心と体を通して見えてきたもの

個人的な生まれ変わりの体験談。心とは?カルマとは?人間の本質や使命とは?
といったことを考えてます。

心と体を通して見えてきたもの №29

2007-07-02 20:55:57 | Weblog
監督が私を怒鳴ります。「なぜやめる?」
「できません」と答えてしまうと、私は監督に石のベッドのある部屋へ連れて行かれます。
ベッドに横になると、またあの男がやってきて私に暗示をかけ始めます。
すると私は、しばらくは人を鞭で打っても平気で、何も感じなくなります。
でもしばらくすると、また、鞭で打つことをつらく感じはじめ抵抗したくなり、できなくなります。
また石のベッドに寝るように言われます。
こんなことを繰り返しているうちに、私は頭がおかしくなり監督の命令を実行できなくなったようです。とうとう監督は怒り、彼は私を鞭で打ち、私は死んでしまったようです。
私には奴隷として生きた人生がいくつかあります。もしかしたら、他の奴隷の人生と混同している部分もあるかもしれません。この人生を思い出すのは困難で、今の所これ以上のことが書けません。
山岳部の行者だったときの「決して不正を許してはいけない、悪に対し不正に対し怯まない。正義を愛すると…。たとえ相手が山賊であっても私は彼の不正を許さず、彼らの本性が愛であることを信じると、たとえこの大地が裂けようと私は彼らを愛する」という決意を思い出します。私はこの決意に基づいて、奴隷としての人生を生きることを選びました。たとえ相手が山賊であろうと、奴隷であろうと身分の貴賎はなく、どのような人の本性も愛であるという信念を現実化したかったのだと思います。
私はどんな暗示をかけられたのかはわかりませんが、たとえ自分の信念に反するものであっても、私に命令する監督と暗示をかける人の本性が愛であることを信じたかったのだと思います。この暗示をかける人と監督の本性が愛であることを信じようとする私の思いによって、私と彼らの関係を強めることになります。
私の心の奥底にある「人間の本性は愛である」という信念から、自分の奴隷仲間の本性も愛だと思っているのに、その奴隷仲間を鞭で打つことを命令されるくらいなら、命令に背いてでも自分の信念を貫きたい、奴隷といえども本性は愛だから、仲間の奴隷たちを鞭で打つようなことはしたくない、そのために自分が死んでしまってもいい、という思いがありました。このように矛盾する二つの思いのために、鞭で打つよう命令されてもだんだんそれができなくなり、とうとう頭がおかしくなり、自分の信念に反することをするくらいなら死んでしまいたいという思いを実現させるため、監督によって鞭で打たれることで私は亡くなりました。
この人生を振り返って考えようとするとき、人間の本性は愛である、ご主人様の本性もまた愛であることを最後まで信じていた、と言う言葉が出てきます。
私たちの心の中は、見たり聞いたりして、体験したことで一杯です。そのなかから、さらに体験したいと思うものを後の人生で体験するのだと思います。この人生でも自分の信じているものを体験し、現実化させようとしましたが、矛盾する正反対の思いによってそれはできませんでした。
この人生で監督として私に鞭を打つよう命じた人と、私に暗示をかけていた人が今の両親のようです。
この人生で私を生んでくれた母親は、現在私の知り合いのKさんのようです。
№30につづく
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする