心と体を通して見えてきたもの

個人的な生まれ変わりの体験談。心とは?カルマとは?人間の本質や使命とは?
といったことを考えてます。

第3章 光とともに №1261

2015-06-30 20:46:32 | Weblog
  第八圏に帰昇する人と「第八圏を超える彼方」とは
神智学によれば、人間は輪廻転生を繰り返していて、新しい人生を
生きる前にコーザル界でプララヤ(№1251)と呼ばれる状態で休んでいます。
このコーザル界は、ポイマンドレースの言う「第八の圏の神聖なる領域」のことだと思われます。
ポイマンドレースが「第八圏にいるものすべてとともに父なるものに賛美をささげ、
そしてそこにいる晴れがましき存在は、おまえの帰昇を祝福する。
おまえは第八圏にいるものと同質になり、さらに第八圏を超える
彼方からの影響力が、神への讃美歌をたえなる声でうたうのを耳にする」
という状態に人がなるには、「肉体においておこる感覚の働きと作用が、
完全に成就してしまうのを許さない(№1219)」ところまで意識が進化していると思います。
するとポイマンドレースの叡智が「聖なる者、善き者、清き者、慈しみある者、
すなわち慎重かつ敬虔な者たちのもとにきたる」ようにまでなっていますから、
転生を繰り返すためにプララヤと呼ばれる状態で休んでいるのではなく、
意識が高度に進化して、神の御元へ帰属できる状態になっていると思います。
ポイマンドレースの話の内容から「第八の圏の神聖なる領域」は、
非常に高度な意識の領域であり、造物主による万物生成が
おこなわれている「まるい領域のなか(№1053)」と思われます。
「まるい領域のなか」は、神智学の界層構造ではモナド界から物質界までで、
物質界からアストラル界までをポイマンドレースは第一圏から第七圏までに分けているようです。
「第八の圏の神聖なる領域」はメンタル界の上位三つの亜層であるコーザル界だと思われます。
「第八の圏の神聖なる領域」のコーザル界は、神智学では人間を卒業した覚者方が
居られるハイアラキーのアシュラムがあるといわれています。
アシュラムは霊的な世界であり、私たちの五官でとらえることが
できないため、私たちの意識で理解できませんが、
この地球上の出来事を、霊的な世界から支え、私たちを導いています。
またポイマンドレースの言う「第八圏を超える彼方」とは、この地球のすべての
ハイアラキー(階層構造)を統括しておられるサナット・クラマの居られるシャンバラと思われます。
サナット・クラマは非常に純粋な御方であり、濃密な物質界にあるものには全く反応できないため、
私たちのような濃密な物質形態を形成できないため、エーテル体で機能しています。
彼はこの惑星のあらゆる進化を通して生き、呼吸し、機能している偉大な存在者の
直接の反映であり、自らの磁気的な影響領域であるオーラの中に、あらゆるものを包み込んでいます。
私たちは、彼の中に生き、動き、存在していて、誰も彼のオーラの範囲から
外に出ることはできないと、神智学の本に書いてあります。
№1262につづく
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第3章 光とともに №1260

