会津の重ちゃん日記

日常の出来事、地方紙の記事、街中散策して見聞したことを発信。

冬を前にして 雪囲い

2013-11-30 21:11:10 | 草花と花木
2013年11月30日(土)小雨・曇 6.2℃~2.5

 昨日までに越冬野菜をそれなりに確保した。少しずつやってはいたが、雪降る前にすることはまだまだあった。観葉植物、盆栽や鉢物、樹木の雪囲いである。



 初めにしたのは、オリヅルラン、君子ラン、黒胞子、チロリアンランプ、シンビジューム、野ボタン、サボテン、正月に咲かせる松竹梅の盆栽などをポンプ小屋に入れヒーターで温度調節をする。



 次は、北玄関前はたいしたものもないが、ツゲの雪つり、椿、ひいらぎ、さつき、つつじなどの雪囲い。昨年モミジが昆虫が樹木内に入り枯れた。また常緑が美しいモッコクも選定しすぎたため枯れてしまった。数が少ないので2時間くらいの作業で済んだ。
 南側の花壇の草花の始末、あちこちに植えたつつじやドウダン、南天、雪柳、ボタン、ニシキギ、レンギョ、アジサイ、アオキ、ハナズオウ、金木犀などの雪囲いは結構時間がかかった。



 最後は植木や盆栽を植木棚の下へ入れたり、大きなものは藤棚の下に入れ周りを囲って一応終わった。疲れた数日であったが気にかかったことをやり終えたのでほっとした。

 
 

  





冬を前にして 白菜・大根収穫

2013-11-29 20:51:05 | 家庭菜園
2013年11月29日(金)晴・雨 12.2℃~2.1

庭のもみじが紅葉し、ウメモドキの実が真っ赤になり、隣の栗が茶色にり、銀杏が黄葉してしばし晩秋を楽しんだが、一気に寒くなり雪が降る季節が間もなくやって来る。



 早め早めに冬の準備をと思っているのだが、雑用が多かったりして11月下旬になってしまう。 ここ三日間は時間をやりくりして、お天気が悪くても、足腰が痛くても、雨合羽を着たり、湿布を貼ったり、コルセットを巻いたりして冬を前にしての作業をした。



 今年の白菜は大きく葉を広げているのだがなかなか硬く丸まらない。同じように硬く丸まらない話を聞く。反対によくできたという話も聞く。種を蒔く時期、肥料の与え方などいろいろな原因が考えられる。マルチ農法で栽培したのはよかったようだ。
 農家の方のようなよい白菜ではないが、夫婦で3月まで食べるには十分の量だったので数人に上げた。有機無農薬野菜なので甘くておいいしと礼をいわれてうれしかった。





 大根は耐病青首大根を蒔いて基肥、追肥、土寄せをよくやったので太くて大きな大根に育った。みずみずしくて大根おろしがおいしい。、ふろふき大根、ブリ大根など煮物でも柔らかくて甘くておいしい。家庭菜園をしている者が味わえる至福の時である。


ネギは曲りネギで細いが収穫した。畑には小さいネギがたくさんあるが雪が降ると表面はべとべとなって腐ってしまう。だが土の中には根が残っていて来春伸びてくるのでそのままにして置くことにした。





冬を前にして スズメバチ駆除

2013-11-28 18:50:24 | Weblog
2013年11月28日(木)雨 7.2℃~2.1℃

 週間天気予報をみると会津地方は12月上旬まで曇、雨、雪と悪い。まだ、樹木の雪つり、盆栽の雪囲い、君子ラン、サボテンなどの観葉植物を小屋に取り入れ、白菜、大根、ネギの収穫など冬を前にしてするべきことが山積。今日は天気が悪かったが、スズメハチの巣の駆除と白菜収穫をした。




