心と体を通して見えてきたもの

個人的な生まれ変わりの体験談。心とは?カルマとは?人間の本質や使命とは?
といったことを考えてます。

第3章 光とともに ナンバー2232  離散の民ユダヤ人

2024-07-26 21:00:16 | Weblog
ナンバー2232 2024.07.26  離散の民ユダヤ人
古代のユダヤ人たちは故郷のパレスチナから遠いバビロンに捕囚されると、これまでとは全く違う生活を強要されましたが、ユダヤ人たちが集会所に集まり戒律やユダヤ人の歴史を学ぶこと、神に対して信仰を持つことは許されていたといいます。
これがユダヤ教の集会所シナゴーグの元となり、シナゴーグで律法を学び、礼拝をするユダヤ教の信仰のスタイルの元にもなりました。
またユダヤ人の歴史や伝統的な習慣や律法を集めて宗教としての経典ができてくると、一つの民族として信仰を忘れないでまとまろうとすることで、ユダヤ教が確立することになりました。
経典ができる過程で、自分たちが選ばれた民であることを再確認し、苦難が続くユダヤ人のもとに、いつかメシア(救世主)が現れてユダヤ人は救われるという、メシアを待望する思想もできます。
こうしてバビロン捕囚からパレスチナに帰還して、エルサレムに神殿が再建される頃にはユダヤ教が確立していたといいます。
しかし実際にパレスチナに帰還が許された時には、60年の歳月が過ぎていため、パレスチナのことを知らない世代もいました。
そのため実際にパレスチナに帰還したのは、一部のユダヤ人だけだったといいます。
パレスチナに戻らないユダヤ人のなかには、アケメネス朝の領土の各地に自分たちのコミュニティをつくり生活するようになった人たちもいたといいます。心では約束の地であるパレスチナを思いながらも、実際は離れ離れになって暮らす離散の民の歴史がバビロン捕囚から始まったといわれています。
しかしバビロン捕囚以前のモーセの時代にエジプトから脱出した時にも、40年という長い年月をかけてカナンの地にたどり着きました。
その時もエジプトを出た人々が全員カナンの地に着いたのではなく、他の地に行った集団もいて、そこから現在のイギリス王室が始まったという説があります。
またイスラエル統一王国が南北に分かれた後、北イスラエル王国がアッシリアによって滅ぼされて離散した人々の中に、日本にまで来た人たちがいて、それが日ユ同祖論になっているという説があります。
ユダヤ人の長い歴史の中には、ユダヤ教が確立する以前にも、ユダヤ人でありながら民族としての団体行動から外れて離散した多くの人々がいて、彼らはバビロン捕囚中にできたユダヤ教と経典を知らないことになります。
ナンバー2233 2024.07.30  に続くかと思います
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第3章 光とともに ナンバー2231  旧約聖書の時代以降

2024-07-22 20:59:30 | Weblog
ナンバー2231 2024.07.22  旧約聖書の時代以降
旧約聖書は神による天地創造からアダムとイブの誕生、その子孫のノアの息子セムの末裔のヘブライ人たちが様々な苦難を乗り越えながら、民族宗教のユダヤ教ができる直前までの話です。
この旧約聖書の話が、ユダヤ教徒に共通する信仰の土台となります。
ユダヤ教徒にとってバビロン捕囚は、これまでとは違う環境での苦難の物語の代表で、民族が団結して信仰を深める引き金となり、ユダヤ教の確立の始まりとなったといいます。
バビロン捕囚から解放されてパレスチナに帰還した後も、アレクサンドロス、プトレマイオス朝エジプト、セレウコス朝シリアと支配者が交代し、そのたびにゾロアスター教やギリシアの神々などが持ち込まれたため、ヤハウェへの信仰が揺らいで他の宗教に改宗する人もいました。
前166年にはハスモン家のユダス=マカバイオス(マカベウス)がユダヤ人を指導して、セレウコス朝シリアのアンティオコス4世が、自らを現人神と称してギリシアのゼウス信仰を強要するに対して反乱(マカベア戦争)を起こし、ハスモン朝のもとで政治的・宗教的自由を獲得しました。
ユダス=マカバイオス(マカベウス)はユダヤ人の英雄として語り継がれていると旧約聖書続編(旧約聖書と新約聖書のあいだをつなぐ聖書)にあるそうです。
前37年にヘロデがローマの宗主権のもと王位に就きました。
ヘロデ王はローマの権威を背景としながらユダヤ人の関心を買うことに努め、エルサレム神殿を大改築しました。
ヘロデ王の死後、内紛から混乱が続いたローマ帝国は紀元6年パレスチナを属州にすると、総督としてポンティオ=ピラトを任命します。
そのためパレスチナは、ローマの直接支配を受けるようになりました。
ローマ帝国はユダヤ教の信仰を認めると、宗教を理由にユダヤ人を迫害することはありませんでした。
ピラト総督による支配は重い税が課せられ、また神殿を侮辱することがあったためユダヤ人の感情を踏みにじったりもしました。
貴族やユダヤの聖職者たちは保身のためにローマに取り入り、次第にローマの操り人形のようになったことから、ユダヤの民衆の心が離れていきます。
またローマ人と戦い、彼らを武力で倒すことでユダヤの独立を勝ち取ろうとする、熱心党と呼ばれる過激派グループもできました。
さらにユダヤ教の中にも派閥争いが生まれ、ユダヤ社会も混乱します。
この時期に、ユダヤ教の革新を呼びかけたのがイエスでした。
ナンバー2232 2024.07.26 に続くでしょう