2015-06-28 20:54:28 | Weblog
 神聖なる領域のエデンの園にある二つの木
ポイマンドレースは「神の言葉がこう言っている。
万物の父は命と光から構成され、
そこから《ひと》がうまれたのだ」…
「神つまり父は光そして命。
《ひと》はそこからうまれたのだ。
おまえはこれを学び、そしておのれ自身の
命と光よりきたるを信じるならば、おまえは再び
命へと回帰しうるであろう。(№1211)」と言いました。
「神つまり父は光そして命」を、旧約聖書の
エデンの園の中央にあるいのちの木と、善悪の知識の木として
象徴しているのではないでしょうか。
「神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された(1章27節)」
神は人間にとって父であり、生命そのものであり、
「いのち」といえますし、私たちを正しい方向へ導く親であり、
光であり、「善悪の知識」そのものといえるかもしれません。
人間が成長して、いつの日か神になるのであれば、
神がこの宇宙や天地を創造したのと同じように、人間も
いつの日か神のように、創造を行なう時に必要な力や知識を、
神は与えてくださっているのではないでしょうか? 
「生命の樹」そのものは、神話や宗教的シンボルとして
世界各地で顕わされているといいます。
アダムとイヴのエデンの園・聖ヨハネの黙示録・
エジプト神話・インドの聖典ヴェーダ&ウパニッシャド・
インディアンの逸話・カバラのセフィロト・釈迦の菩提樹・
仏教の宇宙樹・ペルシャの神秘の樹・イスラム教の天上の樹・
ジャワの願いの樹など、様々な樹々の姿に姿形を変えながら、
古代から現代にまで、時を超えて輝き続けています。
それらの樹々の姿は私達の内に息づく生命の象徴(シンボル)であり、
生命の力・聖なる力・大いなる力・愛の力・覚醒させる力・
意識の階梯・生命の賛歌・人と神との融合などを示し、
私達一人ひとりの魂を進化させながら、やがては
大いなる存在・無限なる存在へと向わせる深遠なる力と考えられます。
またその時に、生命の力だけでなく、神の叡智も一緒にあることで、
神のような創造性を発揮できるのではないでしょうか。
そのために、エデンの園の中央に二つの木があるのだと思います。
こうして二つの木の実を取って食べられるほどに、
人間の意識が高度に成長したとき、ポイマンドレースの言う
「…ほんとうの力をとりもどして、第八圏にいるものすべてとともに
父なるものに賛美をささげ、そしてそこにいる
晴れがましき存在は、おまえの帰昇を祝福する。
おまえは第八圏にいるものと同質になり、さらに第八圏を超える
彼方からの影響力が、神への讃美歌をたえなる声でうたうのを耳にするだろう(№1245)」
という状態になるのではないでしょうか。
№1261につづく


ひとりごと?

2014年10月25日にアメリカのNASAが
公開した画像が話題になったそうです。
太陽の近くに巨大な何かが写っていて、
「太陽に入っていくUFOでは?」という人もいるそうです。
その物体は太陽の大きさと比較すると、地球ほどの大きさになるそうです。
太陽の表面温度は6000度、中心部分になると1500万度になるそうで、
灼熱の太陽の近くでも固体として存在することのできる物体、
もしそのような飛行物体を建造しようとすれば、
地球の現在の技術では無理で、とてつもない高度な技術といえます。
それだけでなく、「宇宙飛行士になるには、頭脳と体力だけでなく、
コミュニケーション能力などの社交性が重要だ」といいます。
何十日間も、文化の違う世界各国で育った男女が、狭い空間で
一緒に生活するため、人間関係を円滑にできる人でなければならないといいます。
地球ほどもある巨大な飛行物体の中で、
人間関係に何もトラブルがなく、円滑に統一性が社会的に保たれているというのは、
驚異的なことだといいます。

神智学の覚者方の教えによれば、
人間を卒業して、覚者方のようになれるほどに
人間の意識が進化すれば、
膨大な生まれ変わりを繰り返した後ですから、
他の人々の気持ちも、自分のことのように
理解できるため、人々の心を一つにして
統一性のとれた社会を実現することができます。
もし、自分のことだけしか、考えることができない人がいれば、
反逆者や派閥も生まれ、犯罪も起こりますが、
すべての人が、すべての人の心を、すべて理解できてしまえば、
反逆も派閥も、犯罪も、起こったとしても、
すべてを理解したうえでのことですから、
相手を完全に理解して、許しているため、
問題には発展しません。
さらに高度な意識のテクノロジーによって、
高度な創造行為も行えますから、
自由自在に空間を移動できる飛行物体を、
個人的につくり、所有できるようになるようです。
最近、とくにスカイツリーのあたりで
UFOの目撃情報が多いそうです。
東京スカイツリーは高い建物ですから、
自然と空を見上げ、眺める機会が増えるため、
一段とUFOと対面する機会も増えるそうです。
このように、私たちがUFOと接近?する機会が
殖えるということは、新しい状況に
私たち人類自身が、なじむことによって、
新しい世界が開け始めているのだと思います。

ちょうど、明治維新前の日本が
黒船の来航をよく目撃するようになったときに?
似ているような気がします。(^^;)?
あ、これは、ひとりごとですから、気にしないように?

