心と体を通して見えてきたもの

個人的な生まれ変わりの体験談。心とは?カルマとは?人間の本質や使命とは?
といったことを考えてます。

第2章 心を通して №279

2009-09-28 18:27:03 | Weblog
私自身が、『認識』に関して『いのちの法則』(シェア・ジャパン発行 ベンジャミン・クレーム監修)という本の中でマイトレーヤが書かれた文を読んでいて、思ったことを書いておきます。
『真我は存在であり、認識であり、光である』ということは、素粒子の一つ一つにも認識能力があり、この認識能力とは真我のことであり、光のこととするなら、私たちの身体を構成している細胞もまた素粒子の集まりなのですから、細胞の一つ一つも認識力を持つ真我であり、光だといえます。
『知識はそれが体験されたときに知恵となる』ということは、知識が増えて体験が増えれば、知恵も増えてくるということです。通常は年齢とともに老化し始めると考えがちですが、この文を見ていると老化はないように感じられます。私たち人類は年老いてボケて死んでいくと考えていますが、それは信念の一つに過ぎないのかもしれません。以前光と想念の性質について考えたところで、光には振動の方向があり、想念にも目的や方向があり、信念となって働き続ける(№190)とありました。もし、想念も光であり、振動の方向が老化ではなく、知識が増し、知恵となり、よりすばらしい未来が開けていく、となれば老化はないことになります。私自身たくさんの過去世の記憶を持っていますが、古い過去よりも最近の過去世のほうがより賢くなっていると感じます。それまでの過去の人生の体験が知恵となって、後の人生で生かされているからなのだと感じています。過去の複数の人生の中でもそうなのですから、一つの人生の中でも、同じことが考えられると思います。
過去世の記憶が何もない方でも、人類全体の過去の歴史を振り返ってみれば、おのずと理解できるのではないでしょうか? たとえばBC50万年ごろの人類は火を使用し、言語を使い始め、狩猟生活を始めました。BC5000年ころには村落定住や、農耕牧畜、土器の製造が始まっています。村落定住や農耕が始まれば、土地をめぐった争いなどが始まるでしょうし、権力者も出てきて、支配者と被支配者といった関係の社会ができてくるでしょう。BC2000年ころにはさまざまな場所で王朝政治などが行われています。
その後のさまざまな経験の中から、長い歴史を経て権力を一部の人たちだけが独占する社会から、現在のような個人の人権を尊重した、自由と民主性や共和性を重視した社会が生まれてきました。
現在ではそれらが普遍的なものとして具体化した、国際の平和と安全の維持を目的とし、戦争を防止し、基本的人権の尊重、正義と国際法の権威を維持し、社会的進歩と生活の向上という多面的目的を持つ国際連合という組織もあります。このような歴史を振り返ってみれば、体験が知識や知恵となって未来に受け継がれ、人類全体に拡大・成長していることが良くわかります。
人類全体の歴史と、個人の生命の生まれ変わりの歴史、どちらを見ても体験は知識として、知識は知恵として、受け継がれ進化・発展していることがわかります。
№280につづく
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第2章 心を通して №278

2009-09-24 18:40:19 | Weblog
「至高なる存在は心、生気、肉体を超えたものである。真我に至高なる存在とその生成を経験させるのは認識である」

「認識は個人化することはできない。認識は至高なる存在と至高なる存在の生成を包含し、認識の中において、真我は平衡を経験する。平衡の実践は無執着によって生み出され、保持される」
認識は無執着とともに増大するものであり、認識があるとき、人は超然として行動する。これが起こるや否や、その魂(人)は心(マインド)と生気(スピリット)と肉体に平衡を経験する。

