心と体を通して見えてきたもの

個人的な生まれ変わりの体験談。心とは?カルマとは?人間の本質や使命とは?
といったことを考えてます。

第3章 光とともに ナンバー1836

2020-01-30 21:01:10 | Weblog
ナンバー1836 2020.01.30  量子論という不完全な科学
電子や光子には粒子のような性質と波のような性質があります。
科学者たちが電子を見ていないときは、波の性質を保ちながら波のように広がって空間に存在しています。
この電子の波に光を当てるなどして観測をしようとした途端に、電子の波は瞬時に縮んで一ヶ所に集中して「とがった波」がつくられます。
この1点に集中した波は、粒子のように見えます。
電子は、私たちが見ていないときは、波として振る舞い、「見る」と粒子として姿を現します。
この電子を測定すると、観測前に波として広がっていた範囲内のどこかに出現します。
どこに出現するかは、確率的にしかわかりません。
しかし、科学者たちが観測しようとして見た瞬間に、粒子として姿を現すことは、はっきりとしています。
それは、はるか古代から、もうそれ以上分割することのできない究極の物質が存在するとして研究が重ねられてきた由来があるからです。
そして現代の科学者たちもその意思によって、量子物理学を築きあげてきました。
現在の標準的な量子論の解釈によれば、観測をおこなう以前の電子などのミクロの粒子は、波のように広がっている状態で存在しています。
科学者たちは、「位置が揺らいでいる」あるいは、位置が確定していない、不確定であるといいます。
このような表現方法で粒子の状態を言い表すということは、ミクロの粒子の位置や運動の状態が確定できる粒状のものを観測できる、という期待を無意識のうちに科学者たちは持っていることがわかります。
この無意識が、波のように広がっている状態の存在に向けられると、瞬時に波が収縮して粒子が現れるということは、粒子には人の意識を感知し、その人の持つ無意識を瞬時に実現できる力を持つことになります。
科学者としては、自分が観測したときにだけ粒子が現われるという事実に直面することになりますから、物質として現れた粒子に対して疑いを持つことになります。
量子論という学問が、科学者たちにとって不完全なものであっては困ります。
私たちが住むこの物質世界は、明確に確定された物質が存在している確実な世界です。
この確実な世界を支える基礎となる究極の物質が不確定な原理を持つものからできているというのは、根幹を揺さぶる問題です。
不確定な原理によって粒子の状態を表すことしかできないような、不完全なものからこの物質世界という完全な世界ができているのでしょうか? 
ナンバー1837 2020.02.04  デカルトの思想と量子論?
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第3章 光とともに ナンバー1835

2020-01-26 20:58:04 | Weblog
ナンバー1835 2020.01.26  粒子と観察者の相対的な主観的な関係
全く同じ体験をしても、その体験をした人が置かれた状況や感情、その人自身の考え方などによって、全く感じ方の感覚が変わってきます。
他の人が感じたのと全く同じ感覚を自分も体験することはできませんし、自分の感覚を他の人が体験することもできません。
誰かの感覚をみんなで共有して体験することもできませんから、相対的な主観的な感覚の体験となります。
相対的な主観的な感覚は、他の人の体験している感覚と、自分の体験している主観的な感覚を比較検討することもできません。
そのためデカルトは、こうした感覚をすべて疑うといいます。
「疑うものとしての我」が存在する限り、それは不完全であり、かつその不完全なことを知っているが、それを知っていることが逆に、自分の内側に「最も完全な者」の観念が宿っていることを示していると考えます。
「最も完全な者」というのは観念ですから、もはや疑う余地のない動かない証拠を上げて証明する明証的原理を求めなければならないことになります。
このデカルトと同じように、もはや疑う余地のない動かない証拠を上げて証明する明証的原理を求める態度で、これ以上分割不可能な最も小さな粒子を科学者たちが見ます。
この時に科学者たちが、もはや疑う余地のない動かない証拠を上げて証明する明証的原理に基づいた状態として、一つの粒子を無意識のうちにイメージしています。
実際に観察されている粒子は、観察者が無意識に思っている感覚を現実のものとして現し出します。
すると観察者の無意識の感覚を、粒子が感じ取る知覚能力を持っていることになります。
粒子に無意識の感覚を知覚する能力があるということは、粒子には相対的な主観的な意識があると考えられます。
デカルトによる数学的明証によって、これを明確に証明しようとすると、粒子の位置と運動量や、時間とエネルギーなどが不確定になってしまうため不確定性原理になります。
科学者たちは、デカルトによる数学的明証をおこなうことを基本的な態度として、目の前の粒子に対して臨みます。
すると波のように広がって常に流動している量子は、観察者が無意識に粒子を観察しようとしていることを素早く感じ取り、その状態を瞬時に現し出します。
こうして、科学者たちの無意識の思いと粒子の意識によって、波状に広がっている状態から、観察されている時だけ粒子が現われるという現象が起こります。
これはデカルトの言う相対的な主観的な性質であり、人に意識されたときにだけ粒子が現われていると考えられます。
ナンバー1836 2020.01.30 につづくでしょう
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第3章 光とともに ナンバー1834

