会津の重ちゃん日記

日常の出来事、地方紙の記事、街中散策して見聞したことを発信。

戊辰150年 その9

2018-05-29 16:15:38 | Weblog
2018年5月29日(火)晴 29.4℃~13.6℃
「歴史観 再考を」



 5月16日、會津稽古堂で開かれた戊辰戦争を巡る歴史講演会で野口信一氏は「戊辰戦争とその後の会津 会津藩士の義とは」と題して語った。
会津藩にとっての一番の「義」は主君への忠義だったとし、「戊辰戦争は藩士らの義を通すためだけの戦いだった」との見解を示した。
 会津藩士らの遺体が会津戦争直後に埋葬されていたことを示す「戦死屍取始末金銭入用帳」なども紹介し、西軍(新政府軍)への怨念はここ50年ほどで広まった感情だと指摘した。
「歴史を無批判にたたえず、様々なことを学び取る必要がある」と述べ、「悲惨な体験をした会津人には戦争のない平和な世の中を目指す使命がある」と呼びかけた。

 5月14日、城西界隈まちづくり協議会で会津史学会 大河原史郎氏は「長期に亘る遺体埋葬禁止の風聞はいつ起きたのか?」と資料を基に次のような見解を述べた。
「会津戦争降伏後多くの人は1年間の謹慎生活を経て、斗南藩での成果を送り、廃藩置県に伴い、会津に相当数の人達が戻り、政府批判の声が時には起こるが、「遺体埋葬禁止」を理由とした声は皆無であったと思われる。
 戊辰受難50年祭、70年祭、90年祭、鶴ヶ城天守閣竣工披露など、来賓に西軍関係者を招待していることから推測すると、戊辰受難者100年祭の昭和42年以降にこの風聞が発生したものと思われる。」

 戊辰150年に新しい資料がみつかり、識者がいろいろな見解を述べている。「勝者の視点」で語り継がれる歴史観を再考する必要性がある。
但し野口氏の「歴史を無批判にたたえず、様々なことを学び取る必要がある」との見解も踏まえながら・・・。

朝日新聞 デジタル
 
 「元会津図書館長の野口信一さん(68)は2日、会津戊辰戦争終結の翌月に567人の遺体が埋葬されたことを示す史料が確認されたと発表した。会津では「遺体は埋葬を禁じられ、長期間放置されていた」との説が浸透し、長州藩など西軍の非道ぶりを象徴するものとされていた。野口さんは「長州への怨念の最大の要因が取り除かれた。これを機に友好関係を築いてもらいたい」と話している。

 史料は「戦死屍取仕末金銭入用帳(せんしかばねとりしまつきんせんにゅうようちょう)」。1868年9月22日の会津藩降伏後、城下を統治していた民政局(越前、加賀、新発田藩など)から命じられた会津藩士4人が、人を使って、10月3~17日に567人の遺体を64カ所に埋葬したことが、34ページにわたって記録されている。

 会津藩士の子孫の家から1981年に若松城天守閣郷土博物館に寄贈されていた史料で、野口さんが事務局長を務める会津若松市史研究会が史料目録をつくるために調べたところ、埋葬の記録であることがわかった。

 文書には遺体の氏名や状況、服装なども書かれており、山本覚馬・八重兄妹の父親で戦死した山本権八に関して、埋葬者の中に「山本権八先生と覚(おぼ)しき人有」との記述もあった。」


 