認識の道……イエスの言葉に―『わたしは道であり、真理であり、生命である。誰もわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない』とある。これは、認識を通してのみ、われわれは全能者(神)のもとに到達することができるという意味である。
この真理が、キリスト教の伝統の中で、イエスの中に人格化されている。もしあなたがこの真理を“非人格化”して考えれば、それを認識の原理として理解することができる。
知識と知恵のみを通して全能者に到達することはできない。その道(知識と知恵の道)はあなたを神々に導くが、それは本質的には心(マインド)の創造物である。この中に救済はない。
だから御父への道は『イエスを通してのみ』であり、言い換えれば認識によってのみである。なぜならば認識の中には執着や欲望がないからである。認識の中には時間も空間もない。
神が“どこにあるか”を意識的に追求しようとすべきではない。なぜなら、あなたが正直で誠実で無執着ならば、その扉は開くのであるから。
「認識を通して、あなたは進化する。主のみがその速度を速めることができる」
「あなたに与えられたものはすべてあなたのものである。それを乱すようなことを許してはならない。意識は、干渉されない限り、聖なるものである。しかしそれがもてあそばれる瞬間に、聖なるものではなくなる。あなたはわたしを喜ばせようとする必要はない。あなた自身の真我を幸せにしなさい。そうすればわたしはあなたと共に幸せである」

認識、知識、知恵について……知識はそれが体験されたときに知恵となる。もしそれを体験しなければ、行動様式のモデルに留まる。ここで頭に浮かぶイメージは図書館である。そこには、あなたが体験するところのものでさえ、棚に積み重ねられたまま置かれている。あなたが無執着な心で行動するや否や、認識があなたを支配する。
「あなたは生と死の周期からの解放を達成することを欲する。ということは、あなたは“ビッグバン(宇宙の起源)”の影響から自由になることを欲することを意味する。しかし、知識や知恵はそれ自体ではあなたの役に立たない。本当の我(真我)を導くのは認識である」。この認識こそが自由であり、救済である。認識は無執着の結果として生まれるのである。
聖書の物語で、アダムとイヴが『知恵の樹の果実』を食べた瞬間に、自分たちの周囲のものを意識するようになった。つまり、無執着を伴わなければ、知識はあなたを罠にはめてしまうのである。人生の足枷の一つとなるのである。
「身体は毎日、入浴を必要とする。心(マインド)と生気(スピリット)も入浴が必要である。あなたの生気はエネルギーの源である。生気は疲労し得る。無執着という水が必要である」

認識のパワー……サウジアラビアが英国と(1988年に)巨大な武器取り引きの契約を結んだ理由は、指導者たちが国内の大衆を脅えさせたかったからである。「それはできない。人々は認識を得はじめている。認識は非常に強力であり、創造(被造物)を消えさせることさえできる。神からこの認識の力(パワー)を得ることが個人個人の運命である。政治家だろうが、宗教の指導者だろうが、誰もそれをコントロールすることはできない」

認識の進化……シェイクや王侯や君主の権力は破綻した。中東諸国の国民が奴隷のように扱われた日々は終わりに来た。国民は国民による国民のための統治を要求している。国民が自分たちの遺産と運命に気づきはじめるにつれて、心のうちに認識が芽生えており、それが世界中に広まっている。種は芽を出して成長しつつあり、花開き、若い世代に果実を与えるだろう。

認識……認識が至るところで増大している。国家間で、人々の中で、そして動物界や植物界でさえも、この認識が人々を自然とのより密接な調和に導くにつれて、問題は自動的に解決しはじめている。
生命、自然、エネルギー、意識、すべてが調和しはじめている。西ヨーロッパでは、若い人々が彼らの役を果たすことを要求し、彼らの声が聞かれることを要求している。以前には、すべてが年寄りによって決められていたが、すべてが変わりつつある。
政治家が喜んで新しい時代に歩調を合わせない限り、彼らは“行き詰る”だろう。……』
№279につづく

ひとりごと
そういえば……日本の政治家も最近行き詰まり、新たな政権ができましたっけ……
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第2章 心を通して №277