ちなみに、太陽のそばに写っている巨大な物体は
ベンジャミン・クレーム氏によれば、
天使だそうです。
気になる方は、シェア・ジャパンのホームページを
ご覧下さい
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第3章 光とともに №1259

2015-06-26 21:22:57 | Weblog
 神聖なる領域のエデンの園へ至る道 
旧約聖書の「主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、
いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった(6章5節)」とあります。
これはトリツメギストスが『なぜに彼ら死の内にとらわれたものは、
死ぬべき運命なのかを。』という質問に対して、ポイマンドレースが
『嘆かわしく惨めな闇が、それぞれのからだ以前にあり、その暗黒とは
じめじめと湿った自然であり、そのじめじめした自然からうまれた肉体は、感覚界に帰属している。
死はここから溢れてくるのだ。』と答えていた部分に当たると思われます。
エデンの園を追放された人は、感覚界に帰属する肉体のために汗を流して働いて
糧を得ますから、肉体と感覚を満たすことにどうしても意識が向いてしまいます。
しかしポイマンドレースは『神の言葉がこう言っている。
万物の父は命と光から構成され、そこから《ひと》がうまれたのだ、…
おまえはこれを学び、そしておのれ自身の命と光よりきたるを信じるならば、
おまえは再び命へと回帰しうるであろう。』と言いました。
これに対してトリツメギストスが『いかにして私は命へと回帰するのでしょう』と問うと、
ポイマンドレースは『神はかく言われた。人間に叡智を授け、留意せよ、
熟考せよ、そして自分を識れ、と(№1211)』と答えました。
このように、自分の行為や思考に留意し、熟考し、自分を識る努力をすることで
、ポイマンドレースの言う「叡智は、聖なる者、善き者、清き者、慈しみある者、
すなわち慎重かつ敬虔な者たちのもとにきたる」のでしょう。
そして、「おまえは再び命へと回帰しうる」と言いました。
こうして第八の圏の神聖なる領域へ至る(№1219)ことができれば、
そこにいるものと同質になる(№1245)と、ポイマンドレースは言います。
「第八の圏の神聖なる領域」が「エデンの園」のことであれば、
この園の中央に「知恵の木」と「いのちの木」の両方がある
ということは、この二つの木は、神と人にとって重要なものといえます。
旧約聖書の「箴言」の中には、「生命の木は、望みである」
「神に従う人の結ぶ実は生命の木となる」といった表現があるといいます。
これらから、「生命の木」は人間にとって理想であり、希望のようです。
このようなことからエデンの園を追放された人も、いつの日か
神の理想通りに成長することで、またエデンの園に戻ってくることができると
神は想定して、エデンの園の東に
「ケルビムと輪を描いて回る炎の剣」を置いて、守っているのではないでしょうか。
№1260につづく
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第3章 光とともに №1258

2015-06-24 21:41:03 | Weblog
 エデンの園を追放された人のその後
旧約聖書の2章17節で神は、「善悪の知識の木からは取って食べてはならない。
それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ」と、死を宣言するような
強い口調で警告していますから、ここには重要な意味があると考えられます。
また「それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ」と言うところから、
このときの人は、まだ死を体験したことがないこともわかります。
ポイマンドレースの話の中で、『…神の聖なることばが、発せられた。
「ふえよふえよ、みちみちよ。なんじら、いきものよ、つくられしものよ。
かのものに叡智をさずけ、おのれの不死なるをしらしめ、あいよくが
「死」のゆえんたること、いっさいのかくあるを学ばしめよ」
神がこのように言ったときに、「運命」と「調和」を
もとにして「摂理」は、この接合ということを決まりとした。
かくして「生殖」が打ち立てられたのだ。
そして、万物はその種族ごとに殖えていった。
そのなかで、自己自身を識るものは、善徳に
至るあらゆる道をみいだすことができた。
けれども、愛欲のあやまちを通ってきたものは、
身体のみを愛し、暗闇をさまよい、感覚しうるだけの
わかりやすいものの内にのみ留まって、死をもたらすものに
甘んじねばならなくなった。(№1199)』とありました。
これに対してトリツメギストスは
「しかし、なぜ彼らはあれほどに無知蒙昧な罪を、
不死性を剥奪されるようなことを犯すのだろう。」
と言っていましたが、この部分に当たるのが、
エデンの園で善悪の知識の木の実を食べた場面ではないでしょうか? 
神による生命の創造が行われたとき、人は
その創造を手伝えるほどの場所にいましたが、
「善悪の知識の木からは取って食べてはならない。
それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」
と言われたのに、食べてしまったことで、自分の知っている
知識だけで善悪を判断するようになったため、
ポイマンドレースの言う「善徳に至るあらゆる道」を
見いだすことができなくなったのかもしれません。
エデンの園を追放された後、アダムとイブの
子であるカインは、弟のアベルを殺してしまいます。
そして、アダムは930歳まで生きましたが、
息子のセツは912歳、エノシュは905歳、ケナンは910歳、
マハラルエルは895歳まで、ノアの父親である
レメクは777歳まで生きたと旧約聖書にあります。
神による創造から時間が経過するほど、人の寿命が短くなっています。
ノアの時代になると、「主は、地上に人の悪が増大し、
その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに
傾くのをご覧になった(6章5節)」とあります。
これはポイマンドレースが、『愛欲のあやまちを
通ってきたものは、身体のみを愛し、暗闇をさまよい、
感覚しうるだけのわかりやすいものの内にのみ留まって
、死をもたらすものに甘んじねばならなくなった。(№1199)』といい、
トリツメギストスが「しかし、なぜ彼らはあれほどに無知蒙昧な罪を、
不死性を剥奪されるようなことを犯すのだろう。」
と言っている部分に当たると思われます。
№1259につづく
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第3章 光とともに №1257

