心と体を通して見えてきたもの

個人的な生まれ変わりの体験談。心とは?カルマとは?人間の本質や使命とは?
といったことを考えてます。

第3章 光とともに ナンバー1770

2019-04-30 20:50:47 | Weblog
ナンバー1770 2019.04.30. あらゆるものは分割不可能でホログラフィックな全体である
『投影された宇宙 ホログラフィック・ユニバースへの招待』(マイケル・タルボット著 春秋社発行)の続きです。
『ここでひと息ついて、このことをよく考えてみてほしい。
自分の手をながめてみよう。
そばにあるスタンドから流れる光、足もとにいる犬。
あなたは単にこういうものと同じ物質でできているだけではない。
文字どおり同じものなのである。
それはひとつのもの、切れ目ないものなのだ。
目に見えるあらゆる物体から、原子、絶え間なくゆれる海、そして宇宙にある星の瞬きの中にまで、その無数にある手、触角をのばしている膨大な何か、なのである。
しかしボームは、この考えが、宇宙は何の変化もない巨大なひとつの物質だという意味ではないことに注意するよう指摘している。
分割できない全体の一部でありながら、それぞれ独自の性質をもつことも可能なのである。
これをわかりやすく説明する例として、彼は川の中によくできる小さな流れや渦巻きをあげる。
一見それは、大きさや流れの速さ、回転の方向など個々の特性をもっていて、なにか別のもののように見える。
しかし、注意深く観察してみると、どこで渦巻きが終わりどこで川が始まるのかを定めるのは不可能なことがわかる。
つまり、ボームは「もの」の間の違いには意味がないと言っているのではない。
ホロムーヴメントのさまざまな側面を分割し、それを「もの」と定義するのが抽象概念にしかすぎないこと、そしてそのような側面が知覚の中に現れてきたときに、私たちの思考に理解しやすいよう際立たせるためのひとつの方策でしかないことをいつも念頭に置くように望んでいるだけなのだ。
この点をなんとか正そうと、ホロムーヴメントの異なった側面を「もの」というかわりに、ボームは「比較的独立した小全体」というよび方の方を好んでいる。
世界を断片に分け、すべてのものの間にあるダイナミックな相互結合性を無視するという、人類にほぼ共通する傾向にこそ、科学にかぎらず私たちの生活や社会が抱える問題の原因があるというのがボームの考えだ。
たとえば私たちは、地球全体に影響をおよぼすことなくその貴重な一部分を取り出せると思っている。
あるいは、身体全体のことを考えずに、ある一部分だけを治療することができると思っている。
犯罪、貧困、麻薬中毒といったさまざまな社会問題も、社会全体の問題を考えることなしに対処できると思っている。
その著作の中でボームは、世界を断片に分けるという現在のやり方は、うまくいかないどころか、私たちを絶滅に導いてしまう可能性さえあると強く主張しているのである。』
ナンバー1771 につづく
あれ? もしかして、今日が、平成最後の日のブログでは?〈〈・o・〉〉
平成最後の夜をどんなふうにお過ごしでしょうか? ^^
平成は自然災害が多かったですね。
令和は穏やかだといいですね。
私はきっと令和は素晴らしい、素敵な出来事の起こる時代になると思ってます。
それが、何か知りたいですか?
これから、じょじょに、ブログに書いていけたらと、思っています。^^
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第3章 光とともに ナンバー1769

