心と体を通して見えてきたもの

個人的な生まれ変わりの体験談。心とは?カルマとは?人間の本質や使命とは?
といったことを考えてます。

心と体を通して見えてきたもの №71

2007-08-31 21:08:19 | Weblog
私は森の入り口に小屋を造って一人で住んでいます。30代ぐらいです。
森の中には、沼があります。その周囲を歩いています。つなぎのズボンに、シャツを着て帽子を被っています。髪は栗毛で鼻の下に髭もあります。体格は細いけどがっちりした感じです。パイプで、タバコを吸っています。一人で歩いて、この沼の周囲はよく通る散歩のコースです。
私はこの散歩コースを歩く時、よく思索にふけります。また、町に住む好きな女性のことを考える時もあります。でも、彼女と話す勇気がもてません。どうも理屈の嫌いなお母さんの事を思い出し、彼女もそうであったらどうしよう?と思ってしまうようです。私は物事を深く考えることが好きでしたから、こういう自分を彼女がどう思うか?と思うと気が引けてしまったようです。
家の前の手作りのベンチで本読んでいると、小さい子供が遊びに来ました。
子供たちは私のことを「物知りおじさん」と呼んでいます。だから私もいろいろ教えてあげています。
「今日は何を聞きたいの?」って聞いてあげます。学校帰りの小さい子供がいっぱい来て、いっぱい質問をしてきます。だからいろんな事を教えてあげます。森の中の生き物のことや、植物のことなどいっぱい教えてあげます。でも私はあまりうれしくありません。子供たちはいっぱいいろんな事を知っている私になついて、いろいろな事を聞いてくれるのはうれしいけど、でもなんとなく何かが欠けているようで寂しいから、うれしくありません。
№72につづく
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心と体を通して見えてきたもの №70

2007-08-29 20:40:27 | Weblog
ある日曜日の朝、私はいつものように、町のみんなで作った木の教会にお祈りにでかけました。
朝の礼拝が終わり帰ろうとしたとき、牧師がみんなを呼び止めました。みんなは帽子を持って入り口の方へ向かおうとしているところでした。私も入り口の所に立っています。
牧師が祭壇へ向かう中央の通路の途中に立って、何か重要な話をしています。
このとき牧師はどんな話をしたのか思い出すことができないのですが、何かインディアンの生活習慣と関係があるようです。
それを聞いてみんな勝手に意見を言い始めました。
怒っている人もいるし、信じられないというように首を振る人もいます。みんなそれぞれバラバラなこと言いはじめます。怒って教会から出て行く人もいます。
牧師につめより「どういうことだ?俺たちはもうここに住めないのか?」
「この町はどうなるっていうんだ?」
「また森を開拓して家を建てるところから始めろっていうのか?」
と詳しい説明を求めている人たちもいます。
牧師も返答に困り果て両手をあげています。
私はみんなのその様子を見ています。なにか問題に対する対応の仕方が違うなと思っています。
牧師はどうにかして欲しいと、町のみんなにお願いしているのですが、みんなの意見が違うからどうすればいいのかわからず困り果てています。怒ってしまい、そんなこと知るか!という感じで、みんなの意見もバラバラです。
私はそこにいても話がまとまらないし、しょうがないなって思って外に出て家に帰りました。
私以外の家族は教会へは普段から行っていませんでした。お母さんは理屈っぽいことが嫌いだから、教会に行くのも嫌でやめてしまいました。お父さんもそんなお母さんを見て、いつのまにか行くのをやめてしまいました。お母さんは弟に教会へ行かせませんでした。お母さんに信仰心がなかったということではなく、人間関係が面倒だと感じさせイライラさせる理由があったようです。
教会であったことを家族に話したら、お父さんとお母さんの意見が分かれてしまいました。
二人ともこの家を出て、それぞれ別の所へ行くと言います。この町にいてもしょうがないって。お互い意見がそれぞれ違いますが、お互いの言うことを聞くものかという感じです。
弟がお母さんの意見に賛成し、お母さんについていくと言っています。弟がお母さんの方が正しいと言っています。
両親の意見を聞いていて、何か二人とも違うような気がしました。
私はこのときもっと真剣に考えなければいけませんでした。だのに面倒だと思ってしまいました。私が口を出して話し始めれば、きっとお母さんは理屈はいらない、と言って怒るだろうと思いましたから。
町を出て行く必要なんかないよ、という人達が残って、他の人達は町を出て行ってしまいバラバラになりました。私は何か対応の仕方が全部違うような気がしました。
私はこの町にも住む気になれず、だからといって新しい土地に引っ越す気にもなれず、森のそばの木を切り倒して、そこに自分で家を建てて住むことにしました。
№71につづく
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心と体を通して見えてきたもの №69