2020-01-22 20:59:16 | Weblog
ナンバー1834 2020.01.22  有機物の観察は相対的な主観的な性質を持つ
デカルトは感覚がしばしば誤った判断に導くことを認めて、単に外部に対する感覚だけでなく、内部に対する感覚すなわち有機感覚に対しても信頼を置かないといいました。
有機感覚の『有機』を『新明解国語辞典』で調べると、『生命力を持つ、生活するための機能を持つ』という意味です。
有機感覚という言葉を、『新明解国語辞典』で調べると『内臓諸器官からくる感覚。例、のどの渇き・ひもじさ』などとあります。
『広辞苑』を見ると、『体内の諸器官に異常のある場合、局所的または全身的に感じる漠然とした感覚。飢渇・寒気・疲労・呼吸困難・内部的痛感など。感情と強い関連性を持つ。』とあります。
さらに『ブリタニカ国際大百科事典』によれば、『身体内部に刺激源を持つ感覚で、内臓感覚、平衡感覚、運動感覚などを含めてさす場合と、内臓感覚または臓器感覚だけをさす場合とがある。内臓感覚は内臓器官の状態、とりわけ欲求に関与した状態を伝える感覚とされ、空腹感、満腹感、のどが渇いた感じ、尿意、性的な感覚などがこれにあたる。吐き気、めまいなどもこれに加えられる。いずれも視覚や触覚などと違ってその感覚の投射される部位が明確でないことが多い。』とあります。
このような感覚は、実際にこうした感覚を体験している本人にしかわからない個人的なものですから、人が感じている状態と自分の状態を比較することができません。
また、普段から同じような感覚を繰り返し体験している人と、ほとんど体験したことがない人が感じる感覚は感じ方が違います。
たとえば普段から登山が好きな人であれば、少し山を登った程度では呼吸が乱れることも少なく、それほど疲れを感じないで、感情も平静もしくは快適と感じているかもしれません。
ところが登山の経験もなく普段から運動もしない人が、同じ山を同じように登れば、息も苦しくなり、のどもすぐに乾くかもしれませんし、疲労して足腰など体に痛みも感じて、感情的にも不快に感じるかもしれません。
同じ体験をしても、人によって疲労の感覚に違いがあるでしょう。
たとえば熱帯雨林のような場所で育った人と、一年中氷河があるような場所で育った人では、暑さや寒さに対する感じ方がずいぶんと違うと思います。
飢渇・寒気・疲労・呼吸困難・内部的痛感などといった感覚による判断には、その人の主観やこれまでの経験や感情が入っています。
すると、体験する人によってずいぶんと違う感覚を感じて相対的主観的になりますから、このような感覚をすべて疑うとデカルトは言います。
ナンバー1835 2020.01.26 につづくでしょう
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第3章 光とともに ナンバー1833

2020-01-18 20:59:44 | Weblog
ナンバー1833 2020.01.18  デカルトの自然に対する研究方法
数学部門を「普遍数学」として統一したのと同じ手法によって、この自然界に存在する様々な生物や人間、自然現象などについても体系化できるとデカルトは考えました。
人はみな違う環境で生まれ育つため、その人の感覚や感じ方、経験なども人それぞれ違ったものになります。
そして自然環境や生物も常に変化しています。
このような研究者たちの経験や感覚と、人間や自然そのものが持つ独自の感性という研究対象を結びつけて研究する学問になります。
すると観察の対象が持つ感覚的性質が、観察者の感覚器官に対して相対的な主観的な性質だということを、自然を相手にする研究者は心得なければならないと、デカルトは言います。
彼はこの点を強調して、感覚的性質をすべて幾何学的構成に置き換えて、自然を相手とする学問を世界幾何学に帰着させようとしました。
彼は精神と自然と神の存在を、絶対的な明証に支えられた根本学問として確立しようとします。
そのため感覚による判断をすべて退けて、たとえば2+2=4という数学的真理のようにしてしまえば、もう疑う余地はないと考えます。
その場合でも、全能の神または霊がいつも私たちを欺いているかもしれない、数学の命題も絶対的な確実性を持たないといいます。
こうしてすべてを疑った後に残るものは、疑っている私たちの存在そのものです。私たち自身が私たち自身を疑うことはできません。
そして疑う働きは、感覚や想像の働きを超えた、純粋な思考の働きです。
「疑う」を「考える」に言い換えると、「私が考える、ゆえに私はある」となり『我思うゆえに我在り』ですが、これが第一の形而上学的な真理だと、デカルトはいいます。
「疑うものとしての我」が存在する限り、それは不完全であり、かつその不完全なことを知っているが、それを知っていることが逆に、我がうちに「最も完全な者」の観念が宿っていることを示していると考えます。
この「最も完全な者」の観念は、不完全な我が作為できるものでなく、感覚が外から伝える観念でもなく、結局現実に存在する「最も完全な者」である神が我々の精神に刻みつけた観念なのだと言います。
そこで我々は、「神は存在する」ことを認めなければならないとします。
このようにして神に支えられた純粋な精神としての「我」の存在が確立されれば、「我」が自然について数学的明証を持って認めるところのものは全て真である、ということができます。
完全なる神はあざむくはずは、ありませんから。
ただ、数学的明証だけが純化された精神の認識であり、客観性を持つ、とデカルトは考えます。
ナンバー1834 2020.01.22 につづくでしょう