2009-09-20 18:40:29 | Weblog
認識への道……認識はヴィシュヌ―心(マインド)と生気(スピリット)と肉体を維持し育む側面の神―である。認識は普遍である。それはいずれの宗教にもグルにも聖者にも政治家にも“所属しない”。“私は正しい、あなたは間違っている”と言って裁定するとき、あなたは執着の網の中に捕らえられているのである。真我はいつも無執着を実践しなければならない。このようにして、認識は増大する。

「身体は毎日、入浴を必要とする。心(マインド)と生気(スピリット)も入浴が必要である。あなたの生気はエネルギーの源である。生気は疲労し得る。無執着という水が必要である」

「あなたの認識を増大させなさい。認識と賢明さが心と生気と肉体を導くだろう。それが心と生気と肉体と、真我との間に調和をつくるだろう」。そうすると、真我は生命(いのち)のフォース(力/エネルギー)を使い、物事を変容させたり、“奇跡”を起こしたりすることができる。心と生気と肉体は単なる器(乗り舟)にすぎない。

認識は核爆弾よりも強力……「認識のみが核爆弾よりも強力であり、そして宇宙の何ものにも勝って強力である。認識は『光をも超える』ものであり、いま急速に増している。」

変化しつつあるものは何か……変化しつつあるのは個人であり、より大きな、より深い認識を経験している。
認識があるときに、すべてが浄化される。
認識があるときに、すべてが許される。
認識があるとき、真我は己が行為者ではなく、創造の目撃者であることを悟る。真我は心と生気と肉体の働きを目撃するが、それらから自由な存在である。そうすれば、ストレスや混乱や無秩序はあり得ようか。

認識がいまだ眠っている状態にあるとき、“主義”が心(マインド)と生気(スピリット)と肉体をコントロールし、分割をつくり出す。これはマヤ、つまり幻想である。認識があなたをコントロールし、導くとき、“主義”はあなたに近づくことができない。認識は、国王にさえも、その王国を放棄させてしまう。特権は分割を生じさせ、あなたのうちなる存在が一体性を顕す機会を否定する。さまざまな“主義”が全部一度に捨て去られることはないだろう。それは途上のステップである。認識が進化の速度を支配する。全能なる神があなたに恩寵を授けるとき、あなたは自分のアイデンティティー(独自性)は保つが、そこまで自分を登らせてくれた梯子(主義)を捨てる。しかしながら、その梯子はまだ地上にいる人々には有益である。

家庭において、学校において、認識が天与の神聖なるものとして尊重されるだろう。認識は創造の母である。認識を分割することは決してできないし、強いることもできない。教科書でそれを描写することもできない、なぜならそれには、始まりもなく、終わりもないからである。認識は体験するのみである。
非常に小さな子供に神を捜すように奨励するのは良くない。なぜならそうすることで、あなたは“主義”をつくるからである。認識はすべての創造(被造物)とすべての個人の中に存在する種である。子供に自然に成長する機会を与えるならば、子供の認識が育つのを可能にする。子供は正常な生活を楽しみ、独断的にはならないだろう。
認識の中では、あなたは子供を所有しない、しかるに、子供たちはあなたより近づいてくるだろう。現在でさえ、九つや十の子供たちが飢えた人々を養うための募金活動をしている。彼らが明日の市民になるとき、どのようになっているかを想像してごらんなさい。子供たちはそれをなすことができる。政治家にはできない。

無執着は恐れをなくさせる……小さな赤ん坊の心(マインド)と生気(スピリット)と肉体を見てごらんなさい。それは正直で誠実で無執着である。すべての者がこのような恐れを知らない段階を経てきたのである。
成人してからの人生の中で、知識と知恵を得て、善と悪、正しいことと間違ったことの間に起こる闘いの過程で、もし人が利己的になるならば、恐怖の影がその人に射すということを認識するようになる。しかしもし無執着で、謙虚であるならば、人はこの恐怖心の影から解放される。
№278につづく