2007-08-27 20:59:39 | Weblog
家の中で夕飯を、食べています。両親と弟がいます。食事をしたいのだけれども何か変な、食べたいけど食べられなくて、私はちょっとみんなを見ています。何か話しをしたいのですが、両親がちょっと変な感じで、話せません。お母さんがみんなにスープを分けていますが、なにか変です。黙って誰も口をききません。お母さんはスープをついで渡してくれるけれど、なにも言わないし、さっさと食べろと言っているみたいな感じです。私の横におとうさんが座っています。新聞を広げて見ています。お父さんは、私とお母さんを見ますが、黙ってまた新聞を見ます。お父さんもちょっと食事が食べにくいなって思っているようです。お母さんが怒るとそうなります。このとき私は10歳ぐらいです。
お母さんは自分の思い通りに行かないことや、小難しい理屈を並べられるのが嫌いで、すぐにイラつき怒鳴り始めます。お父さんにしてみれば、これはもう恒例行事みたいなものさ、といった感じのようです。
15歳ぐらいの時、私は森と畑の間の道を歩きながらお父さんに向かって手を振っています。私は帽子を被り、本を持って学校から帰ってきました。森の外に畑が広がっています。
本を横に置いて、お父さんに「手伝おうか?」と言います。
お父さんはなんだか疲れた顔をしています。斧を渡してくれたので、私は手伝っています。
<おとうさんのこと大好き?>うん。おとうさん、仕事教えてくれる。
森のそばに材木がいっぱい、山のように積んであります。木を加工して柱にしている場所です。私は木を全部、柱にするための作業をしています。
こうして一人で仕事を任されてやることもあります。
№70につづく
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心と体を通して見えてきたもの №68

2007-08-24 21:45:12 | Weblog
ジョンの人生   
ジョンの人生は催眠館ラディアンス(http://www.radiance.gr.jp)という所で知りました。催眠館ラディアンスでは催眠中の内容をタイプしたものを下さいます。その文章のままではわかりにくいと思いますので、年代順に並べ替えて、後から思い出したことも付け加えて、できるだけわるようにしたいと思います。

4歳の私は暖炉の近くに座って、絵の描かれたトランプよりも小さなカードを、並べたり広げたりして遊んでいます。すぐそばの暖炉では、お父さんがパイプをくわえて立って、何か細かくて小さな細工用の大工道具の手入れ作業をしています。少し離れた所で、2歳くらいの弟がお母さんに服を着せてもらっています。
同じ4歳の頃お父さんが森から切ってきた木を斧で削って、家を建てるための下準備作業をしています。
お母さんもすぐ近くの畑で仕事をしていますが、ものすごく怒鳴り散らして、お父さんの悪口を言っています。
「こんな仕事をしなくてはいけないなんて、おまえが悪いからだ」と言っています。
私はこんな風に怒鳴り散らすお母さんのことを嫌だなと思っています。
私がお父さんの顔を見たら、お父さんは全然聞こえてないふりをして知らん顔をして仕事をしています。
弟が、お母さんのいる畑の近くで遊んでいます。
お父さんが私のことを呼んで、そっと「お母さん、ああいう人だから、気にするな」と言います。
私はお父さんに「うん」と答えます。
№69につづく
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心と体を通して見えてきたもの №67