とても暑いです。
こまめな水分補給が大切ですね。この夏が異常に暑いのには理由がある気がしています。一つは解毒だと思います。汗をたくさんかくことで、体内の毒出しをしているように私は感じています。
暑い日が続いていますから、無理はしないのがいいですね。
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第3章 光とともに ナンバー2230 バビロン捕囚とその後

2024-07-18 20:58:08 | Weblog
ナンバー2230 2024.07.18  バビロン捕囚とその後
北イスラエル王国がアッシリアによって滅ぼされた後、南のユダ王国はアッシリア帝国から重い貢納を義務付けられます。
その後、前586年に新バビロニアにユダ王国が滅ぼされると、ヘブライ人たちは神殿を破壊されてバビロニア近郊に住まわされ、農業や灌漑工事に従事させられるバビロン捕囚となり民族的な苦難を経験します。
この捕囚として連れていかれた人々は、イスラエル統一王国(ヘブライ王国)を構成する様々な部族にそれぞれ所属していましたが、捕囚中にユダ部族を中心に統合して民族が団結するようになると、ヤハウェ信仰も深めるようになりました。
約60年後にアケメネス朝ペルシアが新バビロニアを滅ぼすと、前538年ヘブライ人はペルシア帝国のキュロス2世によって、バビロン捕囚から解放されパレスチナに戻ることを許されます。
アケメネス朝は宗教的には寛容で、ヘブライ人の宗教も認めたため、エルサレムにヤハウェ神殿(第二神殿)を再建しました。
この頃にユダヤ民族独自の一神教であるユダヤ教が完成したようです。
ユダ王国の人々による民族宗教がユダヤ教になりますから、先に滅んだ北イスラエル王国で国外へ逃げた人々は、ユダヤ教を知らないまま流浪し、迫害を受けていることになります。
このことから、ユダヤ人ではあってもユダヤ教を知らない人もいることから、ユダヤ人の定義は現在のイスラエルの法律では『ユダヤ人の母から産まれ、あるいはユダヤ教徒に改宗した者で、他の宗教の成員ではない者』なのでしょう。
この時代にペルシア帝国の公用語のアラム語が浸透して、文字もアラム文字系統のヘブライ文字を使うようになりました。
ペルシア帝国が滅亡すると、アレクサンドロスの帝国が成立して、ユダヤ人もその支配下に入りました。
アレクサンドロス3世が急逝したため後継者を巡る争い( ディアドコイの争い)が配下の将軍たちの間で起こると、この争いにユダヤ人も巻き込まれ、はじめはプトレマイオス朝エジプトの支配下におかれ、次にセレウコス朝の支配を受けます。
ユダヤ教はこのヘレニズムの時代は、ヘレニズムの理念に押され、厳しい信仰上の危機が続きました。
セレウコス朝はギリシアのゼウス信仰を人々に強要し、特に厳しくユダヤ教を弾圧したため、ユダヤ人たちは結束を強めることになりました。
ナンバー2231 2024.07.22 に続く予定です。
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第3章 光とともに ナンバー2229  ヤハウェ信仰の時代