今日は寒いですね。
今年一番の寒さでしょうか。
暖かくして冬を乗り越えてくださいね。
 
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第3章 光とともに ナンバー1832

2020-01-14 21:05:02 | Weblog
ナンバー1832 2020.01.14  デカルトの学問研究の方法
量子が波のように広がっている状態を観察者が見ようとすると、粒子として姿を現すということは、量子は観察者の意識を感じ取る知覚能力を持ち、この能力によって外部にあるものを認識していると思われます。
そして認識したものを、現実のものとしてつくり出すことができる意識を持つと思われます。
最小単位の粒子に意識があるということは、この粒子からできているあらゆる物体にも意識があり、その意識が表現されているものが、私たちが客観的に認識できる物事として現れていると考えられます。
「意識」とは国語辞典によると『自分が現在何をやっているか、今はどんな状況なのかなどが自分でわかる、心の働き』でした。
人間の場合であれば、生まれてから今日までの経験や先入観などに人それぞれ違いがありますから、意識や思考といった心の働き方も人それぞれに違いがあります。
とくに感覚を通して入ってくる情報の中には、正しい情報のこともありますが、誤った情報を受け取っていることに、気がつかないままのこともあり、玉石混交といえます。
このような虚偽や真実が混じっている状態のものを、正しく選び分けて、すべて明らかにし、疑う余地のないものであることを動かない確かな証拠によって証明できるようにするためには、物事に対して懐疑的になる必要があります。
デカルトは感覚がしばしば誤った判断に導くことを認めて、単に外部に対する感覚だけでなく、内部に対する感覚すなわち有機感覚に対しても信頼を置かないといいます。
感覚による判断をすべて疑って、もはや疑う余地のない動かない証拠を上げて証明する明証的原理を求めなければならないと考えます。
さらに、数学的な真理は疑うことはできないと考えて、数学の解析方法を学問研究の方法一般に広げて考えます。
ギリシアの幾何学における解析の手続きと、近代の代数学の方法とは、どちらもまず未知数(x,y,z)を既知数(a,b,c)であるかのように扱い、未知数と既知数のあいだの関係を定めて、次にそれぞれの数の分析によって、未知数を既知数に帰着させます。
デカルトはこの方法によって、それまで不統一の状態にあった数学部門を「普遍数学」として統一しました。
デカルトは数学こそ真の揺るぎない確かな証拠によって証明できる明証を持つ学問であると考えていましたから、自然界の現象や生物を扱う自然学もまた数学によって体系化できると考えました。
ナンバー1833 2020.01.18 につづくでしょう

