2018年5月29日(火)晴 29.4℃~13.6℃
「歴史観 再考を」
5月16日、會津稽古堂で開かれた戊辰戦争を巡る歴史講演会で野口信一氏は「戊辰戦争とその後の会津 会津藩士の義とは」と題して語った。
会津藩にとっての一番の「義」は主君への忠義だったとし、「戊辰戦争は藩士らの義を通すためだけの戦いだった」との見解を示した。
会津藩士らの遺体が会津戦争直後に埋葬されていたことを示す「戦死屍取始末金銭入用帳」なども紹介し、西軍(新政府軍)への怨念はここ50年ほどで広まった感情だと指摘した。
「歴史を無批判にたたえず、様々なことを学び取る必要がある」と述べ、「悲惨な体験をした会津人には戦争のない平和な世の中を目指す使命がある」と呼びかけた。
5月14日、城西界隈まちづくり協議会で会津史学会 大河原史郎氏は「長期に亘る遺体埋葬禁止の風聞はいつ起きたのか?」と資料を基に次のような見解を述べた。
「会津戦争降伏後多くの人は1年間の謹慎生活を経て、斗南藩での成果を送り、廃藩置県に伴い、会津に相当数の人達が戻り、政府批判の声が時には起こるが、「遺体埋葬禁止」を理由とした声は皆無であったと思われる。
戊辰受難50年祭、70年祭、90年祭、鶴ヶ城天守閣竣工披露など、来賓に西軍関係者を招待していることから推測すると、戊辰受難者100年祭の昭和42年以降にこの風聞が発生したものと思われる。」
戊辰150年に新しい資料がみつかり、識者がいろいろな見解を述べている。「勝者の視点」で語り継がれる歴史観を再考する必要性がある。
但し野口氏の「歴史を無批判にたたえず、様々なことを学び取る必要がある」との見解も踏まえながら・・・。
朝日新聞 デジタル
「元会津図書館長の野口信一さん(68)は2日、会津戊辰戦争終結の翌月に567人の遺体が埋葬されたことを示す史料が確認されたと発表した。会津では「遺体は埋葬を禁じられ、長期間放置されていた」との説が浸透し、長州藩など西軍の非道ぶりを象徴するものとされていた。野口さんは「長州への怨念の最大の要因が取り除かれた。これを機に友好関係を築いてもらいたい」と話している。
史料は「戦死屍取仕末金銭入用帳(せんしかばねとりしまつきんせんにゅうようちょう)」。1868年9月22日の会津藩降伏後、城下を統治していた民政局(越前、加賀、新発田藩など)から命じられた会津藩士4人が、人を使って、10月3~17日に567人の遺体を64カ所に埋葬したことが、34ページにわたって記録されている。
会津藩士の子孫の家から1981年に若松城天守閣郷土博物館に寄贈されていた史料で、野口さんが事務局長を務める会津若松市史研究会が史料目録をつくるために調べたところ、埋葬の記録であることがわかった。
文書には遺体の氏名や状況、服装なども書かれており、山本覚馬・八重兄妹の父親で戦死した山本権八に関して、埋葬者の中に「山本権八先生と覚(おぼ)しき人有」との記述もあった。」
「歴史観 再考を」
5月16日、會津稽古堂で開かれた戊辰戦争を巡る歴史講演会で野口信一氏は「戊辰戦争とその後の会津 会津藩士の義とは」と題して語った。
会津藩にとっての一番の「義」は主君への忠義だったとし、「戊辰戦争は藩士らの義を通すためだけの戦いだった」との見解を示した。
会津藩士らの遺体が会津戦争直後に埋葬されていたことを示す「戦死屍取始末金銭入用帳」なども紹介し、西軍(新政府軍)への怨念はここ50年ほどで広まった感情だと指摘した。
「歴史を無批判にたたえず、様々なことを学び取る必要がある」と述べ、「悲惨な体験をした会津人には戦争のない平和な世の中を目指す使命がある」と呼びかけた。
5月14日、城西界隈まちづくり協議会で会津史学会 大河原史郎氏は「長期に亘る遺体埋葬禁止の風聞はいつ起きたのか?」と資料を基に次のような見解を述べた。
「会津戦争降伏後多くの人は1年間の謹慎生活を経て、斗南藩での成果を送り、廃藩置県に伴い、会津に相当数の人達が戻り、政府批判の声が時には起こるが、「遺体埋葬禁止」を理由とした声は皆無であったと思われる。
戊辰受難50年祭、70年祭、90年祭、鶴ヶ城天守閣竣工披露など、来賓に西軍関係者を招待していることから推測すると、戊辰受難者100年祭の昭和42年以降にこの風聞が発生したものと思われる。」
戊辰150年に新しい資料がみつかり、識者がいろいろな見解を述べている。「勝者の視点」で語り継がれる歴史観を再考する必要性がある。
但し野口氏の「歴史を無批判にたたえず、様々なことを学び取る必要がある」との見解も踏まえながら・・・。
朝日新聞 デジタル
「元会津図書館長の野口信一さん(68)は2日、会津戊辰戦争終結の翌月に567人の遺体が埋葬されたことを示す史料が確認されたと発表した。会津では「遺体は埋葬を禁じられ、長期間放置されていた」との説が浸透し、長州藩など西軍の非道ぶりを象徴するものとされていた。野口さんは「長州への怨念の最大の要因が取り除かれた。これを機に友好関係を築いてもらいたい」と話している。
史料は「戦死屍取仕末金銭入用帳(せんしかばねとりしまつきんせんにゅうようちょう)」。1868年9月22日の会津藩降伏後、城下を統治していた民政局(越前、加賀、新発田藩など)から命じられた会津藩士4人が、人を使って、10月3~17日に567人の遺体を64カ所に埋葬したことが、34ページにわたって記録されている。
会津藩士の子孫の家から1981年に若松城天守閣郷土博物館に寄贈されていた史料で、野口さんが事務局長を務める会津若松市史研究会が史料目録をつくるために調べたところ、埋葬の記録であることがわかった。
文書には遺体の氏名や状況、服装なども書かれており、山本覚馬・八重兄妹の父親で戦死した山本権八に関して、埋葬者の中に「山本権八先生と覚(おぼ)しき人有」との記述もあった。」