2019-04-26 20:56:21 | Weblog
ナンバー1769 2019.04.26 あらゆるものは分割不可能でホログラフィックな全体である
ボームの考えでは、電子というのは一つの物体ではなく、空間全体のあらゆる場所に包みこまれている全体、ないしは総体ともいうべきものだといいます。
電子を計測する計器が1個の電子を検知するのは、内在化された秩序のなかで広がっていた電子が、顕在化されるときに一粒の粒子として現れると考えます。
内在化された秩序のなかで波状になって広がっていた粒子が、顕在化された秩序によって粒子として現れると、内在化された秩序のなかで無秩序に広がって見えた量子は、ホログラフィック・フィルムに記録された無秩序な干渉パターンと同じような意味を持つことになります。
このようなホログラフィック・フィルムという内在化された秩序から、今私たちがいるこの顕在化された秩序という宇宙が誕生していることになります。
『投影された宇宙 ホログラフィック・ユニバースへの招待』(マイケル・タルボット著 春秋社発行)によると、「ボームは「全体性」というものについて、次のように考えていたといいます。
『宇宙の神羅万象は、内在秩序という縫い目のないホログラフィックな生地からできているため、宇宙が「部分」の集まりで成り立っているとみるのは意味のないことであり、それは噴水がつくり出すさまざまな形を、もとの水とは別のものと考えてしまうのと同じである。
電子はただの「素粒子」ではない。
それはホロムーブメントのあるひとつの側面につけられた名前にすぎないのである。
そもそも現実を分割して各部分に名前をつけるということ自体が独断的なのであり、単なる合意の産物でしかない。
なぜなら、素粒子も、宇宙にあるその他のすべてのものも、雅やかなカーペットに織りこまれた模様の各部分と同じように、互いに別々の存在ではありえないからである。
これはたいへん深遠な考えである。
一般相対性理論の中で、アインシュタインは時間と空間が別々の存在ではなく、なめらかなつながりをもつものであり、彼が時空連続体とよんだ大きな全体の一部であることを述べて世界を驚愕させた。
ボームはこの考えをさらに大きく一歩進め、宇宙に存在するものすべてが、ひとつの連続体の一部であると説く。
外面的なレベルでは別々に映っても、あらゆるものは他のものすべての切れ目ない延長であり、究極的には内在秩序や外在秩序でさえも互いにひとつに混じり合ってしまうのである。』
ナンバー1770 2019.04.30.につづく
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第3章 光とともに ナンバー1768

2019-04-22 21:04:58 | Weblog
ナンバー1768 2019.04.22 ボームのホログラフィック宇宙論
ボームは、ホログラフィック・フィルムがホログラムを生み出すのと同じように、波状に広がっている量子という包み隠された秩序から、粒子という顕在化された秩序が現われると考えます。
たとえば私たちの体の表面は誰でも見ることができますから、顕在化された秩序といえます。
そして体の中には、様々な臓器や骨格や筋肉などがあり、血管が全身を巡っていますが、解剖しない限り見ることはできませんから内在化された秩序といえます。
これらの臓器や骨格や臓器などを顕在化された秩序とすると、これらの臓器はすべて細胞が集まってできていますから、顕在化された秩序である臓器にとって内在化された秩序は細胞になります。
水の場合はどうでしょう。
水を見ることはできますが、この水を構成している2つの水素原子と1つの酸素原子は見ることができませんから、水は顕在化された秩序であり、2つの水素原子と1つの酸素原子が包み隠された秩序と考えられます。
さらに、酸素原子や水素原子に焦点を当てて顕在化させると、これらの原子の中にも原子核と電子が内在化されていますし、さらに原子核の中にも階層構造が隠れていることを私たちは知っています。
水に限らずあらゆる物質を構成しているものは粒子で、この粒子は階層構造になっています。
原子の中には、電子と原子核があり、電子の数は原子の種類によって異なります。
原子核は陽子と中性子でできています。
陽子と中性子の数は、原子の種類によって異なりますが、中性子は1個のアップクオークと2個のダウンクオークからできています。
陽子はアップクオーク2個とダウンクオーク1個からできています。
そして陽子や中性子を構成するアップクオーク、ダウンクオークには質量の違う仲間(クオーク)がいて、チャームクオーク、ストレンジクオーク、トップクオーク、ボトムクオークといいます。
電子もまた質量の違いによって、電子ニュートリノ、電子、ミューニュートリノ、ミュー、タウニュートリノ、タウという6種類のレプトンがあります。
これらの素粒子はすべて量子として波状に広がっていますが、観測すると一つの粒子として現れます。
たとえば、アップクオークが波状に広がった状態(ホログラフィック・フィルム)から、粒の状態(ホログラム)が現われ、波状に広がっていたアップクオークとダウンクオークが粒子として現れると原子核というホログラムが現れます。
そこに電子が加わると原子になります。
このように量子がたくさん集まったホログラフィック・フィルムから、ホログラムという粒子ができます。
そしてこのようなホログラムがいくつもの層となって無限に繰り返された結果として、この物質宇宙が存在していると考えます。
ナンバー1769 2019.04.26につづくでしょう

これから、北海道で桜が咲くというコメントをお寄せいただきました。
ありがとうございます。
最近、投稿と編集の方法などの仕様が変わってしまい
せっかくコメントをいただいても
自分のブログを書くので手いっぱいで、
このブログの自分の記事の書き方以外の操作方法がわからない
悲しい私です。。。(ToT)