お知らせ
シェア・ジャパンから石川道子特別講演会開催のお知らせです。

広島 11月3日  13:30~16:30 広島国際会議場 ラン 
                 問合せ 082-272-1177
福岡 11月7日  13:30~16:30 福岡市・NTT夢天神ホール 岩田屋本館7F
                 問合せ 092-807-8567
新潟 11月15日 13:30~16:30 新潟市・朱鷺メッセ 3F
                 問合せ 090-5542-9747 
岡山 11月23日 14:30~17:30 岡山市・さん太ホール山陽新聞新社ビル  
                 問合せ 090-9506-2220
札幌 5月29日、仙台 6月6日 を予定 入場は無料です。 総合問合せ 042-799-2915
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第2章 心を通して №276

2009-09-16 18:40:27 | Weblog
以前エジソンが『すべての原子には一定量の原始的な知性が宿っているように思えます』(№155)と語っていました。また、サー・アーサー・エディントンは『物理学は意識の構造に関する学問である。世界は心的素材でできているのだから。』(№251)と言っていました。ボームは『物質を構成しているさまざまな粒子は、それらのいかなる相互作用も説明できぬ高次元の実在の投影と考えざるを得ない』(№252)と言っていました。
エジソンの言う『原始的な知性』と、ボームが言う『高次元の実在の投影』が、意識などの精神的活動であると考えればどうでしょうか?
意識を単純に、『認識』する能力と考えてみましょう。『認識』に関してマイトレーヤは『いのちの法則』(シェア・ジャパン発行 ベンジャミン・クレーム監修)という本の中でたくさんのことを述べておられます。『認識』に関する項目だけを抜き出し、わかりやすくするために順番をかえて書き出してみます。
以下の文を読むにあたって、『マイトレーヤの考え、アイディアを読み取る努力をしてみてください。直感を喚起し拡大させることによって、直感を通して魂があなたに啓明をもたらし、答えを与えるレベルに注目を上げる』(『生きる術』p120より)ように努力してみてください。

『意識と認識……創造(被造物)の領域の中に意識を見いだす。『至高の存在』の領域の中に、偏在、全能、そして極めて単純に、認識がある。グル(導師)や聖者や賢者は、創造(被造物)の中のすべての要素はコントロールされ得るが、至高なる存在の領域は決してコントロールされないということを知っている。

真我……真我は存在であり、認識であり、光である。時間の世界にあっては生存であり、永遠の中においては認識であり、そして光である。「わたしたちはすべて全能なる神の閃光(きらめき)である」

真我のみが重要である……「真我のみが重要である」。あなたはその真我であり、不滅の霊存在である。苦しみは真我ではないものと自分を同一認することによって生じるのである。自分自身に問いなさい。『私は誰か』と。自分を物質(肉体)あるいは思考(マインド)あるいはパワー(生気)と同一認していることに気づくだろう。しかしあなたはそのいずれでもない。「心(マインド)と生気(スピリット)と肉体は、主の宮殿である。真我はこれらの中に、至高の存在と生成を経験する」。存在(Being)は永遠であり、生成(Becoming)は時間と空間の中で展開していく。真我はその両方を経験する。
霊媒を通して真我に接触することはできない。心(マインド)に―その人の心(マインド)の状態に―接触をつけることはできる。しかし決して真我に接触することはできない。『生気』や『心(マインド)』はあなたのものではない。あなたは、心と生気のうちに経験するところのものをあなたのものと主張する。真我が心と生気と肉体に接触を持っている限り、それはあなたのためにそこにあるのである。心と生気と肉体は、真我が入り込む普遍的な特性である。霊媒は心や生気と交信する術を開発する。しかし真我は心、生気、肉体をはるかに超える存在である。

真我の役割……真我はどうなるのか。真我は目撃する。真我は全能者(神)の“小型の役割”を果たす。真我は全能者の閃光(きらめき)である。真我はただ心(マインド)と生気(スピリット)と肉体の過程を観察するだけである。この意味においてもまた、全能者は決して生成(Becoming)の中に干渉しない。真我は認識を通して、己の存在を知らせる。心と生気と肉体にリアリティー(実体)を気づかせる。そうすると、心と生気と肉体は真我の認識を尊重し、それに沿った決断をする。

