会津の重ちゃん日記

日常の出来事、地方紙の記事、街中散策して見聞したことを発信。

京都 東福寺周辺 4

2011-12-31 16:03:44 | 旅行
2011年12月31日(土) 快晴
 昨夜吹雪いたが今日はすばらしくよいお天気。降り積もった雪片付けが第一番の仕事。
次にラッシュの散歩。
 
 そして清めておいた神棚に歳徳神・恵比寿様・大黒様をお飾りした。米、水、塩、酒、魚、さかきをお供えして年越しを迎える。
 先月 にわかクリスチャン、年越しで神道でお宮参り、彼岸とお盆は仏教でお墓参りとなんの違和感もなく行っている。日本人は八百よろずの神様を信じて敬ってきた。
 その都度その都度 祈る対象が違ってもいいのだろう。ご都合主義かもしれない。
理屈抜きによい年越しをして斬新な気持ちで新年を迎えたい。
 
 11月18日(金) 
くもり 晴れ 
  京都に魅せられた男の一人旅40  
 第五日目 東福寺4 京都を去る。
 東福寺の一番奥にある開山堂へ。
 
開山堂(常楽庵)は1280年入定(にゅうじょう)の聖一国師を祀る。楼閣そびえる伝衣閣(でんねんっかく)にある「三国伝来の布袋」像は伏見人形のルーツ。聖一国師は33歳の時宗に渡り、6年を経て帰朝。多くの典籍を持ち帰り、文教の興隆に寄与。水力による製粉機の構造図を伝え製麺を興す。日本で最初に国司と称された禅僧。
 毎夜11時45分頃から18回、開山堂・常楽庵鐘楼の鐘がなる。開山・聖一国師以来の習慣。国司は同じ京都五山・建仁寺の往時であったため、東福寺でのお勤めがすめば建仁寺へ移動。この時東福寺では「送り鐘」で送り出し、建仁寺では「迎え鐘」でお迎え、東福寺に750年欠かさずつづく習慣。普門院前の江戸時代の名園をみて愛染堂へ。


 愛染堂は丹塗りの柿(こけら)葺。八角円堂。南北朝時代の建築。昭和12年、万寿寺より移築された。愛染明王を祀る。
 一回りして本堂前に戻る。方丈庭園をみていなかったので戻って拝観した。
 昭和の名作庭家・重森三玲の作(昭和十四年)。「八相の庭」と命名され、近代庭園の傑作とされる。方丈の東西南北に4つの庭園をもつ。

 約2時間かけて東福寺を見学した。念願がかなってよかった。
 歩いて東福寺駅へそして京都駅へ。伊勢丹デパートでお土産を買い午後1時56分の新幹線で帰若した。
 ようやく今年中に「京都に魅せられた男の一人旅」を終えることが出来ました。
長い間お付き合いくださった方ありがとうございました。
 京都の旅は来年5月「葵まつり」頃始めるかもしれません。その時はまた京都をアップします。

 

 




 

京都 東福寺周辺 3

2011-12-30 20:00:55 | 旅行
2011年12月30日(金)くもり 雪
 お天気はあまりよくなかったが、〆飾りの一夜飾りはよくないので玄関前の水場に紅白の南天と菊、そして中央にバラを生けてみた。不等辺三角形になったかな?。
小原流????。生け花など習ったことが無い。なんとなく耳学問。これで正月の準備はまた一つ終わった。
 
 11月18日(金) 
くもり 晴れ 
  京都に魅せられた男の一人旅39  
 第五日目 東福寺 3
 東福寺の境内に入って本堂周辺をみて歩いたのでいよいよ通天橋へ。臨時に出来た拝観受付で拝観券400円を払う。
 ものすごい人ごみ。左側通行。立ち止まって写真を写すのも一苦労であった。
通天橋は方丈と開山堂を結んで架かる。ここから眺める渓谷・洗玉癇(せんぎょくかん)の紅葉と新緑は絶景。紅葉はさすがにすばらしい。特に黄金色に染まる珍しい三つ葉楓は聖一国司が宗から伝えた唐楓といわれている。


 やはり京都を代表する紅葉の名所である。渓谷・洗玉癇の庭も通天橋からみた紅葉とは一味違う。錦織り成すとはこのことをさすのだろうかというほどの美しさであった。この庭から通天橋をバック記念撮影。