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第3章 光とともに ナンバー1767

2019-04-18 21:08:43 | Weblog
ナンバー1767 2019.04.18 ボームの量子論
デェイビッド・ボームは量子力学について考え始めた1950年代当初から、量子力学の新しいパラダイムに向かおうという姿勢があり、その根底には物質の正体を流動運動する分割不可能な全体性として考えたい、という見方を一貫して持っていました。
ボームはコペンハーゲン解釈に対して、ホログラフィックパラダイム理論を提唱しています。
私たちの目に見えている物質・空間・時間といった顕在化された秩序のすべてが、内在化された秩序に包みこまれているといいます。これは因果律的で実在論的な解釈です。
彼のこのような解釈をボーム解釈と呼び、これをホログラフィーに例えてボームは説明をします。
これに対して、ボーアを中心とする量子力学の主流の考え方は、非局所的・非決定論的・非実在論的なコペンハーゲン解釈に基づいています。
1960年代、ボームは秩序について深く考察することで、粒子よりもさらに小さな量子以下の世界が、流動運動する分割不可能な全体であるばかりでなく、いくつもの層になって存在していて、そこには相互結合性があると考えました。
量子以下の世界は実在していても見ることができないため内在化されていますが、重力場や磁場などと同様にあらゆる空間に浸透していて秩序ある場と考えて、これを量子ポテンシャルと呼びます。
この量子ポテンシャルは数学的に描くことができますが、複素数の空間で、虚数を含んでいるため内在化されていて見ることができないと考えます。
ボーアの考え方であれば、私たちが観測するまでは粒子は存在しませんが、観測をすると同時にこの世界に粒子が現われるため、非局所的・非決定論的・非実在論的と考えます。
しかしボームの考え方では、この世界は複素数空間であるため、粒子は観測されるまでは虚数の世界に実在していると考えます。
虚数とは、私たちが暮らす現実の世界とは全く無関係の「想像上の数」であり、実在しない数です。
この虚数は量子力学の基本方程式に出てきますから、虚数がなければ電子1個の振舞いも説明できません。
この虚数の世界のことをボームは、内在化された秩序と呼び、実数として表される世界を顕在化された秩序と呼んでいるようです。
私たちの日常生活という現実が、実はホログラフィックな映像のような虚像(実数)であり、その奥にはさらに深く内在化された存在の秩序(虚数)がいくつもの層になって隠されていているといいます。
ナンバー1768 2019.04.22につづくかなあ

ひとりごと
いつのまにか東京は桜も散り始めたね。
東北地方へ行けば、桜を見れるのかなあ?
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第3章 光とともに ナンバー1766

2019-04-14 21:01:00 | Weblog
ナンバー1766 2019.04.14 確率的解釈の量子論
1920年代に原子のなかの電子には粒子と波の二つの性質を持つ量子であり、このような粒子が示す不思議な現象を説明できる理論として、量子論ができました。
この量子論によって、電子などのミクロの粒子は、普通の物質法則とはまったく違って、その正体を波と考えれば説明ができる、というものでした。
ボーアは、この電子の動きやエネルギーは、確率的にしかわからない、といいます。
物質波の伝わり方を示すシュレディンガー方程式を使えば、電子の動きやエネルギーが確率的にわかります。
これに対してアインシュタインは、「神はサイコロ遊びを好まない」と言って反対していました。
それでも量子論は、「電子が波であることを見ようとすると波が収束する」とか、「でたとこ勝負で未来が決まる」とか、「観測されるまでは粒子の特性などは存在しない。観測されるまで存在していないのであれば、もはやこれは独立したものとして考えることはできない。」といいます。
実際に1927年にデヴィッソンとガーマーという物理学者は、金属の表面に電子のビームを当てて、それが反射する様子を観測しているときに、反射した電子ビームは、強くなったり弱くなったりすることから電子が波であることを確認しています。
この強くなったり弱くなったりしている現象は、音のうなりと似た現象で、波の「山」と「山」が重なれば波は強くなり、波の「山」と「谷」が重なれば弱くなります。
この電子のビームが強くなったり弱くなったりすることは、電子が波の性質を持っていることを示しています。また同じ年に、トムソンは金属の薄い結晶膜に電子ビームを当てることで、干渉稿という明暗の縞模様を観測することに成功しています。
干渉稿ができることも、電子が波であることを示しています。
電子の波としての振舞いを記述するシュレディンガー方程式のなかには、電場や磁場に代わってベクトルポテンシャルが含まれています。
たとえ電場や磁場が存在しなくても、ベクトルポテンシャルが存在すれば、電子の波に影響を及ぼすことが示唆されているのです。
1959年にボームは遮蔽された空間に対して、磁場がどのような影響を示すかという実験をアハラノフとともに行ないました。
電子線が電場も磁場もない空間を通っているのに、干渉稿のずれとして隠れた電磁場の影響を受けていることがわかりました。
これにより、電場や磁場ではなくポテンシャルがより基本的な物理量であることを二人は主張しました。
ナンバー1767 2019.04.18につづかもしれません
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第3章 光とともに ナンバー1765