真我を体験する……もし、あなたがあるがままの自分ではなく、他人の後に従うならば、あなたは自分の輝きを失う。個性の光を反映することはできない。その光なしには、人生における進歩はない。同様に、あなたがうちなる真我を体験して、自分が心(マインド)や生気(スピリット)や肉体とは全く分離した不滅の霊存在であることを知るようになるとき、あなたはこれらの主の宮殿を創造的に、認識を持って利用することを学ぶ。治癒の過程は自動的にそれに従う。エイズを患う人でさえ祈りを通して、そして正直な心(マインド)と誠実な生気(スピリット)と無執着を実践することを通して、治癒を体験するのである。執着を放すことなしに救済はない。

認識と条件づけ……あなたが真我を心と生気と肉体に服従させるとき、すべてがあらかじめ定められてしまう。しかし真我認識を通して行うことは何であれ、あらかじめ定められてはいない。なぜなら、条件づけられた反応から生じるものではないのだから。
(「認識と条件づけ」の、真我認識を通して行うことはあらかじめ定められていないというのは、電子は必ずしも原子核の周りを公転していないという、不確定性原理のことをいっていると思います。また、「真我を心と生気と肉体に服従させるとき、すべてがあらかじめ定められてしまう」というのは、EPRパラドックスのように、一つの粒子を二つに分割すると、一方が右回転であれば、もう一方が必ず逆の左回転になるという実験結果になることを行っているのだと思われます。皆さんはどう思われますか?)
№277につづく

お知らせ
朝日リーナ先生の CD(№4 心のみがき方)を聴く会 が開催されます。
10月3日 午後2時~4時まで  新橋 生涯学習センター ばるーん304学習室
参加費 500円 CD№4は1200円のところを、当日参加者には 1000円です。
詳細は アミカ 事務所  042-989-3192

朝日リーナ先生の勉強会は以前私も、参加したことがありますが、わかりやすくてよかったです。
今までの勉強会の記録がCDになり、発売されています。詳しくはアミカ事務局に問い合わせてみてください。
CD№1 『本当の幸せ』・本当の幸せとは何か・最高の幸せとは ¥1000
CD№2 『正しく生きる』・縁の話(アトランティス)・なぜ自分は生まれてきたのか・「魔」について・「恐怖感」について・マイナス感情をとる方法 ¥1200
CD№3 『思いに形がある』・お釈迦様の話・お釈迦様の説法から・思いに形がある ¥1200
CD№4 『心のみがき方』・運命を変える心の法則・心のみがき方・八正道 ¥1200

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第2章 心を通して №275

2009-09-12 19:09:52 | Weblog
意識とは何でしょうか?
「広辞苑」で「意識」とは、①認識し、思考する心の働き。感覚的知覚に対して、純粋に内面的な精神活動。 ②今していることが自分でわかっている状態。われわれの知識・感情・意志のあらゆる働きを含み、それらの根底にあるもの。
また「心」を調べてみると、①精神作用のもとになるもの ②知識・感情・意志の総体 とあります。
この二つを見る限り、意識は精神活動や働きそのものであり、心は精神活動を行う基になる総体であるといえます。
英語で意識はconsciousness とつづり、ラテン語のcon (使って)とscio (知る)から出来ています。
ラテン語の意味としては、「私たちが知るために使うもの」です。通常の意識の意味は、知覚・自覚・感づくこと、刺激に反応できる能力、接触を認識する能力、波動と同調する能力、認識・判断することなどです。(『意識の進化』アリス・ベイリー著 AABライブラリー発行より)
神智学では意識とは「力であると同時に、質料、形態であり、また同時に生命である唯一者の最高の表現である・・・全体が部分の中にあり、総計が一単位の中にある。一個の電子の中にある意識はピンの先程もないのであるが、この微小なる一個の意識は意識の膨大なる総計、すなわち神に繋がっている。」(『神智学大要』第1巻より)といいます。
また『トランス・ヒマラヤ密教入門第1巻[人間の本質]』(アリス・ベイリー著 アルテ発行)によりますと、『「意識は表現においてその器に依存し、これら二つは両方とも存在において生命とエネルギーに依存している」のである。これは不変の法則である。』といいます。
これらから、意識とは精神活動の働きそのものであることがわかります。また神智学によると、その働きの総計は神につながっているといいます。
意識について多くの研究が、専門家によって行なわれています。それによると、人間の精神的行為は脳の神経活動ですが、意識を生み出す元素や素材がどこかに存在する可能性は無いようです。ですから、現時点では意識を持つコンピュータやロボットを造ることができません。
意識は、神智学が言うように、意識そのものの総計である神から来ていると考えるほかないようです。
№276につづく
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第2章 心を通して №274