 写真を写すにも立ち止まることができず、ただきれい、すごいと感嘆しながら歩いた。それでも何枚かはパチリ。時期的にも一番の見頃であった。
下のアルバムはほんの一部です。
 通天橋 紅葉


 

京都 東福寺周辺 2

2011-12-29 19:23:03 | 旅行
2011年12月29日(木) 晴れ
 30数年付き合いの魚屋さんに29日になると新巻鮭(オス)1匹とスルメ1束、筋子贈答用1箱、数の子、酢だこ、刺身用帆立を届けてもらう。昨年は大雪の中難儀したが今年は晴れていてよかった。新巻の頭と尾を組み合わせ神棚に飾る。
 スルメはイカ人参を作るために切る。これは私の仕事。妻は棒たらを煮ている。
少しずつ正月を迎える準備が始まった。
 
  11月18日(金) くもり 晴れ 
  京都に魅せられた男の一人旅38  
  第五日目 東福寺2 
 三門から東北へ歩くと、五社成就宮があり鳥居をくぐって参拝。十三重石塔を過ぎ右に最勝金剛院があったので寄る。奥は墓地だった。
 この道の紅葉が美しい。ぱちり。

 
 本堂を左手にみながら北へ歩くと偃月橋(えんげつきょう)に出た。この橋は1603年の建築で、単層切妻造の屋根は桟瓦葺。
 
 広大な境内に北谷、中谷・南谷を巧みに取り入れている東福寺。通天橋の眺めは中谷にあたり、ここにかかる三つの歩廊橋は上流からこの偃月橋(重文)、通天橋、臥雲橋といい、これらを「東福寺三名橋」という。
 この橋を渡るのは初めてである。通天橋ほどは込みあっていない。人通りが途切れたところで写真を写した。 

 

 

橋を渡ると即宗院 。山門は慶長18年(約400年前)の遺構で左右に石造りの仁王様を配した貴重な建造物である。

 即宗院は南北朝時代、島津氏久の菩提のため玄柔和尚を開祖として創建された。池は「心」の字体を表している。

 即宗院の脇に国宝龍吟庵方丈があった。この方丈を昭和39年解体修理完了した時、四周に庭園がなかったので昭和の名作庭家重森三玲に委嘱して庭を造った。
南庭は古式により白砂だけの庭。西側の庭は「龍吟庭」と名付けられている。白砂の大海と白モルタルの縁取りにより黒雲をあらわし、各所に配された石によって雲間から頭と胴体をくねらせて現われて飛翔する龍を表現している。庭を区切る竹垣は雷紋と稲妻紋をあらわす。
 この説明を読みながら庭をよくみると龍の躍動感が感じられるから不思議である。

東側は赤砂の石庭であった。赤砂の庭は初めてみた。
伝統を踏まえながら自由な発想によって大胆に表現された作庭である。一見に値する。(つづく)
 


京都 東福寺周辺 1

2011-12-28 18:55:25 | 旅行
2011年12月28日(木) 晴れ 御用納め 
 孫達の部活も無く午後からは嫁の実家塙町へ行った。そこから成田空港に行きオーストラリアへ12月311日~1月5日まで行って来る。上の孫が来年受験生なので今年海外旅行をすることにしたようだ。楽しい旅行になることを願っている。
 留守中はラッシュの面倒をみなくてはならない。家族と一緒に寝ている犬が我が家でどうなることやら・・・。
 お天気がよかったので年越しの買い物をしたり、散髪をしたりして過した。
 
  11月18日(金) くもり 晴れ 
  京都に魅せられた男の一人旅37  
  第五日目 東福寺1 
 東福寺には北門(仁王門)、中門(日下門)、南門(六波羅門)、勅使門がある。タクシーで案内されたのは日下門。ここが一番本堂や通天橋受付に近い。
 門を入るともう人の波。団体客の群れ。さすが東福寺であると感心する。

 通天橋受付は混雑していたので境内を右まわりでみて歩くことにした。
 目の前に大きな本堂(仏殿)があり、本堂の南に対峙して三門(国宝)がある。

 東福寺は、1236(嘉禎2)年、東大寺、興福寺の2字をとり発願され、10年の歳月をかけ、境内6万坪、京都最大の寺院として造営された。摂関家の庇護を受け、名僧を輩出したこの寺も1881(明治14)年、方丈・仏殿・法堂が焼けてしまったが、その後再建された。中世の禅宗建築を随所に残している。




