「この国のかたち」的こころ

敬愛する司馬遼太郎さんと小沢昭一さんに少しでも近づきたくて、書きなぐってます。

JR西日本福知山線運転再開したけど…

2005年06月19日 23時16分00秒 | 日記
福知山線、運転を再開=脱線事故から55日ぶり-安全性向上、課題に・JR西

*兵庫県尼崎市のJR福知山線脱線事故で、JR西日本 <9021> は19日早朝の始発電車から、運休していた同線尼崎-宝塚間の運転を再開した。4月25日の事故発生から55日ぶり。地域の通勤・通学を支える鉄道として、安全性の向上という課題を抱えながらの再出発となった。 この日はまず、南谷昌二郎会長ら同社幹部が午前5時前から、事故現場で献花。南谷会長は「安心してご利用いただける鉄道の再生に取り組む」と、「安全の誓い」を読み上げた。 上りの始発は、宝塚駅午前5時発の木津行き普通電車。運転室には垣内剛社長も乗り込んだ。電車は同19分ごろ、速度を落として事故現場を通過。同会長は現場から、同社長は車内から敬礼し、犠牲者へ弔意を表した。同社長は同21分に尼崎駅で下車し、現場で焼香した。 (時事通信) - 6月19日20時1分更新

 と出てますが、電車の1両目からの映像は、事故に遭ってない僕なんかでも寒気を感じました。特に現場となった、マンションが遠景ににしろ見えてきて、それがだんだんと大きくなって往く映像は、巨大な墓標が迫って来るようで、仮に福知山線に乗ることがあっても1両目に乗ったりすることは出来ないだろうなという気にさせます。

 あの建物は出来ることなら取り壊すほうが、事故に遭った方もしくはテレビを通してでも事故を体験した全ての人のために必要なのではないかという気がします。

 9.11のテロの時、僕はテレビの前から離れることが出来ず、一晩中眠ることが出来ませんでした。あの出来事を経験してしまったことはある種の感受性を持った世界中の人たちの心を傷つけたのではないかと疑っています。
 
 それと同じように、今回の脱線事故は、安全性の神話の崩壊などと言う、ありきたりな表現ですますことができず、僕たちの日常の中に潜む悪魔的出来事によって、何の抵抗も出来ず、いとも簡単に、いとも容易く、そして、極めて人間の尊厳を失った形で、死んでゆく可能性があることを疑似体験させてくれた出来事なのではないかと思っています。

 戦争ならまだしも、交通事故や火事でさえ、その犠牲者の姿は公になりません。(一部の雑誌を除いて)敢えてそれを載せるのは、グロテスク趣味だとも言わんばかりの勢いです。

 そのことの是非を論ずる場ではありませんから、言いませんがあの折れ曲がった車両の映像だけで十分に被害者の痛みや苦しみが伝わって来るようで、長時間の映像には耐えられませんでした。

 線路の回復とその安全性は整備されたようですが、乗客の安全心理の回復はまで全くと言っていいほど手を付けておらず、片手落ちのような気がしてならないのです。

 子供に刺激が強すぎると言う点はあると思います。