2009-09-08 18:06:58 | Weblog
従来の古典物理学では、自然界や宇宙全体に存在するものは、観察者である人間の外側に独立して存在するものであり、客観的に何かを観測しようとするとき、観察者である自分と観察対象とは分離したものであり、客観的に観測可能なものとして、観察者の観測システムである五官で認識可能な、物理的な属性を持つ存在として、また観察者である人間に対立する存在として認識していました。
そして科学者が客観的な立場に立って観察をしようと決め、それは成功してきました。
しかし客観的に捉えようとすることそのものが、主観的な態度だとすれば、その態度によって観察対象の見方が決まり、その見方によって観測結果も変化してきます。存在するものを、ただあるがままに見ることは不可能です。どうしても観察者の意識が入ってきます。主観も客観も偏見もなく、まったく何も意識せずに対象の全体をあるがままに見るだけで、それが何かを意識によって判断することもなく観察することができるでしょうか? 
それは無理です。人間には、本来意識があります。
私たちが何かを意識する時、何かの存在を認め、それが何かを判断するために対象物の隅々にまで焦点を当て観察し、他のものとの違いを何かの方法や基準によって分別し、観測結果を観察者本人の言葉を使っ
て表現します。観察することによって、意識されたものを表現します。
これまで素粒子についてみてきましたが、粒子の様々な位置と運動量、時間とエネルギーといった状態を全部一度に観察することができないことや、観測を行うことで素粒子の状態に影響を与えていて、人間の意識と素粒子は絡み合っていて切っても切れない関係にあることがわかりました。また、人間の意識と粒子だけでなく、粒子同士も絡み合っていることがわかりました。
私たちは意識することによって、何かを認知し、それが何であるかを判断しています。
私たちが何かを認知するとき、それは私たちの外側にあると思っていますが、実はそうではないのかもしれません。観測する対象物はすべて、私たちの意識の中にあると考えれば、素粒子の位置と運動量を同時に観測できないし、素粒子の時間とエネルギーを同時に観測できないというのは、うなずける気がします。
量子物理学者エヴァン・ハリス・ウォーカーは『意識というものが量子現象のすべての過程と関連しているのかもしれない』と述べ、アインシュタインのいう『隠れた変数』は意識と同義語であると言っていました。(№244)また彼によると、『隠れた変数』は高次の秩序によって支配されているものでもあると言っています。アインシュタインにとって、観測をしてもしなくても月はそこにあるのであり、実在であるといいます。観測してもしなくても月がそこにあるのは、意識という『隠れた変数』があるからということになります。
№275 につづく
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第2章 心を通して ひさすぶりに番外です