 三門(国宝)は、大仏(天竺)を思わせる。室町初期の再建。扁額「妙雲閣」は足利義持筆。楼上内部には諸仏が並び、天井や柱には名兆と弟子による極彩が描かれているそうだがみることはできなかった。しかし、三門を近づいて見上げるとその建築美には驚かされる。

 焼け残った建物の一つに禅堂に続いて東司がある。東司は登司とも書き、禅宗寺院の便所である。室町時代に建てられた長さ35mに及ぶ巨大なもので、禅宗寺院の東司としては最古のものである。中央通路をはさみ、左右両側1m間隔で便壷が埋められ、一度に50人ほどが用をたせる。禅僧にとっては排便も修行の一環である。排便中の心の隙を襲う鬼神を退ける真言を涌しながら居並ぶ僧が用をたす様は、少々凄味のあるものだろう。
この後境内をみてまわりながら通天橋拝見受付に・・・(つづく)

京都 泉涌寺周辺 2

2011-12-27 18:57:20 | 旅行
2011年12月27日(火) くもり 
気温上がらず 路面つるつる。足元に気をつけながら竹田総合病院の消化器科へ。予約してあるのだが待つこと1時間。自分も含めて病院には多勢来ている。急患でない限りほとんどの人が順番をじーと待つ。辛抱強い。
 診療科を増やしてくれればいいのにと思うが、医師不足や病院経営上の問題でどうにもならないのだろうか・・・・・・。ようやく順番が来て問診は10分。半日無為に過してしまった。

  11月18日(金) くもり 晴れ 
  京都に魅せられた男の一人旅36  
  第五日目 雲龍院 

 雲龍院は泉涌寺の別院で写経道場として知られている。枯山水の庭は隠れた紅葉の名所と聞いて訪ねてみた。泉涌寺の南裏にあるのでここに立ち寄る人は少ない。 
 門を入り本堂龍華殿で受付。おぶけ茶付きで1400円(扇子と抹茶と菓子)。
 
 走り大黒天や本尊薬師如来三尊などを観てから庭の見える部屋でおぶけ茶(武家流の茶道 押部流)を目の前で点ててもらいくつろぐ。後ろには水引き作家の作品が展示してあった。 この後悟りの窓の部屋へ。

 訪れる度にその風景を変化させるというが、また来ることはないのでわからない。悟りもなく、四季の変化で窓の外の景色は変化するのは当然であるなどと屁理屈をつぶやいてこの部屋を出た。 次に、枯山水の庭の紅葉がよく見えるという広間に行った。


あまり感動しない。
受付の方が今年は紅葉のしかたがよくないと言った。まあそうかと思って雲龍院を後にした。
 東福寺まで歩くと25分かかる。バスもないので歩くことを覚悟しながら泉涌寺へ戻ってきた。客待ちタクシーが2台停車している。ほっとした。4泊5日の旅で初めてタクシーを使う。650円。5分で東福寺へ着いた。(つづく)

京都 泉涌寺周辺 1

2011-12-26 18:59:52 | 旅行
2011年12月26日(月) 雪 真冬日
 妻が居ないと結構忙しい。まず、生ごみや燃えるごみをまとめて出す。朝食の準備。サッカー部活がある中学1年生の孫を会津総合体育館へ送る。帰ってきて愛犬ラッシュの散歩。ようやく朝食をとる。 12時に孫を迎えに会津総合体育館へ。猛吹雪で大変だった。二人の孫の昼食の世話。雪片付けと休む暇がない。午後4時半には歯科医院へ。忙しい日であった。連れ合いがいないといろいろと不便である。大事にしなくてはならない。
  11月18日(金) くもり 晴れ 
  京都に魅せられた男の一人旅35  
  第五日目 泉涌寺 
 
 4泊5日の京都の旅も最終日となった。今回の旅行の目的の一つ。東福寺の紅葉を観ること周辺の散策であった。東福寺は三度目になるがいつも時間がなく慌しく見学していたので今回は午前中十分時間をとった。
 7時半に朝食。ホテルを8時に出る。地下鉄で京都駅へ。JR奈良線で東福寺駅へ午前9時20分着。
 このエリアは皇室ゆかりの泉涌寺と禅宗の名刹・東福寺のふたつの大寺が見どころ。
はじめに坂道を上って泉涌寺方面に行き、次に東福寺方面へ下りながら回り京都駅に戻ることにした。
   駅を降りて左折しすぐの信号を右折すると泉涌寺道に出る。人通りも少なく開いている店も少ない。10分くらい歩くとお坊さんと会う。後10分くらい直進すれば泉涌寺。その前に即成寺に寄って弓の名手那須与一をお参りしたらと勧めらっれた。  息子が弓道をしているのでお参りすることにした。本堂から右奥に進むと石像がある。お墓は外にあった。「的を射る」記念品を孫と息子に買った。