 とりあえず白菜を収穫する。白菜を保存する2階の物干し場には、スズメバチの巣がある。8月頃ハチが飛び回っていた。巣は小さかったので駆除せずに放置していたら、繁殖期の10月ころには大きな巣になっていた。駆除スプレーを買い、防護服をまとって駆除を試みたが、巣穴の入り口には必ず見張りのハチがいるので危険を感じ止めた。巣に近づいたり、大きな音を出したりしないとハチも攻撃してこない。共存して生活してきた。ネットで調べると秋の終わりになると巣外で交尾し越冬する新女王蜂を除き全てのハチが死に絶えるので、巣は空き家となる。
 但し、働きバチが生き残っている場合もあるらしいので、完全防護服をまといスプレーを入り口から噴射して巣を除去した。 



 『スズメバチの巣は、基本的にはアシナガバチのそれに似たものである。材料は枯れ木からかじり取った木の繊維を唾液のタンパク質などで固めたもので、一種の紙のようなものである。この材料を使って管を作ったものが巣の構成単位で、その中に卵を産み、幼虫が孵化し成長するにつれ部屋を拡大延長する。幼虫がさなぎになると蓋をされ、羽化して成虫が脱出すると巣の役目は終了する

 このように外被のある構造なので、スズメバチの巣は出入り口が一つであり、巣の形からも他のハチと見分けることが可能である。

 巣盤はアシナガバチのような1段ではなく、その下に新たに追加され、数段の巣盤が互いに柱で結びついた形となり、外被も球形になってゆくこうして次世代の新女王蜂や雄蜂が養育される時期には巣は巨大なものに成長するが、日本のような温帯では、秋の終わりになると巣外で交尾し越冬する新女王蜂を除き全てのハチが死に絶えるので、巣は空き家となる。』

 


会津若松の地酒大試飲会

2013-11-26 19:13:13 | 地域情報
2013年11月26日(火)雨/晴 11.5℃~5.2℃

 会津清酒をもっと飲む会第7回「会津若松地酒大試飲会」が25日(月)ルネスサンス中の島で開催された。
 普段あまり口にできない鑑評会出品酒、大吟醸、純米吟醸など蔵元自慢の酒が大集合。中には非売品の酒も!また、これからの季節にぴったりの燗酒(純米酒)も楽しめた。
前売りチケット1500円(昨年までは1000円)。お得かどうかわからないが、つまみは地鶏や桜肉、野菜と味噌などであった。
会津が誇る有名蔵元の旨い酒を小さな盃で蔵人と酒造米、精米歩合、アルコール度数、麹など話しながら試飲する。その都度各蔵元の仕込水を盃で飲み自慢の酒を味わった。


 参加蔵元は、花春酒造、名倉山酒造、辰泉酒造、榮川酒造、鶴之江酒造、末廣酒造、高橋庄作酒造店、宮泉銘醸、会州一酒店、磐梯酒造、稲川酒造店の11ヶ所。
午後6時~8時までだったがお楽しみ抽選会が午後7時からだったので、30分くらい経過してから抽選した。


大当たり。水、ジュースでなく11本しかない酒が当たった。会津では由緒ある蔵元で創業は寛永二十年(1643年)であった。時代の流れで一度廃業の危機にあったが、企業努力の結果名酒「会州一」を復活させた。その酒が私の手元に・・・・・。歴史の重みを感じながらじっくりと味わいたいと思う。





米沢織 製作 (新田)

2013-11-25 17:08:09 | 地域情報
2013年11月25日(月)曇 16.2℃~-0.8℃

 11月7日(木)会津若松商工会議所モニターツアー 街道観光「米沢と会津を結ぶみち」を数回アップしてきました。何度も訪れたところもあったが初めてのところもあった。

「米沢織 製作 新田」の見学も初めてであった。
 200年の伝統を誇る米沢の名産。既に直江兼続時代にカラムシや絹織が始まっており、藩中興の祖と謳われた名君・上杉鷹山が藩士の婦女子の手内職として産業化された。自然の染料を活かした草木染が特徴で、特に紅花が有名。㈱新田は紅花染によろ当地の織物を代表する老舗であった。