2024-07-14 20:59:12 | Weblog
ナンバー2229 2024.07.14  ヤハウェ信仰の時代
『旧約聖書』は神の命令と神との約束、ヘブライ人が「選ばれた民」であること、がストーリーの特徴ですし、「唯一神とヘブライ人との契約の関係」や、「ヘブライ人が神に選ばれた民」であることがユダヤ教の「選民思想」へつながります。
聖書を研究している人によると、ヘブライ人の祖先はカナン(現在のパレスチナ)の周辺で、羊やヤギを飼育しながら牧草を追って移動を繰り返す遊牧民だったといいます。
アブラハムは神ヤハウェに祝福されて「子孫は強大な民族となり、カナンの地を所有する」という約束を受けます。
この約束は聖書の物語に何度も出てくるため、聖書全体を貫く中心テーマです。
旧約聖書によると、アブラハムの時代にカナンが飢饉になり、食料が得られなくなったためエジプトへ逃れましたが、エジプトで奴隷のような扱いを受けるようになり人々は苦しみます。
この人々の苦しむ声を聞いた神ヤハウェがモーセを遣わしたことで、人々はエジプトを脱出し、シナイ山の麓で神ヤハウェとモーセは契約(十戒)を結びます。
このとき、モーセが40日間山の上にとどまっていたため、ヘブライ人たちはモーセが山を下りてくるのを待ちきれず、勝手に金の牛の偶像をつくって拝みいけにえを捧げたため、神から重い罰を受けました。
このことから、ヘブライ人たちのなかにバアルを信仰する人もいたことがわかります。
その後、荒野を放浪して、ついに約束の地カナンに到着すると、ダビデを王としてイスラエル統一王国(ヘブライ王国ともいう)がつくられます。
都をエルサレムに定めると、ダビデの次のソロモン王の時代に、エルサレムに神殿がつくられます。
ソロモン王が亡くなると、ソロモン王の圧政に不満を抱いていた北部の人々が、前922年ごろに北にイスラエル王国をつくり、バアル信仰の影響を受けながらもヤハウェを信仰します(ナンバー2219)。
南ではエルサレムを都にして、世襲制のユダ王国のダビデ王朝が続きます。
北のイスラエル王国は政情不安が続いた後、サマリアに遷都してバアル信仰のフェニキア人などと融合しながら存続しました。
国が南北に分かれたころ、北方のメソポタミアで一時期衰えていたアッシリアが再び隆盛となり、領土を周辺に広げ始めていました。
その直接的な圧力を受けた北のイスラエル王国は、前722年にアッシリアによって滅ぼされると、アッシリアに直接支配される属州となりました。
ナンバー2230 2024.07.18 に続くでしょう
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第3章 光とともに ナンバー2228 ハザール人もユダヤ人

2024-07-10 21:01:09 | Weblog
ナンバー2228 2024.07.10  ハザール人もユダヤ人
ハザール人は古くからローマやペルシアと関係を持ち、のちにはアラビアとも通商をおこなったようです。
またハザール王国にはシルクロードが通り、キリスト教徒やイスラム教徒なども通行していたため、ハザール王国にユダヤ教を伝えたのは、地中海やカスピ海周辺で活動していたユダヤ商人だったそうです。
ハザール国王と支配者階級、そして貴族たちは政治的な理由からユダヤ教徒になり、ユダヤ教の教会であるシナゴーグをつくり、外国の学者を招いて熱心に信仰を広めたため、一般の人々にもユダヤ教が広がったといいます。
ユダヤ教には伝統的な寛容の原則があり、他の宗教も妨げられなかったため、これをユダヤ教の長所ととらえて、バアル信仰も残ったようです。
その後、965年にキエフルーシー(ロシア)のキエフ大公ウラジミール1世が、ハザール王国を一掃しようとしました。
それを事前に知ったハザール人たちは、金銀財宝を持って各地に逃げたといいます。
こうしてハザール王国はキエフルーシーに飲み込まれる形で消えましたが、ハザール人たちは各地に逃げて、自分たちの素性がわからないように、アシュケナージのユダヤ教徒を隠れみのにしたといいます。
アシュケナージはドイツを意味するヘブライ語のアシュケナズから派生した言葉で、アシュケナジムはドイツなど東欧系のユダヤ人を意味します。
ユダヤ人とは現在のイスラエルの法律では『ユダヤ人の母から産まれ、あるいはユダヤ教徒に改宗した者で、他の宗教の成員ではない者』と定義しています。
ユダヤ人はずっと迫害を受け続け、男性は殺され女性は襲われるという歴史があるため、母親がユダヤ人でユダヤ教徒であれば、その子供もユダヤ人と認められるといいます。
ユダヤ人はセム系の氏族とされますが、セムというのは旧約聖書の中で大洪水の後、生き延びたノアの3人の息子の一人、セムの子孫ということです。
もともと彼らは自分たちのことをイスラエル人と呼んでいて、他の民族からはヘブライ人と呼ばれていましたが、ユダヤ教の確立とともにユダヤ人と呼ばれるようになりました。
ユダヤ教を生んだヘブライ人の起源は、現在のシリアとトルコの国境あたり、ユーフラテス川の上流域の遊牧民だったそうですが、トルコ系のハザール人は、ユダヤ教を信仰することでユダヤ人と呼ばれるようです。
ナンバー2229 2024.07.14 に続くでしょう

毎日暑いですね。
こまめに水分補給して無理せず過ごしたいですね。
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第3章 光とともに ナンバー2227  ハザール王国の宗教