途中に戒光寺の看板に、鎌倉時代の仏師運慶・湛慶合作の丈六釈迦如来像(台座から光背まで約10m))特別公開とあったので立ち寄った。小さな寺の本堂にどうして丈六釈迦如来像があるのか不思議である。他の寺にあったものが兵火を逃れてこの寺に安置されたのかもしれない。
 まだまだ周辺に小さな寺があったが寄り道しないで泉涌寺へ

 500円を払って大門を入ると左側に観音堂があり、揚貴妃観音像が祀られている。
 
 この観音堂には慶長7年(1255)、僧湛海が宗から持ち帰った木造坐像「揚貴妃観音像」が祀られている。唐の玄宗皇帝が、寵姫揚貴妃の死後、その姿を形にとり、観音像に彫らせたものだという。しかしこの観音像の様式は、写実的な表現といい繊細さといい、明らかに玄宗皇帝から500年後、湛海当時の宗代後期のものである。写真撮影はできない。
 石段を降りていくと、眼前の広場に大きな仏殿・舎利殿。その後方には霊明殿・御座所・本坊などの建物があった。

 東山三十六峰の一嶺、月輪山の麓に静かにたたずむ泉涌寺。広く「御寺(みてら)」として親しまれている。この寺は天長年間に弘法大師がこの寺に庵を結んだことに由来する。法綸寺と名づけられた後、一時仙遊寺と改称されたが順徳天皇の御代(承久元年・1219)に当寺の開山と仰ぐ月輪大師俊艿が時の宗の法式を取り入れて、この地に大伽藍を営むことを志し、嘉禄2年(1226)に主要な伽藍を完成させた。寺地の一角より清泉が湧き出ていたことによって寺号を泉涌寺と改めた。今も湧き出ている。
 時の皇室からも深く帰依され、歴代天皇の山陵がここに営まれるようになり、皇室の御香華院(菩提所)として篤い信仰を集めている。この寺が御寺と称される所以である。

 仏殿内陣には運慶作と伝えられる 阿弥陀・釈迦・弥勒の三尊仏が安置されている。


 有料でも御座所庭園を見学しようと入り口探したのだがを見つけることが出来ず戻ってしまった。浴室や水屋などみていないで誰かに早く聞けばよかったと後悔した。(つづく)

京都 三尾 高山寺 3

2011-12-25 17:05:35 | 旅行
2011年12月25日(日) 雪 ホワイトクリスマス 
 週末は荒れるという天気予報通になった。昨晩から雪がちらちらと降り出し、辺り一面銀世界。一日中気温が上がらず寒い。妻は南会津町(田島)の義姉のところへ電車で出かけた。多分泊まってくるだろう。
 雪も止んだようなので夕食は居酒屋でも行ってすまそうかと外に出たが寒い。暖かい部屋であり合せの物をつまみに晩酌しながらNHKテレビ「坂の上の雲」の最終回を観ることにした。少し前までは寒くとも居酒屋へ出かけたものだが年をとったのかな・・・・・。
 
  11月17日(木) 晴れ 
  京都に魅せられた男の一人旅34  
  第四日目 高山寺 を去る
 
 石水院を出て右に行くとすぐ左側に小さな茶の本園があった。トイレの脇なので石碑がないと見過ごしてしまう。

古くから明恵上人は茶祖、栂尾山は茶の発祥地といわれている。鎌倉初期、栄西禅師が宗に渡り養生の仙薬、延命の妙術としてこれを広めようと茶種を持って帰国しこれを明恵上人に贈られた。上人は栂尾の深瀬三本木にこれを植え(日本最古の茶畑)、宇治(跡影園)その他の地にも広く移し植えた。鎌倉時代、室町時代を通じて栂尾は茶の本園、その茶は本茶といわれ天皇への献茶も毎年行われた。宇治の茶業家は古くから毎年自家製の新茶を上人の廟前に献供(11月8日)するのを例として今日に至っている。いわゆるモデル茶園として、宇治の篤志家により栂尾茶園の維持管理がなされている。