戊辰150年 その8

2018-05-26 07:40:41 | Weblog
2018年5月26日(土)晴 27.2℃~11.9℃
「戊辰戦争 戦死者の埋葬」



歴史を知り改めて自らの地域を眺めると、日頃見慣れていた風景が、突如として、新たな意味を持ち、私達に物語を語りかけてくる。
若松城(鶴ヶ城)の西の地区は、葦名時代からの史跡が点在している。御薬園、攬勝亭とともに会津の代表する名園と言われている可月亭がある。
此の庭を核として「城址界隈まちづくり協議会」が発足し活動している。
 今年の総会では、戊辰150年にちなみ会津史談会 大川原史郎氏による「戊辰戦争戦死者の埋葬について」の講演があった。
「慶応4年4月20日(6/10)白河口の戦いから始まった会津戦争において、会津藩は9月22日(11/5)までの間の戦闘で多くの戦死者を出すが、ほとんど戦死地で埋葬されている。1ヶ月に及ぶ籠城戦、または直近に亡くなった遺体の埋葬を、長期にわたり、許可しなかったという風聞が、現在も多くの会津人に伝えられているが虚実を検証する」
 資料:明治戊辰戦役受難者の霊奉気紀の由来
降伏後の遺体の処置についての新政府側の命令は「彼我の戦死者の一切に対して、決して何らかの処置をしてはいけない。もしこれを破る者がいたら厳罰に処する」とあり、これで誰一人、埋葬するものもいないので、遺体はみな狐狸鳶鳥の餌になるか、腐敗して悲惨な状態になって来る。 (中略)
 この惨状を救済しようと町野主水、高津仲三郎の両氏が請願。幾十回も・・・。隊長の三ノ宮氏が聞き入れて各地のを招集し薬師堂河原及び小田山山麓へ。その後、普通人によって阿弥陀寺と長命寺へ埋葬」
 資料:遺体埋葬の実姉報告 「戦死 屍、取仕末金銭入用帳 (平成29年10月)の資料が見つかり、埋葬箇所、費用などがわかった。
 資料:「戦死之墓所麁絵図」郊外も含め埋葬、改葬記録16ヶ所)

いろいろな資料から、原田対馬以下旧会津藩士や伴百悦等の働きにより、戊辰戦争の戦死者の埋葬の経過がわかってきた。
 


戊辰150年 その7

2018-05-25 15:08:38 | Weblog
2018年5月24日(木)晴 28.9℃~9.2℃
「奥羽越列藩同盟・会津藩シンポ」


金谷 俊一郎 歴史コメンテーター。
 歴史作家。歴訳家
 日本史講師(東進ハイスクール・東進衛星予備校)
「世界一受けたい授業」(日本テレビ系)や?「試験に出るコント」(NHK)で、?歴史をわかりやすく伝える活動が人気となり、?「おもいッきりPON!」(日本テレビ系)では?レギュラーコメンテーターもつとめた。

 パネルディスカッションの様子は、福島民報 5月20日の記事を参照。

 「会津藩は皇室尊崇、義と理の理解、徳川家への忠誠の精神に基づいて頑張り抜いた」と金谷講師は基調講演し、戊辰百五十年の今年は会津藩の姿勢を訴える好機だとした。
 郷土史家らが戊辰戦争時の東北、北越諸藩の精神を解説し、「勝者の視点」で語り継がれる歴史観を再考する必要性を指摘した。
 

「正しいことをやっている者に筋を通すべきとの判断だったのだろう。愚直な選択をした」。新潟県長岡市の河井継之助記念館長の稲川明雄さんは、会津藩の立場に理解を示し戦火に見舞われた長岡藩の洗濯を解説しながら、会津藩とともの「義」を貫いた姿勢を紹介した。

会津藩の名誉は、薩摩藩や長州藩出身者が占めた明治政権で長く否定された。会津若松市の若松城天守閣郷土博物館副館長中岡進さんは「同盟諸藩の力関係、変化を無視し敵になった藩を奥羽越列藩同盟とひとくくりにすれば片付けやすかったのではないか」と分析した。

奥羽越列藩同盟は、会津藩と、会津藩と同盟を結んだ庄内藩を救うため仙台藩や米沢藩など三十一藩で結んだが、譜代、外様など足並みが身だれ瓦解した。山形県米沢市の九里学園高教諭遠藤英さんは「(米沢藩主の)上杉氏が一番やりたかったのは会津を守ること」、仙台市の作家甲斐原康さんは「この同盟の経過から何を学ぶかが大事」とした。

庄内藩主酒井家十八代当主で山形県の致道博物館代表理事・館長を務める酒井忠さんは「真実を知るには(虚飾を排した記録を)見なくてはならない」と話した。




 