2009-09-06 17:22:32 | Weblog
今頃と言う感じです見ませんが、『多世界解釈』のところで、とても大切なことを書き忘れていました。
バシャールは、『無限の数のパラレルな地球がすでに存在しています。パラレル・リアリティのすべてが、すでに「今、ここ」にあるのです。そして、あなたがどのリアリティを経験するかは、あなたの波動が決めています。
私たちがそのことをテレビの番組のようだと説明したことがあるのを思い出してください。同じ時間帯にさまざまな番組が放映されていますが、あなたが一度に見ることのできる番組はひとつだけですね。……あなたのまわりの世界は、あなたの意識の波動が映し出されたものです。……物理的な現実とは鏡にすぎません。どんな波動であれ、あなたが送り出している波動を鏡のように映し出してくれるだけです。……物理的な現実とは、あなたの外側にあるのではないのです。あなたの意識の内側にあります。それが外に映っているだけです。』と言っていました。
私は第1章で、自分の過去世をたくさん書きました。自分の過去の人生を振り返っているうちに、私自身さまざまなことを過去世から学びました。それをまとめるとすれば、仏陀の言った四諦になります。『トランス・ヒマラヤ密教入門 第2巻[生命としての地球]』(アリス・ベイリー著 アルテ発行)によれば『四諦は次のように要約できる。悲嘆と苦悩は人間が自ら作り出したものであり、望ましくないもの、はかないもの、物質的なものに欲求を集中させたことが、すべての絶望、すべての憎悪、すべての競争の原因であり、人間の死の領域―霊のまさに死である物質生活の領域―に住んでいる理由である、と仏陀は教えた』ということです。
このことを理解すると、私自身の意識が変わりました。意識が変われば、意識の持つ波動も変化します。その波動の変化にともなって過去世も変化し、「人生の書き換え」が起こったのだと考えられます。
ですが、『パラレル・リアリティのすべてが、すでに「今、ここ」にある』というバシャールの言葉を借りれば、「書き換えられた人生」は最初から存在していたことになります。どのリアリティを選択するかは、私たち自身の意識の波動が決めますから、意識の波動が変わると同時に、その波動に合ったリアリティを選択し、その世界を写し出すことになります。
これが、「人生の書き換え」の起こるカラクリ?なのかもしれません。私自身まだまだ学んでいる最中ですから、断言はできませんがこれはとても大切なことのように感じます。
望ましくないものや、物質的な欲求に身をまかせて何気ない言葉や行動をとることで、いつのまにか一日が終わってしまったりします。でも一つ一つの行為(カルマ)の中に私たちの意識の波動が現れていて、それが現実を作り出しているのだとしたら、それが私たち自身のリアリティを生み出しているのであれば、私たちは生命そのものを生きることにもっと真剣にならなければいけないのかもしれません。

ついで?のおまけです。岩元貴久さんのブログのご紹介です。

『実は先日まで北カリフォルニアをドライブ旅行していました。

旅行中、スピリチュアル・パワースポットとして有名なシャスタ山を訪れ
たのですが、そこで不思議というか奇跡というか、ビックリ体験をいく
つかしました。

そのビックリ体験について、ブログに写真付きで書き綴りましたので
下記URLをクリックしてご覧ください↓

http://www.mshonin.com/regist/rhtcnt.asp?id=81315934788688302019308
http://www.mshonin.com/regist/rhtcnt.asp?id=81315934788688302019308

あ、見れなければ、コピーしてご覧ください。すみません
なかなか、凄い体験では?とおもえたもので、ご紹介しておきます。
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第2章 心を通して №273