2007-08-22 22:01:22 | Weblog
自分が生まれ育った環境の価値観と、旅行などで出かけた場所の価値観が違うことはよくあることです。
そのとき、「彼らはおかしい、変な考え方をしている。」と思わず、「この人達は、自分と同じような考え方はしないんだな。」と思うことができれば、その人達の価値基準や大切にしているものも理解することができるでしょう。
顕著な例として、宗教があります。宗教には長い民族と文化の歴史がからみあい、簡単には理解できないものもあるようです。
どの宗教も「自分の教えこそが、真実である。」といっています。もちろん宗教として成立し、信者を集めるためには必要なことです。「たぶん…本当かもしれない、たぶんこれが真実だと思う。」などと言っていては信者を集めることはできないでしょう。
「我々は、真実の神を知っている。神と、我々の関係がどういうものなのか、真実を語ることができる。我々の神は絶対であり、間違いはない。だからお前たちも、我々の神を信じるべきだ。」と言い切ることになると、これが宗教的カルマとなって、これに基づいた行為が行われることになります。「我々の神を信じないものには、天罰が下るか、ひどい場合には地獄に落ちるぞ」といって不安をあおったり、他の宗教を批判したり、それに対して報復をすることもあるかもしれません。この宗教的カルマから、宗教戦争は時代を超えて、今でも起こっていることになります。
№68につづく
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心と体を通して見えてきたもの №66

2007-08-20 21:04:56 | Weblog
私が奴隷の過去世では、鞭で打つという加害者になり、ジョセフの過去世では、鞭で打たれるという被害者になりながら、「鞭で打つか、打たれるか」という一つの事をずっと思い続けていました。
このような人生をこれからも繰り返すと思っただけで、気が重くなります。憂鬱になり、生きることに対する意味や価値が失われたように感じ、それがこの人生では、体の重苦しさという症状となって現れていたように感じます。
過去世を知ることで、加害者と被害者の両方の立場の気持ちを理解できた少年僧の私は、「こんな関係は続けたくないから、相手も自分のことも、両方とも許そう」と思えました。そして、自分の過去世と今の人生のすべてを受け入れられたとき、重苦しい症状も消えたのだと思います。
想念は目には見えませんが、人と人の間でお互いに強く影響を与え合っています。
この時の「鞭で打った者はいずれ鞭で打たれるという決め事と、それによって生まれるカルマを許そう」という思いは、鞭で打った人と鞭で打たれた人の両方に作用し、影響を与え、相手の人からも「この関係を許そう」という作用が起こったといえます。
カルマは絶対に避けて通れないものではなく、自分が体験するものに関しては、すべて自分の自由意志によって、選択することができることに気付くことが大切でしょう。
人は自分が傷つけられたり、苦しめられたことはよく覚えていますが、相手を傷つけてしまったことや、相手を苦しめたことに対しては、自覚があまりなかったり、過去のことだからと言って気にとめていなかったり、忘れてしまっていたりします。そのため被害者としての意識の方を持ちやすく「相手を許せない」と思いやすいようです。被害を受けたと言うことは、どこかで加害者であったこともあることを理解し、両方を許すことができれば、このようなカルマを作った自分自身を許すことができ、このカルマからは自由になることでしょう。
しかし、心の奥深い所で「そんなことはありえない、相手が、自分を許してくれることも、自分で自分を許すこともできない」という強い信念がある場合は、一時的に良くなったように見えても、完全には自由になることができません。なぜなら、カルマは自分自身の行為から始まるからです。「自分にはできない。不可能だ。」という思い(カルマ)を決めている以上、癒されて自由になることができないことになります。
№67につづく
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心と体を通して見えてきたもの 番外

