2018年4月14日(土)曇 18.0℃~0.1
「小田山公園の桜植栽後初めての花見」
午前中は暖かくて畑の作業も進んだ。午後1時30分「NPO法人はるなか」の事務局セレッソよねだい」に集合して小田山花見会に参加した。
2008年8月「県立博物館で会津の桜についての講演があった。その時NPO法人はるなかの活動を知った。
下記の趣意書を読み賛同してさくらの苗木(陽春)を1本購入しオーナーとなった。


「会津は石部桜、薄墨桜、虎の尾桜、杉の糸桜、大鹿桜の五桜、太夫桜、千歳桜、神代桜のうちの2つを加えた七桜、鶴ヶ城の桜、などに代表されるような桜の郷です。しかしながら、会津の桜観光には数十万の人出ですが、弘前の桜祭りには200万人以上の人出で賑わうそうです。
その差は、桜の本数と維持管理にも一因があるかもしれません。
鶴ヶ城の桜は約千本といわれていますが、弘前城は四千六百本余と四倍以上と大差です。
弘前城では、防除、補植などの管理が通年行われており、城郭の桜「日本一」いや「世界一」と自負するだけのことはあろうかと思います。
駐車場は、市役所周辺にごく僅か、後は約2km近く離れた岩木川河川敷の無料駐車場とアクセスは悪いにもかかわらず、200万人以上の人出です。
そこで私達は、鶴ヶ城を弘前城に次ぐ「世界第二」の城郭の桜の名所にしたいと考えました。
弘前城に学び、『心のよりどころ』鶴ヶ城を桜で一杯にしたいと思うのです。
多くの人がカを合わせ、鶴ヶ城を桜の園にしたい、新しい会津の歴史と伝統を作っていきたいと考えています。背灸山や小田山・青木山の自然を保全し、児童の自然環境体験、多世代間交流、林間学校などの活動もしたいと考えております。
これからの会津をになう次世代に、新しい歴史と伝統を育み、伝え、希望の光差す会津を作りたいと切に思うものです。」


鶴ヶ城ではなく小田山公園(葦名時代の城址、田中玄宰家老の墓、会津藩士共同墓地※1、戊辰戦争の時の砲台跡等)に桜の苗木を植栽した。
植栽してから10年が経ち花が見事に咲き花見ができるまで育っていた。
小田山の頂上田中玄宰の墓から100mくらい上ったところに購入した桜”陽春”は陽当たりもよく、大きく育ち会津盆地を見下ろしていた。
なかなか来れないが、来年の花見にはまた来たいと思た。
※1この墓域は、旧会津藩共同墓地として、寛永二十年 (一六四三) に会津移封となった保科正之によって創始され、寛文四年 (一六六四) に整備された、中・下級藩士の共同墓地である。
当時、藩では火葬の弊風を改め、土葬を推奨し、大窪山、郷之原坊主山、小山の三ヶ所に埋葬地を設けた。 郷之原・小山両墓地は主に商・職人の墓地として利用され、現在は真新しい墓碑の林立する近代墓地に変わっている
「小田山公園の桜植栽後初めての花見」
午前中は暖かくて畑の作業も進んだ。午後1時30分「NPO法人はるなか」の事務局セレッソよねだい」に集合して小田山花見会に参加した。
2008年8月「県立博物館で会津の桜についての講演があった。その時NPO法人はるなかの活動を知った。
下記の趣意書を読み賛同してさくらの苗木(陽春)を1本購入しオーナーとなった。


「会津は石部桜、薄墨桜、虎の尾桜、杉の糸桜、大鹿桜の五桜、太夫桜、千歳桜、神代桜のうちの2つを加えた七桜、鶴ヶ城の桜、などに代表されるような桜の郷です。しかしながら、会津の桜観光には数十万の人出ですが、弘前の桜祭りには200万人以上の人出で賑わうそうです。
その差は、桜の本数と維持管理にも一因があるかもしれません。
鶴ヶ城の桜は約千本といわれていますが、弘前城は四千六百本余と四倍以上と大差です。
弘前城では、防除、補植などの管理が通年行われており、城郭の桜「日本一」いや「世界一」と自負するだけのことはあろうかと思います。
駐車場は、市役所周辺にごく僅か、後は約2km近く離れた岩木川河川敷の無料駐車場とアクセスは悪いにもかかわらず、200万人以上の人出です。
そこで私達は、鶴ヶ城を弘前城に次ぐ「世界第二」の城郭の桜の名所にしたいと考えました。
弘前城に学び、『心のよりどころ』鶴ヶ城を桜で一杯にしたいと思うのです。
多くの人がカを合わせ、鶴ヶ城を桜の園にしたい、新しい会津の歴史と伝統を作っていきたいと考えています。背灸山や小田山・青木山の自然を保全し、児童の自然環境体験、多世代間交流、林間学校などの活動もしたいと考えております。
これからの会津をになう次世代に、新しい歴史と伝統を育み、伝え、希望の光差す会津を作りたいと切に思うものです。」


鶴ヶ城ではなく小田山公園(葦名時代の城址、田中玄宰家老の墓、会津藩士共同墓地※1、戊辰戦争の時の砲台跡等)に桜の苗木を植栽した。
植栽してから10年が経ち花が見事に咲き花見ができるまで育っていた。
小田山の頂上田中玄宰の墓から100mくらい上ったところに購入した桜”陽春”は陽当たりもよく、大きく育ち会津盆地を見下ろしていた。
なかなか来れないが、来年の花見にはまた来たいと思た。
※1この墓域は、旧会津藩共同墓地として、寛永二十年 (一六四三) に会津移封となった保科正之によって創始され、寛文四年 (一六六四) に整備された、中・下級藩士の共同墓地である。
当時、藩では火葬の弊風を改め、土葬を推奨し、大窪山、郷之原坊主山、小山の三ヶ所に埋葬地を設けた。 郷之原・小山両墓地は主に商・職人の墓地として利用され、現在は真新しい墓碑の林立する近代墓地に変わっている