 駐車場に着くと機織りの音が聞こえてきた。「置賜紬 伝統織物工場」新田の大きな屋敷の玄関より中へ案内された。はじめに社長より次のような説明があった。



『~紅花染めの新田~
 創業明治17年、127年続く機屋です。三代目秀次、妻・富子が一度途絶えていた紅花染めの復元に成功し、自然な美しい色合いを蘇らせる事ができました。着物、帯、小物を製造しております。また、初代から袴を折り続け、高品質の絹の美しさで高い評価をいただいております。
 糸染めから織りまでの一貫作業を社内で行っておりますので、その都度品質を検査しながら、風合いを確かめ、着心地の良さ、着る人を引き立てる製品を目指し、物づくりをしています。』



この後、職人から紅花染めの実演と説明があり、実際に手織りしているところを見学した。根気のいる手仕事ですばらしい米沢織が製作されている。ただ感心するばかりであった。数百万円の織物が展示されていた。これだけ手間暇かけた紅花染の米沢織が高価なのも納得。

別棟では機械で米沢織が製作されていたが見学はできなかった。



米沢織 製作 新田の見学を終え、上杉家廟所に寄り大峠トンネルをくぐり会津縦貫北道路を通って帰った。

会津若松商工会議所モニターツアー 街道観光「米沢と会津を結ぶみち」のアップを今回で終わります。
参加者にはお土産として八重さんの新しいポスターだった。ポスターには通番号0004411が印字されていた。このポスターの裏には譲渡や販売はできない。大河ドラマが終了したら廃棄するかNHKに返却とのことと記されていた。
 横73cm縦105cmのポスターは我が家で貼れる壁面はあまりない。戸惑った。鉄道やバスの時刻表を貼っている壁面がポスターにマッチ。そこに貼った。しばらく八重さんと顔合わせの日々が始まる。





会津藩士 堀 粂之助 

2013-11-24 19:00:22 | 地域情報
2013年11月24日(日)雨・晴 10.1℃~1.1

 米沢には何度か行っているが、竜泉寺へ立寄ったことはなかった。今回のモニターツアーのコースに入っていた。
この寺には会津藩士 堀 粂之助の墓がある。



応対してくださった現住職より下記の資料をいただき説明を受けた。
昭和46年9月5日芳賀誠純住職は、100年余年前の戊辰戦争の役に散った隠れた犠牲者、堀 粂之助が、香花を手向ける人もなく埋もれているのを気の毒に思い、会津若松市を訪れ会津戊辰戦史や堀 粂之助について調査し、米沢市の篤志家に呼びかけて資金を集め墓碑を立て顕彰した。現在は会津から墓に詣でる方もおられるようになった。
 住職の説明を聞かないと戊辰戦争の時、何故米沢藩が援軍を送ってこなかったのか、堀 粂之助の自刃、手厚く顕彰してくれる住職や米沢市民のことがわからなかった。竜泉寺を訪れてよかった。まだ訪れていない方は詣でてみてください。


  
=資料=
 「砲兵隊寄合組 堀清左衛門の長男。諱は光器(みつたか) 温厚篤実、堅忍不抜のうえ文武に優れ、藩校南額館の助教授を勤める。
京都守護職時代は新撰組の首脳となって京都で活躍する。戊辰戦争の際、藩主 松平容保の密命を受け、慶応4年8月23日会津若松を出発、吉村寅之進とともに西軍の包囲網を命がけで突破し米沢藩に救援依頼に出向き、9月3日米沢城下に至る。
 しかし、米沢家老、竹俣美作の応対は実に不明瞭で要領を得ないものであった。実はこの時点で米沢藩は越後戦線から戻った千坂太郎左衛門らによって、新政府軍に恭順がほぼ決まっていたのである。竹俣は、かって米沢藩が存亡の危機にあった時、これを救ってくれた会津藩、保科正之の恩を忘れておらず、堀 粂之助らの涙ながらの懇願を一蹴することができなかったのだという。同行の吉村は仙台に行くことを勧めたが、君命を果たすことができないことを知った 粂之助は「このままで何の面目があって会津に帰れようか。かくなるうえは、腹を切って殿にお詫び申し上げるのみである」と決然と言い放ち、「何を言うか、我々の使命は援軍を連れ帰ることにある。米沢がだめなら、仙台に行くべきだ」という寅之助に対しても「われらが命じられたのは、米沢からの援軍を得ることである。仙台からではない」決意を曲げず、寅之助と別れた。米沢城下東町の旅籠「越後屋」の主人に金子を与えて後事を託し、一室で辞世を残し9月5日従容として自刃して果てた。享年31歳。
越後屋の主人は、竜泉寺に頼んで葬儀を営み、墓を建てた。」
辞世