2024-07-06 21:00:13 | Weblog
ナンバー2227 2024.07.06  ハザール王国の宗教
ハザール王国は一般的には昔ながらの多神教とアニミズム信仰と言われているようですが、バアル信仰という説もあります。
彼らは遊牧民の特徴として他の宗教にも寛容で、イスラム教、ユダヤ教、キリスト教などを信仰する人もいたようです。
ハザール王国内をシルクロードが通り、様々な人々が往来するため他の国からの旅人を、性的に虐待し殺害し、持ち物やアイデンティティを盗んだりもしたようです。
彼らの中には子供を炎の中に投げ入れたり、食べたりするためのいけにえとして差し出すことを要求するバアル・モルクを崇拝した人々もいたようです。
バアル・モルクとはルシファーのことを指すようですが、幼い子供のいけにえを捧げる見返りとして、富や財産や永遠のパワーと若さが与えられると信じていました。
厳格な規律のない、おおらかな神を信じたいと誰もが思いますから、バアル信仰が広がるのは自然なことかもしれません。
しかし、この信仰は願いをかなえる見返りとして、子供をいけにえとして捧げる儀式を求められます。
9世紀初頭になると、このような幼い子供を犠牲にする信仰を持つハザールの支配者に対して、東に隣接するキエフルーシー(のちのロシア)の支配者は、ルシファーを中心とした多神教の崇拝から、キリスト教に改宗するように警告したといいます。
また同じころサーサーン朝ペルシアがヴォルガ河畔まで進撃してきたため和睦を申し入れると、イスラム教に改宗するように言われました。
これに対してカザン王は、どちらの国とも対立せずに適度な距離を取ろうと、それぞれの宗教について調べたようです。
その結果、両方の宗教の元であり、いけにえの儀式を容認するユダヤ教を選びました。
そしてハザール・カガン王国の王は、自分たちのことをノアの子孫だと言ったそうです。
ハザール国王と支配階級はユダヤ教に改宗しましたが、国民たちは、これまで通りのやり方を変えずに繁栄したといいます。
ハザール王国の東のキエフルーシーはキリスト教国家で、南はイスラム帝国のため、迫害を受けたユダヤ人たちが国教をユダヤ教にしたハザール王国に逃げてきたといいます。
またハザール王国がユダヤ教を選んだことが、ペルシアから北へイスラム教が広がり、ヨーロッパがイスラム化するのを抑えることになったようです。
ナンバー2228 2024.07.10 に続くと思います
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第3章 光とともに ナンバー2226 ハザール王国について

2024-07-02 20:59:58 | Weblog
ナンバー2226 2024.07.02  ハザール王国について
ハザール・カガン国はハン国あるいはハザール王国、可汗(漢語でカガン)国、ハザリア国とも言われ、自称カガン王が国を治めたようです。
ハザール・カガン王国は、6~10世紀にカスピ海と黒海の北岸の南ロシアの草原地帯にあったトルコ系民族(テュルクTurkish系ともいう)の遊牧国家のため、トルコ語を話していたという説とハザール語が公用語だったという説があります。
ハザール人はハザール王国の創成を開始すると、急速に勢力を拡大し黒海沿岸北部を手中に納めると、クリミア草原の大部分とクリミア沿岸諸都市をも占めるようになりました。
この国のまん中をシルクロードの草原(ステップ)の道が通るため、国内のシルクロードを往来する旅人たちから通行料金を取り立てて、国を豊かにしたといいます。
またヴォルガ川を経由して北ヨーロッパとロシア北西部に、カスピ海とサーサーン朝を結んだヴォルガ交易路があり、そこでも活躍して経済を発展させたといいます。
ハザール王国は南側のカフカス山脈までが領土でしたが、カフカス山脈の南側にあるサーサーン朝ペルシアは、654年にカフカス山脈を越えてハザール王国の領土である北カフカスに侵入してきました。
そのためハザール王国とペルシアは、カフカス山脈を巡り何度も争いました。
ペルシアはカスピ海沿岸の要塞デルベントを陥落すると、ハザール王国の中心都市にまで迫りましたが、ハザール人たちは彼らを追い返しました。
このような一進一退の攻防が続いた後、735年にウマイヤ朝軍がヴォルガ河畔まで進撃してきたため、ハザール王はペルシアに和睦を申し入れました。
このときペルシアから、イスラムへの改宗を約束させられたといいます。
ハザール王国の西側にある東ローマ帝国は、サーサーン朝ペルシアとアラブと対立をしていたため、ハザール王国と利害が一致していました。
ハザール王国は東ローマ帝国にとって、北側にある国々の中でも重要な国でしたが、クリミア半島の領有に関しては、東ローマ帝国とハザール王国は互いに争っていました。
東ローマ帝国はクリミア半島南端のヘルソンを必ず守る必要があったため遠征軍を出しましたが、ヘルソンはハザール王国に占領されました。
その後ヘルソンは東ローマ帝国に戻り、クリミア半島南部は帝国領に、それ以外はハザール王国領となり、比較的友好な関係になりました。
ナンバー2227 2024.07.06 につづくでしょう
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