2007-08-19 22:52:45 | Weblog
今日も予定を変更して昨日の続きを書きます。

今朝起きた時、ドレスを着たエレーヌが見えました。
いつも戦闘服を着ていたので、ドレスを着たエレーヌに驚きました。エレーヌはなんだか歩きにくそうにしています。
さらに驚いたことに、お城の宴会場のような所で、家族や親類がみんな正装で集まっています。
これから何が始まるのかわからなくてエレーヌのお父さんに聞いてみました。
すると「今日は二人の婚約の儀をおこなう」と晴れ晴れとした表情で言います。
お兄さんとエレーヌは、戦場へ行く前にお父さんから、結婚の許可をもらったままだった(№35)ので、今日正式に婚約のお披露目をするようです。私にも良くわからないのですが、いつのまにかエレーヌは人生を書き換えたようです。死んでしまった後にお兄さんと結婚しなくて良かったです。
エレーヌのお母さんが心配そうに見ています。どうしたのか聞いてみると、
「いつも男物の服ばかりで、今日はじめてドレスを着たので心配だわ。結婚式までにはちゃんとドレスを着こなせるようになってもらわないと・・・。私は最初は反対だったのよ。エレーヌをほかの兄弟と同じように育てることに。でも、これからはもっと女性らしくしてもらわなくちゃ。」
人生を書き換えても、エレーヌにとっては前途多難?・・・な気もします。(^^;)
でも、ハッピーエンドで良かった。戦国時代の兵士さんありがとう、と思ったとき彼が現れました。
「ほんとうに、よかったよ、彼女にわかってもらえて。これで彼女の人生も安泰だ。
ところで、昨日あんたが言っていた、等速直線運動で、戦い続けたら、あんたの時代にはどんな武器があるのか教えてくれないか?」
「え!? どうして?」
「俺の生きていた時代の最新兵器は、火縄銃だ。あれを初めて見たときは驚いた。一度だけ触らせてもらったことがあるが、かっこいいと思ったよ。相手に近づかなくても引き金を引くだけで殺せるんだ。で、あんたの時代の最新兵器はなんだ?」
「エレーヌの時代の武器は弓矢だけど、等速直線運動によって、あなたの時代には火縄銃になり、そして現代では、核兵器かな?」
「俺は戦場で生きた人生のことしかわからないから、趣味も武器の収集なんだ。でも、核兵器というのはどんなものなんだ?それは、俺にも収集できるか?」
「え?核兵器を収集するつもり???」
「だめなのか?じゃあ見るだけでもいい。どこへ行けば見える?」
「アメリカで最初に作られたから、アメリカへ行けば見れると思うけど。」
「よし、今から行ってくる」
「えっ? ちゃんと戻ってきてよ! 核兵器が気に入ったから、なんて言って核兵器に憑依しないでね。あんた死んでんだから」
「わかってるよ! こっち(あの世)には時間も空間も関係ないからどこへでも行けるんだ。その核兵器はいつどこで使われたんだ?どんなものなのか、それも見てくるよ。」
と彼が言うので、長崎と広島に投下されたことを教えてあげました。するとすぐに彼は出かけていきました。
しばらくして、彼が戻ってきましたが、元気がありません。
「どうしたの? 核兵器は見れた?」
「ああ、見たよ。長崎と広島も行った。ひどいもんだ、あんなひどい武器を開発するなんて! なんてこった。戦争で使われる武器はどれも同じだが、核兵器は最悪だな。あんなものに会ったらひとたまりもない」
「そうだね。人の闘争心が等速直線運動をし始めたら、核兵器の開発にまで行き着くんだ。そして、こんどはそれが世界中の国に行き渡る。すると、さらに次のより強力な武器が開発される。そして、その武器も世界中の国が持つようになり、より、強力な武器を開発しなくては行けなくなり・・・、こうして果てしなく続くんだ。」
「そんな世界は嫌だね。俺は護身用の銃があればそれだけでいいよ。」
「え? 護身用の銃を持ってるの?」
「俺の趣味は武器の収集だって言っただろ?」
「護身用でも、もっと強力なものが欲しいと思い、等速直線運動が働き始めたらどうなるの?」
「俺がいつか核兵器を持つ日が来るというのか?」
「うん、そうだよ。それを心配してる。エレーヌに戦争はよくないけど、武器の収集は良いなんて言ってないよね?」
「そんなこと、言ってないよ。俺が言ったのは、戦争がどんなに悲惨なものかという、俺自身の体験だけだよ。」
「ああ、よかった。でも、武器を集める趣味も考え直したほうがいいと思うよ。」
「そのようだな・・・。」
と言うと、なんだか元気なく兵士さんは去って行きました。彼も考え直してくれるといいけど。

次回こそ!№66です!
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心と体を通して見えてきたもの 番外