神かけて、誓ひしことのかなわはねば 

  ふたたび家路 思はざりけり

 





ボランテイアの案内で松ヶ岬公園を歩く

2013-11-23 19:59:56 | 地域情報
2013年11月23日(土)晴 9.9℃~0.8℃

 11月7日の「米沢と会津を結ぶみち」街道観光モニターツアーも121号大峠を超えて山形県へ。まず上杉伯爵邸(上杉記念館)で郷土料理の昼食(米沢牛のステーキはレアで美味しかった。)ここは13代目藩主・上杉茂憲公の邸宅。庭園は東京桂離宮にならって築かれた。雪囲いがされていて庭園の全景をみることはできなかったが配置されている樹木や石などから名園の趣を感じることはできた。





 昼食を終えて上杉城址苑へ。ボランテイアガイドとの連絡がうまく行かず10分以上待った。お出でになったガイドはとっても熱心な方で鷹山公の碑、松岬神社(第9代米沢藩主、上杉鷹山公のほか、初代藩主上杉景勝公や直江兼続公など六柱を祭神としている)舞鶴橋と鯉、招魂碑、春日神社、上杉神社など丁寧に説明してくださった。ありがたいことだが、小雨が降り出し気温も下がってきたので、何度か担当者が手短にとお願いしたが、熱が入るとついつい長くなっていた。
 最後の稽照殿(謙信公の遺品を中心に上杉家の宝物や直江景勝の愛の前立ての兜を展示)の拝観を終える頃には、4~5人しか残っていなかった。きちんとお礼を言わずバラバラになってしまった我々一行も反省しなくてはならない。知識が豊富だとあれもこれもと話したくなってしまう。状況に応じて話すことも大事であると思った。

 

※上杉神社
上杉謙信が天正6年(1578年)、越後春日山城で急死した際、遺骸は城内の不識庵に仏式にて祭られたが、次代の上杉景勝が会津を経て慶長6年(1601年)に米沢へ移封されたのに合わせ、謙信の祠堂も米沢に遷された。

以後、米沢城二の丸の法音寺を主席とする十一ヶ寺が交代で祭祀を執り行ってきたが、明治に入ると神仏分離令、廃城令などにより、謙信の遺骸が城内から上杉家廟所に移され、その守護のために法音寺も廟所前に移転した。更に、城内に留まっている謙信の霊魂を神式で祀るため、十一ヶ寺次席の大乗寺の僧侶が還俗して神官となった。この時、姓を大乗寺とし、現在も同家で宮司職を務めている。

併せて米沢藩中興の名君である上杉鷹山を合祀し、山形県社「上杉神社」とした。明治9年(1876年)5月21日、現在の旧米沢城奥御殿跡に社殿が遷座された。

明治35年(1902年)4月26日には別格官幣社に列せられる。この時鷹山は新たに設けた摂社「松岬神社」に遷され、上杉神社は再び謙信のみを祀ることとなった。

大正8年(1919年)の大火で境内は本殿以下全焼し、伊東忠太の設計により現在に残る社殿が再建された





日中線記念館

2013-11-22 21:25:51 | 地域情報
2013年11月22日(金)雨 9.4℃~4.1℃

 モニターツアーの続きをもう少しアップします。
三津谷の連房式登り窯を見学して熱塩加納町の日中線記念館(近代化産業遺産)へ立寄る。モダンな欧風建築は時間を超えて郷愁を感じさせます。