2015-06-22 21:30:12 | Weblog
 神聖なる領域のエデンの園を守るケルビムとは
旧約聖書の人は、善悪の知識の木の実を食べることで、善悪を
判断できる力を得たため、エデンの園という魂の楽園から追放されます。
人がエデンの園から追放されるとき、神である主は、
女には「苦しんで子を産まなければならない」と言われ、
男には「一生、苦しんで食を得なければならない。・・・
あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。
あなたはそこから取られたのだから。
あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。」と言われました。
このときから人は、肉体を維持するための糧を得るために
汗を流して働いた後、土に帰ることになるようです。
さらに神は次のように言われました。『「見よ。
人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。
今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。」
そこで神である主は、人をエデンの園から追い出され』ました。
神は、『いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、
ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。』といいます。
これは、「今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、
永遠に生きないように」するとともに、人の意識が成長して
エデンの園に戻ってきた時、人が「いのちの木の実」を取って
食べられるようにするために、『いのちの木への道を守る』という、
二つの理由で『エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る
炎の剣を置かれた』と考えられられると思います。
2章9節によれば「いのちの木」と「善悪の知識の木」は
エデンの園の中央に植えられているとありますが、
ユダヤの伝承では、両方の木の実を食べると、
神に等しき存在になるとされているそうで、
神はそうなる事を恐れたために急いで彼らを追放し、
「ケルビムと輪を描いて回る炎の剣」を置かれたことで、
彼らがエデンの園に入り「いのちの木」から実をとって
食べるのを避けるようにしたと、解釈されているようです。
エデンの園の中央に「知恵の木」と「いのちの木」の
両方があるということは、この二つの木は、
神と人にとって重要な意味を持つようです。
ケルビムについて調べてみると、ケルビムは複数形ですが、
単数形の「ケルブ」はヘブライ語で知識を意味し、
「ケルビム」は知識を司る神であり、神の姿を見ることができるほどの
智慧を持つということから、智天使と訳されたりもします。
またケルビムは、天使の階級では第2位に位置付けられ、
神の玉座や聖なる場所を守護するといいます。
ケルビムは知識を司る神ですから、人間の意識が成長して、
より高度な知識を得ることで、ケルビムと出会い、
エデンの園に戻ってくることを神は計画して、エデンの園を
ケルビムに守らせているのではないかと、私は思います。
№1258につづく
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第3章 光とともに №1256