デカルトの考え方によって、現代科学が進歩しているのは、すごいですね。

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第3章 光とともに ナンバー1831

2020-01-10 20:59:03 | Weblog
ナンバー1831 2020.01.10  物質と意識
ルネ・デカルトは、誰もが受け入れられる原理として「物質や事象を客観的な対象物として、観測をするという主観的な行為をおこなう人間の意識や精神とは、全く別のものだから分けて考える」ことが良識であり理性であると考えます。
良識は理性と同一視できるものであり、理性を正しく導くために学問において真理を探求するための方法として、物心二元論を提唱しています。
物体や事象や自然現象には、人間のような意志や心がないのだから、全く関係のない別の独立したものとして切り離して考えることで、普遍的な世界認識に達することができると彼は考えていました。
このような考えに基づいて、普遍性を求めることで、近代科学は成功を収めてきました。ところが20世紀に入り、原子よりもさらに小さな世界を探求し始めると、粒子は波状に広がっていることがわかりました。
粒子の位置を明確にしようとすると、その粒子の運動量が不明瞭になり、位置と運動量を同時に正確に知ることができなくなります。
エネルギーを明確にしようとすると、その時の時間が不明瞭になり、エネルギーと時間も同時に正確に知ることができなくなります。
たとえば走っている車の位置と運動量を同時に計算することはできます。それがミクロの粒子になると、粒子が波のように広がって位置も運動状態も無数の可能性が重ね合わさっている状態で不確定性原理が適用されます。
ところが、人が観察をした途端に粒子が姿を現すのですから、粒子には「今、自分が観察されている」と感じる心があると考えられます。
ルネ・デカルトの方法論で考えれば、粒子は物体であり心を持たないと考えます。
心を持たない粒子が、誰も見ていないところでは波のように広がって無数の状態が重ね合わさっています。
ところが人が観測したときにだけ一粒の粒子として現れるということは、何を意味しているのでしょうか。
粒子は人から見られていることを感じ取る知覚能力を持ち、観察している人の意識に反応したのだと、私は思います。
観察者は無意識のうちに、分割不可能な最小単位の普遍的な粒子を観測しよう、として粒子を見ます。
すると量子は観察者が無意識に持つ意識を感じ取り、その思い通りに現れる力を量子が持っていると考えられます。
人が何かの行為をしようと意識することで、その行為をおこなうことができるのと同じように、粒子もまた人に観測されたことを意識できることで、粒子として現れることができると考えられます。
ナンバー1832 2020.01.14 につづくでしょう
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第3章 光とともに ナンバー1830

2020-01-06 20:59:06 | Weblog
ナンバー1830 2020.01.06  デカルトの思想と近代科学
フランスの哲学者ルネ・デカルト(1596~1690)は、物質や事象を客観的な対象物というものとして扱い、観測をするという主観的な行為をおこなう人間の意識や精神とは、全く別のものだから分けて考えなければならない、という「物心二元論」を提唱しました。
この物心二元論は、物体や事象や自然現象には、人間の意志や心のような動きや働きはないので、物事と心をそれぞれ全く関係なく独立した存在とみなして、完全に切り離して考えます。
物体や事象や自然現象を客観的に細分化し、合理的で数学的な根拠に基づいて懐疑的な立場で詳細に物事を分析して解明していきます。
デカルトの著書、『方法序説』(正式な名称は、「理性を正しく導きもろもろの科学における真理を探求するための方法に関する序説」)に「自分の精神が受け入れうるあらゆる事柄の認識に達するための真の方法を探求する」ための「方法の4つの規則」を次のように提示しています。
「注意深く独断と偏見を避けること」
「問題を解くために要求されるだけの小部分に分割すること」
「認識しやすい対象から複雑な対象へと、順序に従って進むこと」
「何も見落としていないと確信できるよう全体の通覧をいたるところでおこなうこと」
これら4つの規則は近代科学が受け入れ、実行している科学的な手法といえるでしょう。
(この方法を用いていたら、私のこのブログは、とうの昔に破綻している…^^;;)
さらに彼は生き方の指針として、次の「3つの格率(規則)」を提示しています。
「政治・宗教的な立場は保守主義をとり、その他の事柄は中庸の意見に従う」
「自分の意見には決然とした態度で迷わずに従う」
「自己に打ち勝つことに努め、世界の秩序よりも自己の欲望を変えることに努める」
デカルトは自らに課したこれらの方法に従って、自分の全生涯を真理の認識に当てることを決意し、哲学に没頭したといいます。
このように疑いのない手法によって確実な真理を論理的に展開することを科学者たちがおこない続けることで、物質に限らず生物も含めて、あらゆるすべてのものは分子や原子からできていることが明らかになりました。
そのため人間の肉体もまた、物質と同じように取り扱う学問として、近代的な西洋医学が発展しました。
デカルトの物心二元論の提唱から300年が経過した今、この考え方が人類共通の常識として当たり前になり、この近代科学の科学技術によって解明されたことを活用することで、私たちもこの近代科学の思想の恩恵を受けながら生活をしています。
ナンバー1831 2020.01.10 につづくでしょう

あけましておめでとうございます
皆様の年末年始はいかがお過ごしでしたでしょうか。
わたしは、30日から昨日まで、連続して仕事でした。
明日からやっと正月休みです。
今年は、東京オリンピックがありますね。
皆様にとって良い年となりますように。
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