戊辰150年 その6

2018-05-21 20:36:18 | Weblog
2018年5月21日(月)晴 29.9℃~8.8℃
「歴史シンポジュウム」



 会津戦争では男子の精鋭は城から離れた地で戦かっていたので、籠城戦では照姫をはじめとして女性達が奮闘した。
 その様子はNHK大河ドラマ「八重の桜」で放映され、悲惨な様子が語られた。
 ドラマでは脚本によって史実が偏ることもある。何が真実なのか、いろいろな資料を見たり、学芸員や郷土の歴史家の話を聴いて判断しなければならない。
 戊辰150年にあたって各地で歴史観を再考する考えが出ている。

 会津若松市百五十周年記念事業実行委員会が5月19日に歴史シンポジュウムを会津大学で開催した。4月20日から市のホームページで受付。聴講無料。定員四百名。この新聞記事をみつけすぐにインターネットで申し込んでいたので中央のよい席で聴講することができた。
 歴史コーディネーター金谷俊一郎さんを講師・コーディネーターン迎え、奥羽越列藩同盟に関わった庄内、長岡、米沢、仙台各藩を研究する郷土史らが意見を交わした。各藩の藩士が戊辰戦争に向き合った思いを解き明かして共有し、各地域の結びつきを深めた。
 パネリストは到道博物館(山形県鶴岡市)の酒井忠久館長、河井継之助記念館(新潟県長岡市)の稲川明雄館長、米沢市と仙台市の郷土史家、会津若松市の若松城天守閣郷土博物館副館長中岡進さん達が意見を交換した。詳しくは次回に・・・・・。

戊辰150年 その5

2018-05-18 17:54:13 | 地域情報
2018年5月18日(金)曇/雨 19.2℃~11.4℃
「幕末の会津藩を支えた公用人」
  秋月 胤永(通称・悌次郎)
 あきづき かずひさ (1824~1900) 」

 「あいづ人物伝」によると

◎参考…「秋月悌次郎詩碑建立記念誌」秋月一江ほか
◎写真…秋月一江氏蔵
秋月一江氏は秋月悌次郎の子孫に婿とになられた方で小生の上司であり、折に触れてお話を聞くことがあった。また、平成10年に自主出版された「秋月悌次郎伝」を謹呈という形でいただいた。秋月悌次郎は幕末における特筆される人物である。彼の様な人物が2~3人いたならば情報収集と人脈が生かせて戊辰戦争、会津戦争は回避されたかもしれない。


『北越潜行(ほくえつせんこう)』の詩
 鶴ヶ城三ノ丸の博物館入口に、この詩碑が建立されています。慶応4年(1868)9月23日、鶴ヶ城は開城しました。
 秋月胤永は、謹慎中に僧侶に変装してひそかに抜け出し、新潟で長州藩士奥平謙輔に会い、藩の寛容な処分を訴えました。その帰途に、憂い悩む気持ちを詩に残しました。
西日本の調査
 胤永は、文政7年(1824)に会津藩士丸山胤道(かずみち)の次男として城下に生まれ、秋月の姓を継ぎました。19歳のとき江戸に遊学し、幕府の学問所昌平黌(しょうへいこう)に学びました。その後、一旦会津へ帰りましたが、まもなく藩の命令で西日本を調査し、状況を藩主に報告しました。この時、各地の藩士と交遊が生まれ、奥平謙輔とも知遇を得ています。

桜田門外の変
 当時の日本は、欧米の開国要求で鎖国政策が乱れ始めます。開国反対者を弾圧し「安政の大獄」を進めた大老井伊直弼(なおすけ)が、水戸藩士らに暗殺された「桜田門外の変」は、幕藩体制を揺るがす大事件でした。会津藩は、幕府と水戸藩の和解のため事態の収拾を図り、胤永はその調停を行いました。この事件で、会津藩は幕府から厚く信任されます。

京都守護職
 幕府は会津藩を重用し、藩主松平容保(かたもり)は「京都守護職」を固辞しきれずに拝命します。京都は、政情不安から反幕府の野望が渦巻いていました。そのため、胤永は公用人として情報収集に活躍。薩摩藩と連携し、反幕府の公家を排除した「七卿落ち」の端を開きました。

蝦夷(えぞ)地へ
 翌年、胤永を用いた家老横山主税(ちから)が亡くなり、蝦夷地(北海道)の藩領へ左遷させられます。北端の地で京都に思いを寄せること2年、将軍・天皇が相次いで亡くなり情勢が一変します。胤永は再び京都に呼ばれ、事態の打開に奔(ほん)走、すでに長州と薩摩は密約を結び、翌年には15代将軍徳川慶喜(よしのぶ)が大政を奉還します。