2015-06-20 20:33:35 | Weblog
 神聖なる領域としてのエデンの園
ポイマンドレースの言う「ほんとうの力」を持つ人間のことを
神智学では、真人(The real man)と表しています。
そしてメンタル界は真人(The real man)の世界であり、
サンスクリット語のmanは「考える」という意味であり、
英語でも「man」は「考える者」という意味(№1018)でした。
本当の人間とは、メンタル体を使って考え、
神のように創造することのできる人間です。
『トランス・ヒマラヤ密教入門 第1巻』には、人間の性質について
『人間とは本質的に神である。(№1253)』とありました。
そういえば、旧約聖書の創世期1章27節で、
神は「人をご自身のかたちに創造された。
神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された」あと、
神は次の28節で『生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。
海の魚、空の鳥、地をはうすべての
生き物を支配せよ』と人に言われました。
また同じ創世期2章19節では『神である主が、
土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥を
形造られたとき、それにどんな名を彼がつけるかを
見るために、人のところに連れて来られた。
人が生き物につける名は、みな、それが、
その名となった。』とあります。
これは神が創造した生き物たちに、人が名前を
つけて支配することで、管理者として神を
手伝っていることを意味していると思われます。
このエデンの園とは、神智学のコーザル界のことで、
神のかたちに創造された男と女(1章27節)とは、
ポイマンドレースの言う「もてる力のすべてによって、
七人の支配者による万物生成とその創造を
学んで(№1127)」いた《ひと》と思われます。
エデンの園の人は蛇からそそのかされて、
神から食べてはならないと言われていた
「園の中央にある木の実」を食べたために、
「ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが
裸であることを知った(創世期3章7節)」といいます。
人は、自分たちが裸だと知り、神の声を
聞いたとき、恥ずかしいと思い、木の間に身を隠しました。
人は今までも裸だったはずですが、自分が
裸であること意識しなかったと考えられます。
自分が裸だと理解するには、自分の体に意識を向けて
意識的に見て、自分で判断する能力が必要になります。
このように「園の中央にある木の実」を食べることで、
自分の状態を自分で判断できるように、目が開かれ、
裸でいることは悪だと判断し、悪いことをしている
自分を恥ずかしいと感じたと考えられます。
この部分は、ポイマンドレースの話の「《ひと》は
下なる自然の「水」のなかに、己のすがたが映っているのを見て
これを愛し、それと共に在りたいと
願った(№1167)」に当たると思われます。
このとき《ひと》は、下なる自然につかまり、
包み込まれ混ざり合うことで、アストラル体と肉体を持ちました。
№1257につづく
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第3章 光とともに №1255

2015-06-18 21:26:28 | Weblog
 神聖なる領域に至ることのできる人間
ポイマンドレースは人間が「ほんとうの力をとりもどして、神聖なる領域に至る」
と言っていましたが、人間の本来の姿である《ひと》が誕生(№1086)したのは、
「七人の支配者」である造物主が、「世界の円環を支配下に置きつつ己が周囲に
回転させて、みずからのつくりだしたものたちを、車輪のごとくにまるく輪転させ、
そして永劫の初めより無限の終末まで、まわりつづけるままに」した場所でした。
この《ひと》は父からはなれ、万物生成の天球のなかに身を置くことで、
もてる力のすべてによって、七人の支配者による万物生成とその創造を学んでいました(№1127)。
そしてここから下界を覗き見たことで、下界の下なる自然の「水」の中に、
己の姿が映っているのを見てこれを愛し、それと共に在りたいと願い、
道義なき形姿であるアストラル体を生み出していました(№1167)。
こうしてアストラル体と肉体を持った人間は
『肉体のゆえの限りある命、本質的な《ひと》としての不死。
万象への権限をもっていながらにして、しかし運命に従属するがために、
死すべきものとして苦しむ』という二重性を持つことになりました。
そして今『死すべきものとして苦しむ』ものとしての肉体を持つ人間が、
ポイマンドレースの叡智によって、アストラル界からメンタル界へ
向かうことで、「完全な調和のとれているすべての作用力から解き放たれた、
ほんとうの力をとりもどして、第八の圏の神聖なる領域に至る(№1245)」ことになります。
ポイマンドレースの叡智によって、『死すべきものとして苦しむ』ことがなくなれば、
肉体もアストラル体も持たない魂として機能することのできるコーザル界、
あるいは「第八の圏の神聖なる領域に至る(№1245)」ことになります。
肉体は物質界の物質的な影響力の中で働く物理的なニュートンの
運動法則に支配されていますし、アストラル体は外部から来る
感覚の反応によって、個人的で利己的な感情や情緒や気分から
空想も生まれ、イリュージョンとグラマーの世界になります。
一方でコーザル体だけが、魂の意志の力によって内部から
自発的に、「もてる力のすべてによって、七人の支配者による
万物生成とその創造」を学ぶこと(№1127)を選択できます。
ポイマンドレースの言う「ほんとうの力」とは、霊的意志であり、
コーザル界より上位の界層で「七人の支配者による万物生成とその創造」
を学ぶことができる力であり、七人の支配者と共に、
万物生成にたずさわる力のことではないでしょうか。
人間は、神によって創造されていて、自らの意志によって、
万物の生成とその創造をおこなう「七人の支配者」である
造物主と同等の能力を潜在的に持つ神聖な存在であることがわかります。
№1256につづく
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第3章 光とともに №1254

