由である。しかし日々無責任に流される情報は、見る人の心によっていかようにも利用することの出来る情報となりうる。

 テレビ局は、そういったリスクを承知なのだろうか、自分たちの善意を疑ったことは無いのだろうか。

 テレビに素人が登場するといつもうそ寒い感じがするのは僕だけだと思うけど。