2019-04-10 20:59:27 | Weblog
ナンバー1765 2019.04.10 私たちが抱える様々な問題と量子論
環境汚染、資源の枯渇、多様性を持つ自然界を破壊することで特定の生物が絶滅危惧種となる問題、人口増加と、それにともなう食糧不足など、様々な問題を人類は抱えています。
一方の物理学の世界では宇宙が誕生した経緯をうまく説明できないでいます。
これらの問題は、別々ではないか?と感じられるかもしれませんが、実はつながっていると私は考えます。
この世界に存在するもののなかで、全く完全に孤立無縁に独自に存在できているものは、一つもありません。
たとえば、誰とも接触することなく、完全に独立して自力で生存できている人はいませんよね。
今着ている服も、毎日飲んでいる水や食べている食品も、誰か他の人や自然界から提供されたものを利用していますし、食べれば排泄もするし、ごみも出ますが、それらを処理してくれている人や微生物もいることで、私たちの暮らしが成り立っています。
私たちの体は膨大な数の細胞が集まることでできていて、様々な役割を担っているそれぞれの細胞が、神経系統という網の目のように張り巡らされたネットワークによってつながることで、体のあらゆる部分に情報が行き渡り、お互いが協力し合いバランスを取りあうことで、生命活動がおこなわれています。
様々な生命体が存在している自然界も同様で、お互いが共に存在していることで、お互いに影響を与えあうことができ、お互いがあることで共に栄えることができる関係にあります。
これらすべての存在を究極のレベルにまで小さくすると、伸び縮みするひも、あるいは粒子になります。
この究極の粒子は、絶対的な孤立無援の世界ではなく、空間と時間の中に存在しています。
この粒子が存在している空間には、他のすべての粒子も存在していますから、他のすべての粒子とつながっている場でもあります。
またこの粒子が存在している場の時間は、過去と未来をつないでいる現在という時でもありますから、この粒子はすべての時間と空間をつないでいるものでもあります。
デェイビッド・ボームは粒子よりもさらに小さな量子以下の世界にも、深いレベルの場が存在しているとして、量子ポテンシャルと呼んでいました。
この量子ポテンシャルは、あらゆる空間に浸透していて、重力場や磁場とは違って、その影響は距離とともに減るということはないといいます。
この研究によって彼は、あるシステム全体の状態を、ただ単にその各部分の相互作用の結果としてだけ考えるのではなく、そのシステムを分割不可能な全体性として包括的に見ることこそが優先される一次的な現実だと考えました。
あらゆるすべてのものが量子によってできていますから、量子の世界から宇宙全体までが、一つの相互結合した世界と考えることができると思います。
ナンバー1766 2019.04.14 につづくかなあ
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第3章 光とともに ナンバー1764