2015-06-16 21:29:55 | Weblog
 メンタル界という神聖なる領域
ポイマンドレースは『第八圏にいるものすべてとともに父なるものに
賛美をささげ、そしてそこにいる晴れがましき存在は、おまえの帰昇を祝福する。
おまえは第八圏にいるものと同質になり、さらに第八圏を超える彼方からの
影響力が、神への讃美歌をたえなる声でうたうのを耳にするだろう。(№1245)』
といいましたが、この「第八の圏の神聖なる領域」は、低位メンタル界だと思われます。
神智学の本にある説明でも「ここでは生前親しくしていた人たちと共に生活しますが、
人々の性格の欠点がなくなって、長所だけが残り、こうあって欲しいと思う
理想的な暮らしが実現」する天国や極楽のような世界でした。
このような低位メンタル界で機能しているメンタル体は、
高位メンタル界(コーザル界)の魂である真我が、具体的な形を持つ
叡智として顕現するための媒体でしたから、高位メンタル界の霊性と
非利己性・普遍性に基づいた抽象的な思考の世界を、具体的な形で
表現することがきるため、理想的な暮らしが実現すると考えられます。
コーザル界にある抽象的なアイディアを、メンタル体によって考えると、
その考えに方向づけられてエネルギーが動くことで、低位メンタル界の
質料が動いて、思考に基づいた具体的な形を造ります。
非常に簡単な例として、高位メンタル界では
足し算をx+y、と抽象的に表記するところを、
低位メンタル界では具体的に5+3などの形で表す
といえば解かりやすいでしょうか? 
このような抽象的思考をおこなう高位メンタル界は、
コーザル界とも呼ばれますが、英語のcause が語源で、
名詞では原因、動詞としては惹起させる、引き起こす、
という意味があります。
『霊的意志(アートマー)がコーザル体で働くと、
その外向性のエネルギーはコーザル体の外部にある
一切のものを支配し、塑成する力となる。』と
『神智学大要 第4巻 コーザル体』にあります。
このコーザル界の抽象的思考が原因となって、
具体的な想念の形で表現されるのがメンタル界です。
そしてこの意志がアストラル体とメンタル体の中で働くと、
『欲望となり外部の事物に惑きつけられて、
その指揮は外部より支配されるようになる。
これが欲望の特徴である。
しかし、コーザル体の中で働くアートマーは意志であって、
外部からのいわば指図によって選択を決めるのではなく、
識別力を発揮して熟考の末、内部から自発的に選択するのである。
このようにして、外に向かうエネルギーはコーザル体の中では
内部から導かれてその方向を決定し、コーザル体以下の体の中では外部に引き寄せられる。
これが意志と欲望との基本的な違いである。
なおまた、意志は基本的には魂の一特質であって低我にはない特質である。』といいます。
№1255 につづく
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第3章 光とともに №1253