 金堂へ至る参道を進むと開山堂や御廟、仏足石などがあった。
 薄暗い杉林の坂道を上ると高山寺の金堂へ。

 急な金堂道を下り表参道から栂尾バス停留所へ。ここも多勢の人が並んでいた。国道のバス停なので車両が多く非常に危険。路側帯の白線に沿って一列縦隊で京都行きのバスを待った。次から次へと人が並び長い長い列が係員一人では整理も大変なようだった。
 午後1時10分の臨時バスに乗り後部座席に坐ることができほっとした。
 立っている人も多くすし詰め状態。乗り切れない人が多勢。次ぎのバスまで並んで待つ。途中の西明寺や神護寺では並んでいても乗れない。
 紅葉シーズンは、栂尾まで来て並ぶのがよい。
 臨時バスだったので市内はほとんど停車せず京都駅へ午後2時に着いた。
 
 遅い昼食を地下街の食堂でとった。その後伊勢丹デパートへ行きお土産を買う。
 そこで会津の鶴の江酒造の女杜氏ゆりさんに会い立ち話をして試飲。販売促進に孤軍奮闘。帰若したら鶴の江酒造へ行き「会津中将」や「ゆり」を買って飲んで応援しよう。



京都 三尾 高山寺 2

2011-12-24 18:21:05 | 旅行
2011年12月24日(土)快晴 クリスマスイブ 
 天気予報に反して久しぶりの快晴。澄み切った青空が眩しい。なんとなく身体が軽く身辺整理なども調子よくできた。どんよりした灰色の雪雲。降り続く雪・・・・。会津の冬はこれから。長くて厳しい。時折みせる太陽と青空はなんとすばらしいことでしょう。

今晩はにわかクリスチャン???・。向いの孫の家でクリスマスホームパーテー。祖父母は招かれていそいそと出かけていく。いつもながら嫁の美味しい手料理と手作りケーキを食べ、ワインを飲んで満足。

 
  11月17日(木) 晴れ 
  京都に魅せられた男の一人旅33  
  第四日目 高山寺 石水院 (国宝)

石畳の右に石水院があった。ここに入るにはまた拝観料として500円を払った。お寺は本来修行をし仏に仕えることが本務なのに、入山料をとりその上拝観料をとる。全く観光業者となってしまっている。悪い言葉だが「坊主丸儲け」。仏像にまともに手を合わせ祈る気にもなれない。私も信心深くお寺や神社を訪ねているわけでなく物見遊山なのであまり大きなことは言えない。

石水院は国宝。明恵上人が後鳥羽院より学問所として賜った建物で、上人時代の唯一つの遺構である。金堂の東の位置にあったものを、明治22年に現在地に移した。簡素な中にも優雅さを保ち、きわめて機能的な構造をもっておりり、生活の知恵の結晶ともいえる住宅建築の傑作である。南面長押の上に後鳥羽院の勅願「日出先照高山之寺」、西面に鉄斎の額「石水院」の額が掛けてある。
 機能的で生活の結晶でもある住宅建築といわれても、公開されているのは、二部屋だけであり、建物の全体像がわからない。
 廊下より庭にでればなんとか建物の全体像がわかるので、靴下のまま庭石へ降りて写したのが下の写真。私と同じことをした人が二人いた。


 石水院の広間から眺める紅葉はすばらしと聞いていたので縁側に腰を降ろししばし観賞した。高山寺に来る前に神護寺の紅葉を観ているのであまり感動しなかった。
 

廊下から格子を通して見た紅葉はよかった。

  国宝「鳥獣人物戯画」の複製の一部が展示してあった。小学校社会の教科書に載っていた場面のほうが印象深い。お土産にTシャツを買おうとしたが、図柄が兎だけ、蛙や猿など他の動物の物がないので買わずに石水院を出た。(つづく)

 

京都 三尾 高山寺 1

2011-12-23 18:00:54 | 旅行
2011年12月23日(金) 雪 天皇誕生日 
 天気予報どおり雪が降った。金曜日は資源物ビン類回収日。しかし、祝祭日の時は回収しないはずだが昨日籠が置いてあった。回収日のカレンダー12月をみると右欄に12月23日回収すると記載してあったので、雪降る中籠を設置した。
 これから雪の日の籠設置は厳しい。数年ボランティアでやっているが後継者を見つけて交替したい心境である。

