AKB48をめぐる妄想

AKB48にハマった私「カギ」が、好き勝手なことを述べるブログです。

善意と美談の陰で

2011-08-10 13:03:05 | Weblog
 朝方まで書き続けていたのだが、ブログに載せる直前に寝落ちしてしまった。ので、会社から昼休みに上げておく。

 前のエントリについて友人から「あなたが高みな批判って珍しいですね」と言われた。私としてはそんなつもりはなかったので、ちょっとびっくりして「えっ、どこが?」と聞き返してしまった。「だって『研究生たちが劇場で頑張ってくれているから、私たちも安心して外の仕事ができる』って、あれ高みなの発言でしょ」と言われて、ああそう言えばそうだった、と思い出した。ただ私としては、高みな一人だけではなく、類似の発言をする、あまり劇場に出られていないメンバー全般について言っているつもりだ。そして、確かにメンバーへの批判ではあるが、メンバーその人の善意についての疑いは毛頭ない。その点について私の言葉も足りなかったので、いささか補足をしておきたい。

 おそらく、そういう発言をしているメンバー本人は、まったく悪気がないし、劇場を軽視もしていないだろうと思う。それどころか、本人たちにとって大事な劇場であるからこそ、そこに出られない現実を申し訳なく思い、代わりに劇場に出てくれている研究生(や、そこから昇格したメンバー)を称え、感謝する、というのが「彼女たちの」ロジックなのだ。だから「美談」なのである。彼女たち本人が劇場を軽視しているのであれば、劇場で頑張っている研究生やメンバーを称えるという文脈で持ち出すはずがない。

 ましてや、ほかでもない高みなにおいては、なおさらのことだ。高みながどれだけ劇場公演を大事に思っているか、どれほどの愛着と情熱を注いで劇場公演に取り組んできたかということは、5年半以上にわたって劇場公演を見てきた私としては、十分過ぎるほど知っている。本人も今年は劇場公演にたくさん出たいということを公言していた。裏表のない彼女のこと、その気持ちは紛れもなく本当だろう。

 だが、問題はここからだ。高みなが劇場公演に対して、ほとんど執念とも言うべき愛着を持って取り組んでいるということを、今は知らない人もたくさんいる。そして、たとえ本人の気持ちがどうであれ、劇場公演に出られていない現実は現実である。そのような状況で、高みなの思い入れといった背景情報なしに「研究生たちが劇場で頑張ってくれているから、私たちも安心して外の仕事ができる」という発言を聞いた時に、それがどのように受け取られてしまうものなのか、ということが一番の問題なのだ。それが「劇場軽視を公然と言い放っている以外の何物でもない」ということなのである。

 そして、発言した本人の意識と、それが実際にどういう意味をもって聞こえてしまうかとのズレが理解できるのは、他のメンバーや劇場スタッフなど、周囲の限られた人になるはずだ。だから私は「スタッフを含めた誰も気付かないのだろうか」と言ったのだ。送り手側にとって「美談」であっても、今のAKB48ファンがどのような状態にあり、どのように感じるものなのか、その現実が見えていなければ、その発言はまったく逆の効果をもたらすということなのである。高橋さんに限らず、現状で劇場公演にあまり出られていない人たちは、劇場公演と外仕事を対比するような発言については、誤解が生じないように十分に気をつけて欲しい。

 そもそも、どれだけ劇場公演が好きであっても、出られていないのが現実である以上、そこで「本当は劇場公演が好きなんですけど、なかなか出られなくて」という発言をしたところで、それが何になるのか、ということは考えた方が良い。おそらくスケジュールは周囲のスタッフが決めることであり、彼女たち自身の意思でどうなるものでもないだろう(つまり劇場を軽視しているとしたら、それは各事務所の問題ということだ)。しかし、だからと言って、メンバーが「劇場が好きでも出られない」をファンに言って、何か良いことがあるだろうか。先の例のように、本人の気持ちとはおよそ違う意味に聞こえてしまうのがオチだ。劇場公演が好きだということをことさらに語り続けなくても、知っている人は知っている。言うとしても、時々、大事な場面で語るだけで良い。

 加えて、そうした「美談」の陰で、現実には研究生のオーバーワーク状態が続いているということは、メンバーにも知ってもらった方が良いと思う。もちろん、メディア選抜で外仕事に忙しい彼女たちは、劇場公演組に比べて時間的にも精神的にも厳しい日々を送っていることだろう。そしてそういう彼女たちも、かつては同様に過酷な劇場公演の日々を過ごして来た。そうなると劇場公演で限界以上に頑張ることが「大変だけれど当然の道」になってしまうのではないか、という心配がある。だが思い起こして欲しい。これまでにどれだけの仲間が、慢性化した怪我のために無念の思いでAKB48を去って行ったかということを。そういう人たちを未だに、そしておそらく今後も産み続けることは、あなたたちの望むところではあるまい。

 AKB48ではメンバーもスタッフもファンも、その多くが「劇場公演で頑張る」ことを良しとして来た。私自身ももちろんそうだ、というよりむしろ、率先してそれを煽って来た側だというくらいの自覚はある。メンバーや研究生がより多くの出番とチャンスを求めていくつものポジションを習得し、公演が連日続いても全力ですばらしいパフォーマンスを発揮すること。だがそれが、最近は過度に美談化され、メンバーや研究生に対して、限界以上のものを求めることになっていないか。

 今は超メジャーなあのメンバーもそうやって努力して来た、だから成功したのだ、同じように頑張れと言葉で言うのはたやすい。だが、個々人には体力や能力の違いがある。ある人にはできたことが、別の人にはできないことだってある。心はそのつもりでも、身体が悲鳴を上げてしまうことがある。それを個々人の努力不足であるかのように言い繕うことで、見逃してしまっている、いや、あえて見ようとせずに済ませてしまっている問題があるのではないか。とりわけスタッフにおいて、必要な改善ができないことの免罪符になっていないか。私が最も危惧するのはこの点だ。

 人の歴史を振り返れば、美談の強要が起きる時、その背後では往々にして、腐臭が漂っているものなのだ。