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復活祈願!!アイドル全盛期!!

2013年09月04日 23時15分24秒 | Weblog

 最近のTVを見ていても、1970年代、80年代に高揚した気分にならない。まあ、年齢を重ねていることに寄ることも大きいのであるが、しかし、今の芸能界を見ていると´´が無いように思う。全てを捨ててでも駆り出されるような、神々しい存在がない。まあ、大好きなAKB48やももいろクローバーZなんかは、この世界に近いのであるが、まだまだのような感じも受ける。圧倒的存在感を放っていた「アイドルの全盛期時代の復活を、真に望むのである!!
 こんな中、当時アイドルとして活躍したが如何せん1曲程度の大ヒットで消息が無くなったアイドルも多かった。所謂「一発屋」である。今回は、そんなアイドルたちを掘り起してみたいと思う。

1.城みちる「イルカにのった少年
 城みちる(じょう みちる、本名城谷 晃太郎、1957年11月18日 - )は、広島県呉市(旧安芸郡音戸町)出身の歌手・タレント。
 音戸町は呉市から海を隔ててすぐの倉橋島にあり、城谷家は江戸期には、両替商として浅野藩の藩札を扱っていた。明治になってから造り酒屋と郵便局・電報局を始めて、父親の代で電器店を開いた。実家は八百坪の土地に、築二百年を越える木造建築で、二階は全て畳で百畳あり、六つの部屋が襖で仕切られていたという。裏山から引いた水を使い、現在も島で一軒だけ、水道契約をしていないという。武田学園呉高校(現武田学園高校)→明治大学付属中野高校定時制→堀越高等学校卒業→駒澤大学中退。

 1972年(昭和47年)中学三年の時、「スター誕生!」の広島県予選で本選出場に残り、翌1973年(昭和48年)「スター誕生!」第7回のチャンピオンとなる。芸能事務所社長長良じゅんの自宅に1年間下宿[。同年『イルカにのった少年』で東芝EMIより歌手デビューした。デビュー曲の曲名を決めたのも長良で、鑑賞していた映画に出てきた『沈没船船首のイルカに乗った少年の像』より曲名が決まった。

 『イルカにのった少年』は50万枚の大ヒット。童顔で細見のルックス、歌唱力で、一躍トップアイドルになる。1975年(昭和50年)の沖縄海洋博では、日本代表として歌唱した。10枚のシングルレコードを出し20歳で引退(芸能活動休止)。その後駒澤大学に入学したが中退。父との約束通り、帰郷して1981年(昭和56年)から長い間、実家の電器店を経営した。

 人気絶頂時に伊藤咲子と交際し、それをお互い認めたため人気を落としたといわれる。当時のアイドルも、みんな恋愛はしていたが、アイドル同士というのは無かったので、大きく取り上げられたのではないかと話している。伊藤とは4年くらい交際し、城の引退後もしばらく付き合っていたという。24歳の時、一般の女性と結婚するが1年で離婚。

 1986年(昭和61年)、長良に誘われビートたけしと会食。ビートたけしは「イルカにのった少年はどこに消えた?」などと、城を漫才のネタに使っていたので、一言文句でもと思ったが、ビートたけしから「来月から始まる番組(「痛快なりゆき番組 風雲!たけし城」)に出ないか」と出演依頼があり、悩んだ末、芸能界に復帰した。芸能活動再開後はタレントとしても幅を広げ「しあわせ家族計画」や、懐メロ特集など多数のテレビ番組に出演している。

 現夫人は地元広島でリポーター業などを行う山本けいこで、1991年(平成3年)に結婚した。近年は夫婦で全国ネットのバラエティ番組に出演することもある。現在、老人ホームを中心とした施設への慰問コンサートを実施しており、特番での懐メロ特集等以外は、ほとんどが地方での仕事である。「ちびまる子ちゃん」のクラスメート、山根君が城みちるの大ファンで有名である。そのことを「秘密のケンミンSHOW」のコーナー「辞令は突然に…」second season ~奥様はさすらいの女子アナ編~ で本人自ら発言したことがある。




2.伊藤咲子「ひまわり娘」
 伊藤 咲子(いとう さきこ、本名:千葉咲子、1958年4月2日 - )は、日本の女性歌手。愛称はサッコ。東京都出身。堀越高等学校卒業。所属事務所はミュージック・オフィス合田。
 デビューにあたって「スター誕生!」で芸名を公募した際、男性器をもじった案が、下ネタ嫌いと言われる司会の萩本欽一によって紹介された。また、その前には、スター誕生!出身の森昌子、山口百恵、および 桜田淳子からそれぞれ1字ずついただいた「森山 桜」という案も紹介された。そして最終的には本名でデビューすることになったと萩本が発表した。歌手活動休止期間はカラオケパブの経営者であり、伊藤がアイドル歌手であった頃のファンが度々訪れたという。祖父母が山形県出身であり、両親は山形疎開時に結婚したため、山形に深い思い入れがある。このため、出生も育った地も東京であるが、山形は自分の故郷と語っている。咲子出生前は、両親は山形に住んでいたが、咲子出生時は東京に転居していた。母方の親戚に声楽家の砂原美智子がいる。同期デビューの城みちると3、4年間交際していたことをお互い明かしている。