 1938年(昭和13年)に福島県側が開業したものの、典型的な閑散ローカル線であり、廃止時点で各駅に停車する1日3往復の客車列車が朝夕(朝1往復、夕方2往復)に運行されるのみで、「日中走らぬ日中線」「日中は走りま線」とも揶揄された。それらの列車は地元高校生の通学輸送が専らの目的であり、熱塩温泉への宿泊客・湯治客の輸送には全く利用されていなかった。 また、熱塩加納村にあった与内畑鉱山(石膏)・加納鉱山(銀・銅)の貨物線としての役割も担っていたが、1972年(昭和47年)に廃鉱となると貨物収入も減少していった。




 機関車に接続した客車で喜多方市観光協会の方から説明を受け、コーヒーの接待を受けた。
 固い木製の背もたれのある座席、上げ下げする窓、網棚、煤煙の匂い タイムスプリットしたようで懐かしい。

 路線廃止後は会津乗合自動車(会津バス)が「千石沢(日中)線」として、喜多方駅前 - 日中線記念館前 - 千石沢で1日6往復運行していた。会津バスの既存並行路線を拡充する形で代替バスの運行を開始し、転換交付金を利用して新車の投入、増便、バス待合所の新築が行われた。同路線は利用客の減少により2008年(平成20年)12月1日からは全便日祝日運休となり、2012年(平成24年)9月29日の運行をもって全線廃止となった代替バス廃止後は喜多方市が運営するデマンドタクシーが運行されている。

駅舎の荒廃ぶりが話題に上ることもあったが、廃止3年後の1987年から旧・熱塩駅が整備の上、記念館として保存されている。また廃線跡は、旧喜多方市内ではサイクリングロード「日中線記念自転車歩行者道」として整備されている。






 


喜多方 三津谷の登り窯

2013-11-21 17:01:39 | 地域情報
2013年11月21日(木)雪・雨 7.9℃~-0.2℃

 モニターツアーの続きをアップします。
 ラーメンと蔵の街喜多方市には煉瓦蔵が数多くあります。これらの蔵の煉瓦は三津谷の連房式登り窯で焼かれたものです。


 
 この窯は樋口市郎の創業である。市郎(1862年~1943年)は新潟県亀田町の人で明治23年、彼が27歳の時この地に移住し、七室(段)の登り窯を築いた。
 彼は非常に研究心旺盛な人物で、棟瓦(むねがわら)を改良して特許権を取得したり、積雪寒冷に耐える釉薬煉瓦(普通の煉瓦に益子焼の釉薬をか焼成する仕法)を考案している。
 明治の末から体臭時代がこの窯の最盛期で、ここで作られた煉瓦は、岩越鉄道(現在の磐越西線)のトンネル、加納鉱山の坑道や現在も数多く残る地域のレンガ蔵に使われていた。しかし、大量生産時代に押し流され昭和45年閉鎖のやむなきに至った。
 昭和57年地域振興策の一つとして補修され、「有形民俗文化財」として市の指定を受け昭和58年再び創業され、これを期に「市郎窯」と呼ぶようになった。


 現在の窯は、連房式登り窯で、機械室は捨て間を含めて十室(段)あり、二代目当主喜市が大正時代に築造したものである。焚口は3口、全幅5.1m、全長18m、一回約1万個の煉瓦が焼けるという。
 東日本震災でこの窯も被害を受けたが、ボランテイアの人々の協力で窯を直し、年二回煉瓦を焼いている。(一回5千個)
12月1日に窯出しがあるそうです。 


 連房式登窯の内部はいくつかの焼成室に分かれており、各焼成室はもっとも下が「大口」と呼ばれる燃焼室(窯口)であり、傾斜に沿って上にいくつかの焼成室が続き、それらが繋がった細長い形態をしているため、横から見ればかまぼこが連続したようなイモムシ状に見える。最上部の部屋の先には煙道、そして煙突へと続いている。さらに各焼成室には薪を投入するための「小口」と呼ばれる小さな穴が設けられているのが普通である。