2019-04-06 20:59:20 | Weblog
ナンバー1764 2019.04.06 私たちが抱える様々な問題
超ひも理論にも難解な問題がたくさんありますが、さらに厄介な問題があるといいます。
ひもが存在するための空間と時間は、ひもが存在するよりも先に必要ですが、ひもがどのようにして空間と時間を生み出すのかを説明することができないといいます。
これに対しては、「ループ量子重力理論」によって、うまく対応ができるといいます。
この理論では、空間と時間は、遠く離れたものも含めて、すべての点を結びつけるノードという点と、ノードを結びつけるリンクと呼ばれる線のネットワークによって織りなされるといいます。
これらのリンクは、時空がどのようにして生み出されるかを説明し、さらに「遠隔作用」という非局在性の根底に存在するからみ合いをも説明するといいます。
現在のひも理論は最終的な理論と呼べる状態のものではありません。
物理的な現実を説明するためには、今後も様々な理論や仮説が登場する必要があると考える人々もいます。
現代社会の私たちは、物理的な現実というものを、あらゆる分野の物質はそれぞれ独自に独立した状態で存在しているものと考えているようです。
そのため、それぞれの独立した分野は互いに競い合う関係にあり、環境に適した者だけが生存できるのであり、優れたものが勝り、劣ったものが敗れるといった状態になっています。
しかし自然界にはそもそも、こうした考え方はありません。
この宇宙が生まれ、地球上に生命が誕生し進化を遂げている段階では、自然界のあらゆる物質と生命は共に存在し、共に生きて共に栄えていました。
人類が進化するにつれて、自然界に存在する生態系からエネルギーを取り出して利用するようになります。
すると、しだいに人々は自然界を征服し、コントロールできると考えるようになります。
こうして人々が自然界にある石炭や石油などある特定のものだけを取り出して、そのエネルギーを利用することで、産業革命が起こります。
すると私たちの暮らしは便利になります。
ところが自然界の生態系のなかのある特定の分野のあるものだけを利用するようになると、それまで保たれていた自然界全体のバランスが失われていくようになりますし、自然界に戻すことのできないもの(エントロピー・ごみ)を生み出すことになります。
するとそれは環境を汚染するだけでなく資源の枯渇や、環境破壊、自然界のアンバランスから絶滅が危惧される生物なども現れはじめます。
ですが、産業革命によって生活の便利さに気づいた人々は、より便利な暮らしを求めて集まり、さらにこうした暮らしを増大させていくと、さらにエントロピーが増大することになり、様々な分野にわたっていろいろな問題が出て来ているのが現状です。
ナンバー1765 2019.04.10につづくでしょう
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第3章 光とともに ナンバー1763

2019-04-02 21:05:14 | Weblog
ナンバー1763 2019.04.02 私たちの宇宙には謎がいっぱい
アーヴィン・ラズローの『生ける宇宙』の最初の部分で彼は『宇宙は、つながりのない個別の物や出来事からなる世界ではない。
外側にいる観客が、魂に訴えかけもしない見世物をただ眺めているようなものではないのだ。
それは、統合された一つの全体である。
古典物理学が構築した魅力のない世界のように、物質と、生命や精神の領域とは互いに分断されてなどいない。……
それどころか、それ自体が実体をそなえた存在ですらないのである。
堅固に見えてはいても、つまるところ物質とは、量子化された波束としてまとまったエネルギーであり、これらの波束がさらに集まって、世界を構成する巨大な調和した構造物をなしているのだ。』と言っていました。
ここで「量子化された波束」と呼んでいるものは、超ひも理論の様々に振動するひものことです。
ひもは様々な振動数で振動していて、その振動数が対応する粒子の種類を決定します。
ひものある「音」は電子をもたらし、別の音は中性子をもたらし、また別の音は、自然界の力を媒介するボソンやグラビトンをもたらします。
ひもが様々な振動数で振動しているということは、様々な振動数の「音」の違いということであり、振動数の違うそれぞれの音が粒子の違いということでもあります。
この超ひも理論の方程式には、10の500乗のオーダーというあまりにも多くの解が存在すると推察されているといいます。
さらにそれぞれの解は、私たちの宇宙とは異なる法則と性質を持つ宇宙を記述するといいます。
光が短い距離しか伝わらないような宇宙もあれば、私たちの宇宙では6種類と考えられているクオークがもっとたくさん存在する宇宙もあり、さらに、全体が顕微鏡レベルの小ささに縮小してしまっている宇宙もあるといいます。
このようなたくさんの不可解な解を持つ宇宙論から抜け出す一つの方法として、可能なすべての宇宙が共存しているけれども、私たちには一つの宇宙しか感知できないと仮定することです。
もう一つの方法は、私たちの宇宙は、これらのほとんど無限ともいえる数の側面を持っているけれども、私たちにはその一つの側面しか体験できないと仮定することです。
私たち人間に備わっている感覚器官がとらえることのできる世界には、限界があります。
さらに、同じものを見ても、そこに意識が行かなければ、認識できなかったりもします。
このように考えると、私たちの宇宙、と感じているものは、私たちに意識し、認識できている宇宙であるということです。
すると、意識して認識できる物しか体験することができませんから、私たちにとってこの宇宙が、私たちの宇宙ということになります。
ナンバー1764 2019.04.06につづく予定
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