副軍事奉行
 慶応4年(1868)鳥羽伏見の戦いで会津藩は敗走。戊辰(ぼしん)戦争に突入すると、胤永は和解を進めましたが妨害されます。戦況は急速に悪化、若松城下も戦場と化し、胤永は副軍事奉行として籠城戦を指揮しました。  兵糧尽き、胤永は米沢藩を通じ、直接西軍の総大将板垣退助と調停し、自ら降伏・開城を段取りました。開城式の緋の毛氈を切り分け、それぞれに分け与えた。

新たな人生
 胤永は、戦争責任を問われ終身禁固刑となります。5年後に特赦され、東京大学や熊本の第五高校などに勤め、小泉八雲とも親交を温めています。明治33年、77歳で波乱の生涯を終えました。


戊辰150年 その4

2018-05-15 19:30:14 | 地域情報
2018年5月15日(火)晴 27.9℃~8.9℃
「幕末における会津藩」

 一般的には明治維新150年といっているが、会津では戊辰150年という。この機会に記念シンポジウム「それからの会津」や「鳥羽伏見の戦いと山川浩」の歴史講座、会津美里町と戊辰戦争」などの歴史講演会が開催されている。どれも興味のあるものばかりだ。また、新しい資料がでてきて、今まで読んだり聞いたりしていた幕末における会津藩のことがより深く知ることができた。まだまだ知りたいことがたくさんある。いろいろな講演会や展示会に出かけたり、新書を読んだりしたい。

1.京都守護職
尊王の会津がいつの間にか朝敵とは?納得いかない。
 京都の治安の乱れは、意図的に仕組まれていたのではないか。この治安維持のために会津が京都守護職を引き受けることになった。
どの藩も引きうけない。

 春嶽と慶喜はしつこく、手練手管を尽くして説得にかかった。
 そもそも、会津と京都は遠い。移動するだけでも大変なこと。
 こんな役目を絶対に引き受けてはいけないと、容保もわかっていた。
容保は顔面蒼白になって断りますが、会津藩の「家訓(かきん)」を持ち出された。
「君の儀、一心大切に忠勤を存すべく、列国の例を以て自ら処るべからず。若し二心を懐かば、 則ち我が子孫に非ず、面々決して従うべからず」
(徳川将軍家に対しては、一心に忠義に励むこと。他藩と同程度の忠義ではいけない。もし徳川将軍家に対して逆らうような藩主がいれば、そのような者は、我が子孫ではない。そのような者に従ってはならない)
この家訓を制定したのは、江戸期の名君として名高い保科正之でした。
 生真面目が取り柄の容保としては、引き受けざるを得なくなったのである。 西郷頼母等家老が江戸の行った時には間に合わなかった。
 
2.財政的に余裕がない
会津藩は、蝦夷・樺太、江戸湾、房総の警備に駆り出されており、財政難に苦しんでいた。 
 そもそも海のない東北の藩では、財政改革にしても限られており、金に余裕などあるわけがない。
 京都では会津藩士は全体的に生真面目で、純朴でした。才略に長けた公卿や、西南諸藩の武士とやりあうことなど不得手としていた。
 それは、京都住民からの反応からも見て取れる。
  会津戦争の戦費を賄うために、西出丸では開戦後に貨幣を鋳造していたと、『会津戊辰戦史』に記録が残る。
 「城中西出丸に鋳造所を設け、該金工等をして二分金及び、其(そ)の他を鋳造せしめ、
 其の鋳造高の二分の一を上納せしめたるが、上納額六十萬両に達し、おおいに守城前後の金融を圓滑ならしむることを得たり」