 焼成温度は一般に最高で1300℃前後に保たれ、約60時間焼くのが普通である。温度管理は職人の勘によって行われるが、かなりの練達を要する。具体的には一番下の大口と各焼成室に設けられた小口からの投薪を使い分け、焼成段階に分けて微妙に温度調整を施す。この作業が丸2昼夜続くことになる。水分を飛ばすための予備段階である焙りを終えた後の本焙りでは大口に薪を投入し、ゆっくりと窯の温度を上げていくが、目標とする温度である1300℃に達するには約1日ほどかかる。この際に、のぞき窓から見ると焼き物は熱せられて透明感のあるオレンジ色ないし白に近い黄色になる。
 

 
 平成19年・21年に経済産業省より、近代化産業遺産群が発表されました。
喜多方でも「登り窯」をはじめ、14の建造物が「建造物の近代化に貢献した赤煉瓦生産などの歩みを物語る近代化産業遺産群」などに選定されました。
三津谷の煉瓦蔵群(若菜家など)、若喜レンガ蔵、大和川や吉の川など酒造の煉瓦煙突、甲斐本店煉瓦煙突、金田洋品店、旧岩越鉄道一の戸橋梁、山都駅油庫など。
(※こちらの施設は見学する際には、観光ガイド等の同行が必要となります。見学希望の方は喜多方観光協会電話0241-24-5200)までご連絡ください。)









 


山塩 製塩

2013-11-20 16:50:29 | 地域情報
2013年11月20日(水)曇り 8.6℃~-0.2℃

各地で地域おこしとしていろいろな事業が展開されている。会津では南郷トマト、新鶴ワイン、熱塩加納のアスパラ、各地のそば、会津若松のレタス富士農場など。北塩原村の大塩裏磐梯温泉では、地元の旅館、製材業者、機械メーカーと共同で山塩づくりを4年前に始めた。先日モニターツアーでこの事業所を見学して話を聞いた。いろいろと苦労したが、現在は生産も軌道に乗ってきている。原料は温泉水とし湧き出っている古代の海水だというう話にはロマンを感じた。
 

毎日新聞 2009年7月28日 地方版には、下記のように山塩についいて書いているので引用して紹介します。

北塩原村の大塩裏磐梯温泉で、海水のように塩辛い温泉水を原料に「山塩」を製造している会津山塩企業組合の新しい製塩プラントが稼働した。工程の大部分を自動化し、生産能力をこれまでの2倍の1日16キロに増強した。低温結晶化の技術や逆浸透膜を使った製法の実証実験にも着手。11月をめどに新製法を確立し、さらに増産を目指すという。【太田穣】

 プラントは会津若松市の機械メーカーと共同開発した。3000リットルの給水タンクと200リットルの製塩釜5基で構成。タンクから4基の釜に給配水し、塩分濃度を10倍程度まで煮詰め、仕上げ用の釜で完全に水分を飛ばす。総事業費は約1200万円。



 新プラントで行う新技術の実証実験では、現在は100度で沸騰させているのを、循環式ボイラーで温度管理し、65~73度で塩を結晶化させる技術を研究。また、海水の淡水化などに使われる「逆浸透膜」を使い、濃縮の効率化を図る。

 開湯1200年と伝わる同温泉は、塩分濃度が高く、江戸時代には会津藩の御用塩が作られていたという。村商工会を中心とする同組合が07年、大釜に入れた温泉水をまきで加熱して水分を飛ばし、天日干しする昔ながらの塩作りを復活させ、「会津山塩」として売り出した。

 1キロ1万2000円と国内産の塩では最も高価で、50グラム入り卓上瓶が1本700円もするが、今年6月までの1年間で約1550万円を売り上げた。一方、生産は3基の大釜をフル稼働させても夏で1日10キロ、冬は3キロが精いっぱいで、平均8キロ。供給が需要に追いつかないケースもあった。

 同組合の吉川一三理事長(70)は「安定供給できる生産体制が整った。新技術の確立と共に、魅力ある商品を開発し、会津山塩をさらに売り出していきたい」と話している。