3.堀江淳「メモリーグラス」
 堀江 淳(ほりえ じゅん、1960年10月19日 - )は、北海道出身のシンガーソングライター。タニプロモーション所属。血液型はA型。身長164cm、体重48kg。
北海道苫小牧市生まれ。苫小牧南高等学校卒業後、札幌のライブハウスを中心にプロデビューを目指して活動する。1979年、CBSソニー(現・ソニー・ミュージックエンタテインメント)の第1回SDオーディションに合格し、1981年、「メモリーグラス」でデビュー。中性的な容姿・声も話題になり、デビューシングルは70万枚の大ヒットを記録する。オリコン最高3位。1994年、ビクターエンタテインメントへ移籍しアルバム「微風通信」をリリースした後、1998年ユニット「spoon」を結成。ライブ活動やインターネットテレビへの出演、アニメ「ドキドキ伝説 魔法陣グルグル」のEDテーマを手がける等の活動を行ったが、2004年に活動休止。

以後、ソロ活動に戻り、ラジオ出演、他ミュージシャンのプロデュース、楽曲提供など地道に活動を続ける。2006年、デビュー25周年。

世間では一発屋として認識されており、いわゆる「あの人は今!?」系の番組に頻繁に出演している。あるバラエティトーク番組では「今もメモリーグラス関連の収入で暮らしている」と発言し周囲を驚かせた(自身が作詞・作曲した曲のため、カラオケの著作権収入が年間約200万円程度入ることもあったらしい)。

また「メモリーグラス」のヒットからしばらくした1983年、交通事故に遭い負傷したと報道されたことが原因とみられる死亡説が流れたことがあるが、その噂が立った後、自ら健在であることをアピールするため「“生きてますよ”コンサートツアー」と銘打ったツアーを挙行した。しかし、生きているのを知るのは会場に来たファンのみで世間で死亡説は消えず、さらにはアジア移住説までもが流れ「堀江淳をタイで見た」等の目撃証言等も報じられたが、本人は「僕はタイに行った事ないから」と語っている。

小堺一機がザ・トップテンでレポーターを務めていた際、最初は「小堺さんよろしくお願いします」と腰が低かったものの、人気が上がっていくに連れて「小堺さん」→「小堺君さぁ」→「おい、小堺!」とわかりやすすぎるくらいの天狗っぷりを小堺と関根勤が担当していたラジオ番組「コサキン」でネタにされていた。

2006年9月までエフエム世田谷『オープンサロン834』を担当していた。三軒茶屋キャロットタワーのサテライトスタジオから毎週水曜日に生放送を行っていた。

東京・広尾の交差点で昼間に信号待ちをしている時に「水割りを下さい。涙の数だけ」という歌詞とメロディーが思い浮かび、それを元に「メモリーグラス」という曲を書き上げた(酒を提供する店でアルバイトしていた時期があり、客が「水割りを下さい」という言葉が耳に残っており、そこからインスピレーションを膨らませたという)。既に決定していたデビュー曲を押しのけ「メモリーグラス」でデビューを飾る。

「私は北海道出身。当時、水割りと言えば、ウィスキーの水割り」と述べている。

「メモリーグラス」には水割りが登場するが、「水割りは苦手な堀江淳です」と述べている。飲むのはお湯割り。「水割りをください」と言った事はないと言う。
『ザ・ヒットパレード』では、ニューミュージックではなく演歌・ムード歌謡に分類されていた。

高原兄とドロップアウターズを結成したが、業界ではウケたものの、世の中に出ることは無かった。
KNBラジオ「高原兄の5時間耐久ラジオ 長て長てこたえられんが」の企画で2006年6月17日KNB第3スタジオで再結成し、抽選に応募したリスナー(全員)の前でライブを行った。

2008年3月より所属事務所をFORTUNE(フォーチュン)へ移籍。2008年4月、グループ会社・タニプロモーション所属に変更。ボイストレーナーとして後進の指導にも当たっている。2013年4月、ビクターエンタテインメントから「花ひとつ 夢ひとつ」をリリース。西田敏行が歌詞を提供した。




4.藤正樹「忍ぶ雨」
  昭和48年3月、日本TV『スター誕生』で『新潟ブルース』を歌って、第6
回グランドチャンピオンとなる。

 『艶歌の怪物ハイセイコー』のキャッチフレーズを引っさげ、同年7月25日
キャニオンレコードより『忍ぶ雨』でデビュー。坊主頭に学生服の出で立ちが注目されましたが、「忍ぶ雨」等のヒットのみで、やはり短命に終わってしまった。




5.三善 英史「雨」
 
本名:田村 照彦(たむら てるひこ)、1954年9月2日 - )は東京都渋谷区出身の演歌歌手である。相洋高等学校卒業。
円山町の芸者の息子として生まれる。端正な顔立ちとプロポーションが目を引き渋谷でスカウトされ、歌手となる。1972年、デビュー曲『雨』がいきなりの大ヒットを飛ばし、同年、第14回日本レコード大賞・新人賞、新宿音楽祭・銀賞、第3回日本歌謡大賞・放送音楽新人賞を獲得。
 翌1973年、『円山・花町・母の町』でNHK紅白歌合戦に初出場し、以後1975年まで出場を果たす。ちなみに『円山・花町・母の町』では当初の約束ではシングルとして発表しないことになっていたにもかかわらず、本人の出生のことがプロモーションの一環として利用されたことが不本意らしく本人から好んで話すことは多くない。
 その後に発表した曲はヒットに恵まれていないが、俳優やタレントとしても活動している。2008年、元ちゃらんぽらんの富好真とお笑いコンビ「みよしとみよし」を結成、同年のM-1グランプリにも出場している。結果は2回戦敗退。