 ※会津藩だけでなく幕末の偽造通貨は薩摩・長州・土佐をはじめとして新政府側の諸藩、仙台藩その他多くの藩で贋金を鋳造していた。

3.軍備と戦い方

  長州藩は、イギリス、フランス、オランダ、アメリカ4カ国の連合艦隊と戦った。下関戦争をしている。
  薩摩藩は、イギリスと薩英戦争をしている。
  西軍はこれらの戦争を経験し、武器、弾薬、軍艦などの必要性を知り、早くから準備し、軍事訓練をしていた。
  鳥羽伏見の戦いでは、人数では幕府側が多く、薩摩・長州・土佐を上回ってが、戦争の経験はない。装備は新式でなく数もそろわない。
  戦を仕掛けたものの会津藩などを中心とした寄せ集め、装備も古く大敗してしまった。
 その上十五代将軍松平慶喜は松平容保公を連れて江戸へ戻ってしまった。
  指揮官のいない寄せ集めの幕府軍は、統率された軍隊でないので一方的に敗北。敗北となる。
  孝明天皇崩御の後に、朝敵の薩摩や長州が官軍となり、会津藩・桑名藩などの幕府軍がなぜ朝敵とされたのだろうか。
 徳川御三家や親藩大名が恭順するものが多くなり、討幕の勅暑(偽?)や錦の御旗(密かに作る)がその後の戦いに役だった。

4.情報入手と分析・対策

  ・孝明天皇の崩御の後の朝廷。公家の動き、薩摩・長州・土佐の密約など。
   会津藩では秋月悌次郎が京都でその任にあたっていたが、藩内の事情で北海道へ左遷。薩摩の動きを知る手がかりを失ってしまった。
   秋月悌次郎については次回にアップします。  
  

戊辰150年 その3

2018-05-08 09:28:11 | Weblog
2018年5月13日(日)曇・雨 18.3℃~11.3℃
「西郷隆盛はどんな人物? 」

 NHKの大河ドラマ西田敏行主演「1990年 翔ぶが如く「西郷隆盛」や鈴木亮平主演の「西郷どん」を視聴すると、薩摩藩の中で紆余曲折しながら頭角を現し、幕末から明治への激動で活躍した重要な人物である。また、上野公園の犬を連れた銅像をみると温厚な人物にみえる。


 
『幕末ガイド』によると
薩摩藩内では下級武士であったが、稀代の名君・島津斉彬に見いだされ、強い影響を受ける。斉彬の亡き後、藩の実権を握った島津久光とは折り合わず、2度の島流しにあうなど、順風満帆な出世ではけしてなかった。小松帯刀や大久保利通の尽力により藩政に復帰した後は、緊迫する日本の政情の中で、禁門の変、長州征伐、薩長同盟、王政復古、戊辰戦争、江戸城無血開城など主要な局面でことごとく活躍。大久保利通とともに、政局を主導する。明治維新後は、いったん薩摩に帰郷、隠遁生活を送るが、新政府側の強い要請により参議として政界に復帰。また陸軍大将および近衛都督を兼務することで、日本の軍隊の最高責任者となる。明治6年の征韓論では、盟友であった大久保利通との政戦に敗れ下野。ふたたび鹿児島に戻り、教育に力を注ぐ(私学校)。私学校生徒の暴動に端を発した西南戦争(明治10年)では、指導者として担ぎ上げられるが、敗北。自刃する』
 西郷隆盛は幕末の偉人として評されている。



 別な面から西郷隆盛の動きをみてみると、
 禁門の変では御所を襲った長州藩(朝敵)を、蛤ご門では会津藩と共に打ち破った。
 それが、孝明天皇36歳の急な崩御(暗殺説あり)により、政局が動いた。
 松平慶喜将軍の大政奉還、薩摩藩が長州藩と手を結び、西郷隆盛は武力によって幕府軍を倒そうと考えた。
 そのため、自身の息のかかった志士たちに命じて江戸で強盗や放火などの挑発行為を行わせ、旧幕府軍を挑発し、旧幕府軍が薩摩を攻撃するように仕向けた。現代から見てもあまり綺麗な方法ではない。
 
 これらの行為に激怒した旧幕府軍は、江戸の薩摩藩邸を襲撃した。
 西郷の思惑通り、旧幕府側が先に薩摩藩へ戦争をけしかけたという既成事実を取れたため、その後は新政府軍と旧幕府軍による戊辰戦争へ発展していった。結果的に新政府軍が政権を取ったため今もクローズアップされることはあまりない。戊辰戦争はテロ行為といえるのではないか。