2009-09-04 19:00:25 | Weblog
ドイツの物理学者であるハイゼンベルグは『原子物理学者は自分がおこなっている科学が、自然に対する人間の無限の問いかけの鎖の一つにしかすぎず、自然『そのもの』について語ることはないという事実を甘受しなくてはならない』と言っています。ボーアもこれに同調して『我々は言葉と切り離されるわけにはいかない。物理学の対象になるのは、我々が自然について語れることだけだ』と述べています。
アーサー・エディントンは外側にある物理世界は影の世界になってしまったといい、『何ものも実在しないのだ。自分の妻でさえ例外ではない。量子物理学によって科学者は、自分の妻の実体が複雑な微分方程式であると信じるようになった』(ただしエディントンは、この考えを家庭でひけらかすほど自分は間抜けではない、と付け加えています)と書いています。
要するに私たちが観測をおこなっている『実在』とは何なのか? 実験室で観測をおこなってきた科学者たちにはわからなくなってしまったのです。
もちろんそれでも実験室の中で観測をしようとした人々もいます。そのような科学者たちは、
『言葉や科学的[記述]が示している世界は、物質世界というより精神世界なのではないか、と推測した。エディントンは「大づかみの結論を言えば世界に存在するものは心に関係する」と述べている。ジーンズも同じ考えを示している。「蓋然性(推定される可能性)のあるさまざまな論理的証拠が蓄積されており、実在は物質よりも精神によってうまく記述されるという可能性がますます高くなっている・・・・・・宇宙は壮大な機械というより、偉大な思考に近いように思われる」・・・・・・科学者たちは、顕在化した多様な現象の根底にある基本的な実在の正体を明らかにできなかったのみならず、そうしたなんらかの実在が自然界に存在するのかどうかについてさえ語ることができなかった。』と『創造する真空』(日本教文社発行)のなかでアーヴィン・ラズローは言います。
観測者自身がどのように観測をおこなうかは、その観測者自身の人生を反映することになります。
個人の人生は主観的で主体的なものであり、自分で自分が何者であるかを考え、決定し、行動し、それを自分で体験するプロセスを主観的に五官で認識して観測をおこないます。これらの行為を行い体験するのは、私自身の意識です。もし意識がなければ、このような観察も観測も行なうことはできません。
観察や観測をおこなう時、その人の人生を反映するということは「偏見を持たずに」観測をおこなうことができないということです。
№274 につづく
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第2章 心を通して №272

2009-09-01 18:58:07 | Weblog
広辞苑で『実在』を調べてみると、「①実際に存在すること。②一般には、観念・想像・幻覚など主観の所産に対し、客観的に存在するもの、またその在り方。特に、プラトンは感官によって知覚される存在を影にすぎず、その背後のイデア(プラトン哲学の中心概念で、感覚的世界の個物の原理・原型として理性的認識の対象となるとともに、超感覚的価値として価値判断の基準となる、永遠不変の実在)を真の存在と考えた。……」とあります。
②の「一般には、観念・想像・幻覚など主観の所産に対し、客観的に存在するもの」は、主観と客観を対立するもののように説明しています。しかし、ローゼンブルームとクットナーの言葉から考えれば、観測者個人による観測システム(感覚器官)を用いた観測がなければ、『実在』は存在しないことになりますから、観測システムと観測は相対的なものとなり、『実在』もまた相対的なものと考えられます。
特にプラトンがイデアと呼んだ「永遠不変の実在」は、「超感覚的価値」としているところから人間の感覚を超えた本当の実在であると考えられます。
『パラマハンサ・ヨガナンダとの対話』(三雅 発行 スワミ・クリヤナンダ著)という本の中でヨガナンダ師は『真実は、ただ真実として存在します。多くの人が認めるから存在するわけではありません。真実とは、個人一人ひとりに内在する永遠なる真我の中で体験されなければならないのです』と言っています。本当の実在や真実と言ったものは、私たち自身が自分の意識を進化発達させることによって、体験されるもののようです。
『客観』は「誰でもが、その存在を認めることができるもの」です。
誰もがその存在を認めるには、観測をおこなうすべての人自身の観測システムを通して、その存在を認める必要があり、『客観』はあくまでも『主観』の上に成り立つと言うことが考えられます。
古典物理学には、実在性、局所性、因果性、連続性、決定性の5つの基本原則がありました。(№229参照)
実在性とは、物理的世界は客観的に存在するという原則ですが、ローゼンブルームとクットナーは、「観測者は観測システムと不可分に一体であり、観測それ自体によって創造されたもの」を『実在』と呼んでいますから、主観的なものが『実在』だと言うことになります。
観測者自身がどのように観測をするかによって実在が決まるのですから、観測者自身の主観や認識の仕方にその判断はゆだねられることになります。
№273 につづく
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