AKB48をめぐる妄想

AKB48にハマった私「カギ」が、好き勝手なことを述べるブログです。

沙羅双樹の花の色

2011-08-09 02:31:10 | Weblog
 何と言うかこのところ、AKB48関連で「高まれない」日々が続いている。ひっかかりの最初は、やっぱり西武ドームなんだろうと思う。

 私は素人なので単なる推測なのだけれども、劇場公演はもちろん、各種ライブやコンサートがそれ自体の入場料でペイするわけではなく、それが映像コンテンツとしてオンデマンドやらDVDやらで二次利用されることで収支が成り立つのだろう、ということは、何となく想像がつく。ただそれでも、西武ドームはあまりにも露骨だった気がする。

 あれだけ大きな会場でありながら、センターステージの中央部にぎゅっと固まったままで歌い踊るメンバー。おそらくメンバー間の立ち位置の距離は劇場公演と同程度ではなかったか。しかし今のAKB48は、そのやり方でも、あの大きなドームで、スタンド上段なら100m近く離れた場所にいる客を魅了するだけのパフォーマンスができるのだろうか。あるいは、コンサート向けの新しい立ち位置と振り付けを教える/覚える暇がなかったから、多くの曲を劇場公演と同じ感覚で踊れるようにしなければならなかったのだろうか。どちらであるかは知らないが、どちらであっても次に来る問いは一つだ。一体誰のために、何のためにコンサートは開かれるものなのだろうか。もし主目的がその会場にいるファンのためでないならば、それは良いコンサートになり得るのだろうか。

 ひっかかりは随所にあるのだけれど、挙げていくときりがないので、特に大きいのをもう一つ。SKE48の出番について言えば、1・3塁ベンチ前のサテライトステージも使い、さらにセカンド後ろあたりのサブステージで「パレオはエメラルド」を歌う、というあたりは、なかなか良かったとおもう。しかし問題はその後だ。あの大人数を柵もないサブステージに全員乗せたまま、あんなに高くせりを上げる必要があったのだろうか。確かに、約10mものせり上げは、あの大きなドームで遠目に見てさえも見栄えがし、迫力はあった。だが同時にそれは、客が不安になるほどの高さと密集度だった。いかに客を楽しませるためとは言え、それがメンバーの安全と引き換えに実現されるものであってはならないはずだ。メンバーを大事にしない演出で、私たちファンがどうして楽しめるだろうか。

 西武ドームで超人気メンバーを集めたスケジュール調整の反動なのかどうか知らないが、その後の劇場公演は、また以前のように研究生が圧倒的多数の「シアターの女神公演」と、SDN48公演ばかりになっている。週末は特にそうだ。ごくたまに行われる「目撃者」公演や「RESET」公演には選抜常連級のメンバーがほとんどいない。それどころか、そもそも公演を何のためにやっているのかすら疑わしく感じる。「公演の中で生誕祭が開かれる」というよりは「生誕祭のために公演を設定した」のではないかと思えてしまうほどだ。

 メンバーに外の仕事がたくさんあるのは良いことだ。彼女たちが引く手数多であることが、特にあの不遇の時代を知るファンとしてうれしくないわけがない。だから、今の状況を丸ごと否定するほど愚かではないつもりだ。しかしそれにしても、それにしてもなお、やはり限度というものがあるのではないか。特に大きな仕事(連ドラの主役級とか映画撮影)が入っているのであれば一時的には仕方ないが、そういった特段の事情なしに月に1度も劇場公演に出られないのであれば、もう「会いにいけるアイドル」の看板は下ろした方が良い。だからと言ってすぐAKB48を卒業すべきだ、なんて過激なことを言うつもりはない。ただ、少なくとも「劇場公演は『これからの』子達がやっています、私たちメディア選抜メンバーは劇場には滅多に出ません、でもまだ握手会では会えます」くらいのことは正直に言うべきだ。

 外仕事の忙しいメンバーたちが「研究生たちが劇場で頑張ってくれているから、私たちも安心して外の仕事ができる」といったことをしばしば口にする。言っているメンバーは劇場で頑張っている研究生たちを称えるつもりで、美談であるかのように語っているが、実のところ、それが劇場軽視を公然と言い放っている以外の何物でもないということに、スタッフを含めた誰も気付かないのだろうか。そして、そういう無神経な美談の陰で繰り返されるのは、研究生たちのオーバーワークと、それによる体調不良、さらには怪我、それも一時的な怪我ではなく、長期休養を要したり、慢性化してエンターテイナーとしての将来が危うくなりかねないような怪我だ。AKB48がこれだけ人気が出て、大きくなったのに、夢に向かう女の子の何割かを消耗し尽くしてしまう構造のままで良いのだろうか。

 誰もがAKB48の人気の中で原点を忘れ、足元を見失っていないか。確かに今、AKB48という大きな船に乗れば、一人で小さなカヌーで漕ぎ出すよりもはるかに容易に、華やかな場所にたどり着けるのかも知れない。だがそれは、AKB48の初心に照らして、望んでいたありようだろうか。夢、努力、信じる力、そして夢の実現。空虚に浮遊する言葉だけをいじりながら、その実、誰のための公演なのか、何のためのAKB48なのか、改めて考える暇も謙虚さもなくしてしまっていないか。

 夢に向かうメンバーや研究生の頑張りを大事にすること。客を大事にすること。劇場公演を大事にするということ。メンバーもスタッフも、それらの本当の意味をいつも考え、何度でも思い返し、繰り返し心に刻み続けて欲しい。何がAKB48をAKB48たらしめ、他のアイドルがいくらでもいる中で「国民的」とまで言われるほどの特別な地位を得るに至ったのか、その存立基盤に誠実でなければ、驕れる平家は久しからずということになりかねない。