 
江戸城では慶喜から後始末を命じられた勝海舟や、薩摩出身の篤姫、皇室出身の和宮親子内親王(かずのみやちかこないしんのう)などが新政府軍との折衝に当たった。これに西郷隆盛が応じたことにより、江戸城は血を流すことなく新政府軍へ明け渡された。
 これは、荒れ果てた京都から遷都するには好都合となった。それまで考えて江戸で大きな戦いはしなかったのだろうか。上野の山では小競り合いがあったが・・・。

戊辰150年 その2

2018-05-07 18:36:01 | 地域情報
2018年5月7日(月)雨 18.6℃~12.2℃
「戊辰の悲劇繰り返さない 鼎談(ていだん)」

 講演に続き、松平保久さん、東京会津会会長柳沢秀夫さん、作家の中村彰彦さん3人の鼎談。
 松平さんは「先人は会津人としての生きざまを守った。末裔として歴史に誇りを持てると強く感じる」と述べた。百五十年の節目に西軍(新政府軍)側の地を訪れたことに触れ、「歴史認識の違いを埋めつつ、後世にどう伝えるか考える機会機会になった」と振り返った。
 柳沢さんは会津藩の精神の根底は「愚直」だと指摘した上で、「生きざまを通そうとしてやらなくていい戦争をやることになったのではないか。戦いを避け、平和を保つために通じるものが歴史にはあるはずだ」と語った。
 中村さんは百五十年前の様々なエピソードに触れ、「会津藩を知れば、江戸時代全般の歴史を学べる。会津からは奥行きや味わいを感じる」と語った。
 3人の話から歴史はややもすると勝者(東軍)側から語られ作られることが多いが、敗者(東軍)側からもみなければ何が正しいのかわからない。
 話題になったことからもっともっと知りたいことがたくさんあった。



 〇本当に会津は賊軍? 薩長土肥や公家は官軍?
 〇鶴ヶ城は落城でなく開城である。
 〇京都御所を長州が攻めた蛤御門の変は禁門の変
 〇世良修蔵暗殺事件
 〇秋月悌次郎の外交手腕と活躍、北越潜行の詩、
 〇敗戦後の移転先は猪苗代でなくなぜ斗南藩だったのか
 〇山川大蔵、山川健次郎、柴五郎、大山咲子等の活躍
 この他 まだまだあったのですがメモを取っていなかったので思い出すまま書いてみました。

 これ等の疑問を少し解決してくれるブログが宮城県の「のり坊」異人列伝に”鶴ヶ城の開城”があったのでお借りしました。
 
『 会津地方を支配する城としての落城は、伊達政宗に攻められた芦名氏時代の黒川城の落城が最初にして最後で、以後、政宗は仙台に去り、蒲生氏郷が城下町を形成し鶴ヶ城の原型を築いた。以後、会津には落城はない、とするのが会津人の気持ちである。
したがって、戊辰のいわゆる会津戦争に於ける敗北も、城に敵兵の乱入を許したのでも、城主・城兵の敗走・自害の上の落城とはわけが違い、武装恭順という武門の名誉を貫いた上での開城だというのである。...

刀折れ矢尽きての落城と、名誉ある開城は大きな違いである。殊に会津藩主従の選択には、戊辰戦争そのものへの懐疑と批判があった。もともと勤皇と佐幕という色分け自体が、会津藩にとっては納得出来なかったし、現代でもその間違いが意図的かどうか踏襲されているところに、黙視できないものがある。勤皇とは、天皇に忠義を尽くすことである。薩摩や長州が勤皇で、会津が佐幕であり、即ち賊軍とする論法はまやかしだった。錦旗を一夜で作って掲げたから、薩長が官軍になり、その旗には発砲出来ないから敗北したために賊軍にされてしまった会津藩。
...だが、本来会津藩には、天皇に刃向かうなどという気はさらさらない。むしろ、儒教精神と武士道精神により、天朝への尊崇が厚く、余りにも純粋な勤皇だったゆえに、奸寧邪悪の薩長と藤原時代を夢見る反幕公卿にしてやられたのである。
何度も固辞したが、福井藩主で政治総裁たる越前春嶽などから懇願・哀願されて京都守護職を引きうけた松平肥後守容保だったが、京へ赴任して、思いがけなく、孝明天皇の親任を得た。 後略 』