2015-06-14 21:18:50 | Weblog
  「ほんとうの力」による神聖なる領域への回帰
第一圏から第七圏までのアストラル界で機能するアストラル体は、
外部にある周囲の色彩や音などを感じ取り、素早く反応することが
原因となって、物質的な欲望や様々な感情や情緒など、束の間の
欲求に引き寄せられるという結果を招いていました。
そこは常に様々な感情や欲求、空想などが満ちあふれた、
情緒的な感覚のイリュージョンとグラマーの世界です。
メンタル界の観点からアストラル界を見ることができれば、
感覚から得た情報だけで、感情的で情緒的な想像力によって
つくり出された世界だと理解できるようになります。
誰もが今よりも、より良く生きたいという欲求を
持っていますが、この欲求を物質的、情緒的に満たすためだけに
使っていると、イリュージョンとグラマーの世界をニュートンの
運動法則に従って、果てしなくつくり出すことになります。
このようなアストラル界の性質を、メンタル体を使って
知性的に考えることで理解できるようになれば、
ポイマンドレースのいう「完全な調和のとれている
すべての作用力」としてニュートンの運動法則を使うことで
「第八の圏の神聖なる領域に至る」るのだと思います。
ポイマンドレースは第一圏から第七圏までを説明した後、
『かくして、完全な調和のとれているすべての作用力から
解き放たれた、ほんとうの力をとりもどして、
第八の圏の神聖なる領域に至るのだ。』と言いました。
彼の言う「ほんとうの力」とは、人間が本来持っている力のことで、
『トランス・ヒマラヤ密教入門 第1巻』には、
人間の性質について次のように書いてあります。
『人間とは本質的に神である。これは時代を通して
宣言されてきたが、まだ美しい理論や信念でしかない。
そして、証明された科学的事実にはなっておらず、
一般的に知られてもいない。人間は実際、普遍的マインド、
つまり万物の魂、の断片である。
人間家族を通して顕現されたとき、人間は
一つの断片として、その魂の本能と
性質を分かち持つようになる。…
至るところの人間が自分自身と他の人々を、
第一にコーザル体内で機能し、低位三諸体を
低位三界での接触の手段としてだけ利用する
神聖な自我意識をもつ単位として認識するとき、
統治、政治、経済、社会秩序は健全で穏健かつ
神聖な方針に基づいて再調整されるであろう。
人間は、低位性質と三諸体において、
より小さな生命体の集合である。
それらの全体としての性質、活動のタイプ、
集団的反応がどのようなものになるかはその人間次第である。
しかしそれらは、太陽の主の活動のエネルギーによって
やがて高められ、人間の段階にまで進化するであろう。』
№1254につづく
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第3章 光とともに №1252

2015-06-12 21:12:40 | Weblog
 段階的な回帰への道 再誕生
プララヤと呼ばれる状態で休んでいる魂が、魂自身の
奉仕への意志のもとに自己犠牲として転生が行われます。
新しい人生のための準備として、まずメンタル恒久原子が
活気を帯びて働き出し、周囲に低位メンタル質料からなる
鞘(さや)を磁力によって引きつけます。
次にアストラル恒久原子が活動を開始して、周りに
アストラル質料による鞘(さや)を磁力によって引き寄せます。
その後、物質恒久原子が働きだして、エーテル体の
素材となるエーテル質料を引きつけます。
これで肉体が誕生するための準備が整いました。
ここに両親が登場して、生殖細胞同士の結合によって、
新しい遺伝子がつくられますし、細胞分裂によって、
エーテル体に添った肉体が形成され始めます。
新しい遺伝子がつくられるとき、私たちは両親からだけでなく、
肉体を形づくる物質恒久原子からも情報を得ています。
たとえば、過去の人生のなかで、重大な意味のあるケガなどを
していた場合に、それがアザとなって現れる場合などがその例のようです。
両親が持っている遺伝子の情報と、本人のアストラル体や
メンタル体などの恒久原子が持つ情報、そして魂が
これまでのカルマ全体の中から、今回の人生で
解消すべきカルマとして選び出した目的や目標、
性別、寿命などを考慮して、肉体、
アストラル体、メンタル体がつくられます。
こうした恒久原子の働きによって、この前の人生を終えた時に
達成していた到達点から、次の人生を始めることになります。
そのため、魂の観点から見て、人生で行うことのすべてが
無駄にならないし、すべての魂が平等に扱われることになります。
このようにして新しい人生が始まりますが、新しい人生を新鮮に
スタートできるように、また新しい人生の目的をより達成しやすくするためにも、
過去の人生の記憶は覚えていない状態で生まれてくるようです。
もしも過去世の記憶があった場合、過去の失敗や成功を気にしすぎて、
今回の人生で解決すべき問題や、達成すべき目標に立ち向かえない
かもしれませんが、過去の記憶がないことで、新たな挑戦が可能になると思います。
しかし、ニュートンの運動法則は、生前に習慣化されたものは、
死後の世界のアストラル界でも変わることなく同じような生き方を
続けていました(№1249)し、過去の人生の到達点から新しい人生が始まります。
時間を超えてニュートンの運動法則が働くことを考えると、新しい人生でも、
きっかけさえあれば、以前の人生と同じ運動を始める可能性があることになります。
同じような生き方を繰り返すことなく、ポイマンドレースの言うように、
おのれ自身を識ることで、「完全な調和のとれているすべての作用力から
解き放たれた、ほんとうの力をとりもどして、第八の圏の神聖なる領域に
至る(№1245)」ことで、神の御元へ帰属できるようになることが大切だと思います。
№1253につづく
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