2007-08-18 18:07:16 | Weblog
今日は、緊急報告?のため、番外で、おまけだけです。すみません。

今日の午前中、手を握り締めて震え始め、腕に力が入り、肩から頭へとそれは広がり始めました。一時間も続くと痛くてたまらず、どうにかしようとしました。
するとエレーヌがうずくまって泣いているのが見えました。
エレーヌのお父さんが、「あの子は、男ばかり4人の真ん中に一人だけ、女で生まれたが、差別するのはよくないと思って、息子たちと同じように育てたんだが、それがいけなかったようだ。」と落ち込んでいるのも見えました。
そこでエレーヌの話を聞くと、「結婚もできないし、戦場でも戦い半ばで死んでしまってくやしい」と言っています。彼女の無念な思いはよくわかります。でもね、私の体を通してこんなふうに表現されては、私の手や腕や肩に力が入って痛くて・・・これは困る(T-T)。
「エレーヌ、気持ちはわかるけど、私の腕や肩が痛いんだけど・・・」
と言うと、彼女は私に抱きついてもっと泣き出してしまいました。(私も泣きたい)
「エレーヌはどうしたいの?」
「このままでは気持ちが治まらない、もっと強くなってもっと戦いの経験をつんで、勝ちたい。」
彼女の気持ちはわかっても、どうしても私には戦いに明け暮れる人生というのは納得がいかないので、そんなことして欲しくないと思ってしまうし…。(困ったなあ)
でもこのような彼女の思いがなければ、現在の私がいないんだと思います。
「エレーヌの気持ちはよくわかる。悔しいよね?
でもこのまま戦いだけの人生を続けても、何も生まないと思うよ。
ただ悲惨な戦いだけの人生を続けても、さらにひどい戦場で戦いに明け暮れるだけだと思うよ。
私はそんな人生、納得いかないんだけど…。
等速直線運動というのを知ってる?これはなんらかの力を加えられない限り、そのままの運動状態を続ける、ということなんだけど、これを、あなたの人生にあてはめて考えると、どうなる?
あなたは闘いの人生を生きたいと思っている。一日中戦場で、勝つまで戦い続ける人生。たとえ一つの戦いで勝っても、さらに強い相手が出てきて、ずっと戦い続けるという状態をずっと、どこまでもどこまでも続けるんだ。エレーヌ、私はあなたにそんな人生を生きて欲しくないんだ。」
「私の国が、侵略され無くなってもいいというのか?」
「それは、困るよね。でも、侵略されないための方法は、侵略者に戦いを挑むことだけなのかな? もっと他の方法、たとえば話し合い、理解しあうといった方法もあるんじゃないかな? 
私はあなたに、戦いに明け暮れるだけの人生を、生きて欲しくないんだ。
私にとって、エレーヌ、あなたは、とても大切な人だよ。
あなたがいなかったら、私の人生もなかったんだから。」
これ以上、何をどう言えば、彼女にわかってもらえるだろう?と考えていた時、
「君の人生があったから、俺の人生もあったんだ。俺は、戦国の世を戦い続けて生きてきた。
エレーヌ、君のもっと戦いたいという思いを引き継いで俺の人生は始まった。そして、戦場で戦い続けた結果、戦っても何も生まないことがわかった。生まれるのは怒り、恐れ、恨み、辛み、呪い…何一つよいことがない。怪我をするだけならしも、家族を残して死んでいく者の無念の思いのなんと悲しいことか。
敵兵に対する憎悪の念が膨らみ、鬼のような形相で憎しみあう、戦で得られるもののなんと悲しきことか。」
と、戦国時代、織田信長のもとで戦った兵士が言いました。
「もっとお前の話を聞きたい。なぜ、戦いを続ける人生で得られるものは、そうも悲惨なんだ?」
とエレーヌが聞きました。
兵士が「よし、わかるように話してやる。」と彼女に言いました。
そして私に向かって「あとは、まかせろ。」と言って、彼女と二人でどこかへ行ってしまいました。
昼食後、用事を済ませて、考えました。私自身戦争は嫌いです。反対なのは当然ですが、戦争体験が一度もないにもかかわらず、大嫌いだ、血を見るのも嫌だ、と思うのは、戦国時代の兵士の記憶が私にそう思わせているのだと思いました。だとしたら、兵士だったときの人生も、今の私にとって大切な人生の一つだと思いました。
このことを皆さんに報告しようと思って、パソコンに向かって座って、この文章を書いている今、エレーヌがまたやって来ました。彼女は馬に乗り、楽しそうに走っています。後ろからお兄さんも馬に乗って来ました。「戦いは、やめたよ。これから、兄と二人で狩に行くよ。」と彼女は言うと走り去ってしまいました。二人はとても幸せそうです。もう、エレーヌが「戦いたい」なんて言わないと思うと、安心しました。
エレーヌのお父さんがうれしそうに二人を見送っているのが見えました。お父さんも安心したようです。
これでもう、肩や腕や手に勝手に力が入って、苦しむことがないんじゃないかな? と思います。
戦国時代の兵士さん、ありがとう。助かりました。