戊辰150年 その1

2018-05-06 12:35:22 | 地域情報
2018年5月6日(日)晴 26.5℃~6.7℃
「それからの会津 講演」

 会津若松松平家奉賛会(林 健幸会長)の戊辰戦争百五十周年記念講演・シンポジュウム「それからの会津」は、4日会津若松市文化センターで開かれた。入場無料だが事前申し込みが必要だったので往復はがきで申し込み、入場整理券を入手。当日は鶴ヶ城周辺はゴールデンウイークで渋滞、駐車場満車が予想されてので帰省していた娘に送迎してもらった。


 二度と悲劇を繰り返さないためにはどうするかを考えた。
会津松平家十四代当主の松平保久(もりひさ)の講演に先立ち、松平さんの長男親保(ちかやす)さん等の紹介があった。
その他、来賓の挨拶などを省き、すぐに講演がはじまった。


松平さんの講演要旨は(福島民報5/5)によると
『容保公が京都守護職に就き、会津は幕末の最前線に出た。容保公の降伏文書から悲痛な思いを感じる。賊軍と認めざるを得なかった悔しさが伝わる。会津藩を語る時、「愚直」が浮かぶ。「ならぬことはならぬ」に代表される会津魂を表している。日本は明治維新で近代化したと学ぶが、賊軍・朝敵とされた会津の悔しさは大変だったはずだ。会津藩は苦難の中、新島八重、松江豊寿ら偉人を輩出した。愚直な先人の生きざまは特筆できる。会津と薩摩の和解とといわれるが、歴史上の事実はしっかり継承すべきだ。自然と「歴史」に収まる時が来たらとき、本当の意味で和解となるはずだ。』
と熱く語った。

10分休憩の後、松平保久氏、中村彰彦氏、柳沢秀夫氏の鼎談(ていだん)が、それからの会津(鶴ヶ城の開城から)としてすすめられた。話はあちこちに飛ぶが、日頃疑問におもっていたことを解き明かしてくれたので、おもしろくて時間の過ぎるのが早すぎると感じた。 

こどもの日

2018-05-05 18:52:13 | Weblog
2018年5月5日(土)曇 21.6℃~5.3℃
「人口減少歯止めの方策はないのか」

 県は5日の「こどもの日」に合わせ、県内の4月1日現在の子どもの(14歳以下)の数を発表した。人数は217,331人で、昨年同期より4,637人減少し、基準日が同じ比較可能な2011(平成23)年以降最小となった。減少率は昨年と同じ2.1%だった。一方、大玉村、川内村、桧枝岐村、三島町、金山町は子どもの数が増加し、子育て世帯向けの定住促進など少子化対策に一定の成果が表れている。
 この発表記事を読んで人口減少に歯止めがかかったとは思えない。少子化対策に、県は「子育て世代支援センター」を各市町村に設置するほか、保育士の確保を強化する。施策をすすめるている。



 人口減少の歯止めは県、市、町、村などの地方自治体が、工場誘致、移住者優遇、子育て支援、補助金などでは一時的で根本的な解決になっていない。

 国立・私立を問わず日本の有名な大学を出た高級官僚・政治家・大企業のトップが日本をどのような国にするか高邁な理念をもち共通理解してかじ取りをしてほしい。国会で記憶がないと答弁する官僚、任命責任をとらない政治家、原発事故の責任をとらない企業家など毎日のニュースでがっかりする。北朝鮮問題ではかやの外と揶揄される外交。沖縄の地位協定の見直しもままならぬ現状。

 このような国政の貧困では日本は三流国であり、貧富の差が広がる国になってしまった。

 人口減少の歯止めには、政治家は与党・野党の対立だけでなく国民に目を向けた政治をする。企業は利益の内部留保をを止め正当に分配をする。各界のリーダーは自覚を持ち、責任をとる。
 いろいろと人口減少の施策はあるだろうが、戦後復興した時のように、働けばそれなりの賃金がもらえれば、国民は将来に明るい希望を持ち、結婚、子育てができる。人口が増えれば、消費が増え、生産が増える。経済効果はよくなる。働き方改革?より、 終身雇用などの復活はどうだろうか。
 年よりの独り言・・・笑って。