 天皇陛下のお言葉や祝賀に訪れた国民への挨拶などのご様子をテレビで拝見すると頬がむくんでおられるように見える。ご高齢で公務をこなしておられる。心身ともにお疲れ。病み上がりでありながらご静養もままならぬ。お気の毒である。皇位継承や宮家の問題もあるだろうが、公務を減らすか皇太子等で公務を代行してあげるべきではないだろうか。国民として切に願うものである。
 

  11月17日(木) 晴れ 
  京都に魅せられた男の一人旅32  
  第四日目 高山寺 山門



 西明寺から清滝川沿いに高山寺を目指して歩く。木々が広がり薄暗い場所もあった。途中 民家の玄関先で草餅や柿などを売っているところがあった。年配の姉妹で商いをしている。神護寺の硯石亭で休憩しただけで飲まず食わず休まず歩いたので、草餅を買ってここで一休みした。姉妹の一人は京都検定試験合格者だった。30分ばかり京の見所などお茶の接待を受けながら世間話をする。 これが一人旅の楽しいところである。
 10分ばかり歩くと周山街道(国道162号)に出た。交通量も多い。左の路側帯を歩き左折して白雲橋を渡ると高山寺表参道へ着いた。 入山料500円 を払って境内に入る。

石柱の門をくぐると菱形の石畳が続く。ここのモミジはまだ紅葉していなかったが、高山寺のパンフレットの表紙を紅葉したモミジと落ち葉のコントラストのすばらしい写真が飾っていた。想像してみてください。

 高山寺は宝亀5年(744)、光仁天皇によって造られた神願寺都賀尾坊がはじまり。鎌倉時代に後鳥羽上皇の勅願を賜り、栂尾高山寺と改められた。国宝・重要文化財は一万点余。建築物としては、明恵上人が後鳥羽上皇から学問所として賜った建物・石水院が国宝。書画では鳥羽僧正作の「鳥獣人物戯画」(国宝)が有名で、複製が石水院に展示されている。(つづく)



京都 三尾 西明寺 

2011-12-22 21:57:09 | 旅行
2011年12月22日(木) くもり 冬至

 「冬至 冬中 冬初め」という。昼時間が一番短く夜が一番長い日。これから日照時間が長くなり明るく暖かい季節と思うが、実際は寒さは厳しい本格的な冬を迎える。
天気予報は「クリスマス寒波 5泊6日」と報じている。昨年のように一晩で約1mの豪雪にならないことを願う。
 
11月17日(木) 晴れ 
  京都に魅せられた男の一人旅31  
  第四日目 西明寺 紅葉

 神護寺の石段を下り、高尾橋を左折して清滝川沿いに歩く。夏に来た川床は店を閉じていた。1日1000円の駐車場はどこも満車状態。紅葉のシーズンは公共の交通を利用したほうがよい。ゆるやかな坂道を約25分歩くと潅頂橋。左折して坂を上ると西明寺の裏木戸があった。500円を支払って境内に入る。
 あまり広くない境内だがこの寺の紅葉もすばらしい。

 西明寺は、古義真言宗に属し槇尾山と号す。
天長年間(828~834)に弘法大師の高弟智泉大徳が、高尾山神護寺の別院として創建したのがはじまりという真言宗の寺。豊かな自然に囲まれた境内には、槇尾の地名の由来といわれる槇の老木が立っている。

 本堂は元禄13年(1700)に五大将軍徳川綱吉の生母桂昌院の寄進により再建された。運慶作の本尊・釈迦如来立像、千手観世音菩薩像や愛染明王像などの多数の仏像を安置している。


 本堂の左方に接近して建ち、本堂左後方と短い渡り廊下で結ばれている。造営は本堂より古く、江戸時代前期に移築された。当時は食堂と称し、僧侶の生活や戒律の道場として使用されていた。
 また、表門は一間薬医門で、本堂と同じ元禄13年(1700)の造営である。
 入る時は裏門からだったが帰りはこの表門からでた。
 この表門のモミジの色があまりにも美しかったのでパチリ。

 西明寺を出て指月橋を渡り、清滝川沿いに栂尾高山寺にゆるやかな坂道を歩いた。
 (つづく)