次回は№66の予定です。

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心と体を通して見えてきたもの №65

2007-08-17 22:20:31 | Weblog
またこの人生を思い出した後で、同じように師が弟子のカルマを取り除く話があったのを思い出しましたのでご紹介しましょう。
『あるヨギの自叙伝』という本の『第33章 ババジ ― 現代インドのヨギ・キリスト』の中でババジという不死身の聖者が、弟子たちと大きなかがり火を囲んで座っていたとき、突然一本の燃えるたきぎを取り上げて一人の弟子の裸の肩を軽く打たれました。その弟子は過去のカルマの定めによって、焼け死ぬはずでした。ババジは『わたしは今夜、お前を無残な死の運命から救ってやったのだ。このわずかなやけどを受けたことによって、お前のカルマは果たされたのだ。』と言われました。
この話と、私自身の体験から、カルマとは定められたものではなく、変えてゆけるものなのだと感じます。
『超越瞑想入門』という本の中でマハリシ・マヘッシ・ヨーギは『ある行動の結果を経験することから、一つの印象が生まれ、それは生命が濃縮された種子のように、未来の欲望や行動をおこす力をもっています。このことから、種子と木のサイクルは、想念、欲望、行動、行動の結果、行動の印象というようにつらなる連鎖サイクルに似ていることがわかります。・・・一つの想いとして成育し、あらわれ、行動に進展し、さらに進化を続けて行動の結果となってから、印象に濃縮され、ふたたび発現するための状態を取ります。・・・個人の生命の種子とは、人間の過去の生活からもちこした未実現のカルマです。過去世から持ってきた満たされぬ欲望の総計が種子となって、振動する『生命』をある個人の特定の生命流に造形するのであります。ですからプラナ(生命の本性に属し創造の起動力であり、心の元の力)は欲望と結びついて心を形づくるのです。』といっています。
「過去世から持ってきた満たされぬ欲望の総計が種子となって」次の生まれ変わりの原因となり、新しい人生が始まります。マハリシはこれを種子と木にたとえていますが、過去世から持ってきた満たされぬ欲望がまだ木に成育する前(現実化する前)の種子のうちに、その欲望を満たしてしまえば、事態は大事にはいたらないことになります。ババジは焼け死ぬはずだった弟子の欲望が、まだ種子のうちにわずかなやけどですむように、その欲望を満たしました。私の場合も、先生が私の背中を3度紐で打ったことで、その欲望は満たされました。
№66につづく
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心と体を通して見えてきたもの №64

2007-08-15 20:33:01 | Weblog
「方法はない。特定の方法を行うと言うことは、その価値判断基準の支配下に置かれるということだ。
特定の方法を行うことで、それに縛られることになる。
真の方法は心の彼方にあるものを見つけることだ。
心から一切の信仰、流儀、戒律がなくならなければいけない。
いかなる種類のものであれ、自分を左右し、制約するものが除かれなければならない。そのとき始めて、人は自分自身の創造力によって創造することができる。
それは他人の信仰や考え、思想によってはできない。他人のものに頼るということは、ただの模倣だ。お前は模倣者になりたいか? それとも独立した自由な創造的人間になりたいかね?
考え方や思想形成の過程全体を知り、反省することが、自分自身を知る最初の一歩となる。それが自由独立に導くのだ。今何らかの信仰、思想などを持っているとしても、その正体がわかれば、さらにその彼方にあるものがわかり、真の実存、永遠にして常に在り続けるものにいたるであろう。」

私は先生の話を聞くのに夢中でしたが、いつの間にか体の重苦しさがなくなっているのに後で気がつきました。その後は体の重苦しさも全くなくなりました。
どうも過去世のカルマからきていた症状のようです。
私はこの僧院で、亡くなるまで修行をしたようです。
私は修行には熱心だったのですが、生涯一人で孤独だったような気がします。
私はこの先生の言葉のおかげで、山岳部の行者の誓いから解放されたのを感じます。
この先生は、私が鹿として育てられた時、人間として育てようとしてくれた男性(№15)だったようです。この先生は、私が鹿として育てられた時のことを知っていて、私を助けてくれたのだと思います。だとすれば、ここに先生自身のカルマがあることになります。
№65につづく

ひとりごと
毎日暑いなあ・・・。
なぜかこの先生の言葉を書く時ものすごく集中してしまって、疲れた。
なんでかな?
それにしても、毎日暑いなあ・・・
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