会津の重ちゃん日記

日常の出来事、地方紙の記事、街中散策して見聞したことを発信。

京都一人旅3日目ー7大徳寺の塔頭

2009-12-31 15:48:10 | 旅行
12月31日(木) 大晦日  
 予報通り雪が降り出した。朝のうちはまだちらほらと小降りだったので、正月用のほうれん草とキャベツと山東菜を収穫した。外の水道で土を洗い流す。地下水なので水温が気温より高く作業はしやすかった。
 神棚に注連飾、恵比寿、大黒と歳徳神を飾り、水、塩、米、さかき、灯明、餅、酒、鮭の頭をお供えして主人の年越し準備は終わり。 
 ラッシュは息子の車で孫達の待つ塙町へ。娘一家は明日帰省して来る。今宵は夫婦だけの年越し。年越し蕎麦も打たないで乾麺ですませる。年々このような年越しをするのだろうか。少し寂しい気がする。
 京都一人旅はまだ3日目が終らない。元日もアップします。お付き合いしてください。
 
   9日(水)   大徳寺の塔頭
京都ウオーキング講座の仲間と落ち合い蒲生氏郷公の墓がある「黄梅院」を訪ね、花と線香を手向けた。ここの住職は鶴ヶ城の修復工事に理解を示し、寄付者には自筆の書をくださることで会津若松市と関係が深い。8日で特別公開は終わっていたのだが、事前にお願いしたので蒲生氏郷公の墓参りが出来てよかった。



ここで仲間とは別れ、大徳寺で公開している塔頭を一人で巡ることにした。黄梅院を左に進んでいくと右手に大徳寺の総門が見える。総門に行かず境内を左に行くと、唐門、三門(金毛閣)、勅使門がなどが並び建っていた。

この金毛閣は天正17年(1589年)千利休が完成させて上層にわらじ履きの自身の木像を安置した。これが豊臣秀吉の怒りにふれ、利休は自決に追い込まれた。美しい二層の山門である。写生をしている方がおられた。

興臨院の方丈庭園は前日で特別公開が終っていて拝見できなかった。龍源院、枯れ山水庭の大仙院(撮影禁止)、細川家の菩提寺である高桐院にはガラシャ夫人の墓がひっそりと建っていたのでお参りした。

午後3時日暮れが早く薄暗くなってきたが、足を延ばして今宮神社方面へ。

京都一人旅第3日目ー6 大徳寺

2009-12-30 22:09:21 | 旅行
12月30日(水) 今年もあと1日  孫達は大阪から帰宅せず嫁の実家塙町へ。昨夜息子だけ帰宅しラッシュを迎えに来た。飼い主がわかる。自分の家に連れていいってもらって、息子と寝た。今日はとても安定した状態で我が家にやって来た。飼い主と一緒の場所で過すのが一番。
 
 子育ての頃長く預かってくれる人を見つけるまで3歳の娘をあちこちに頼んで勤めていた時、娘の不安定な状態をこの犬の状態がオーバーラップしてしまった。
 
 先延ばし先延ばししてきたがいよいよ明日は大晦日。神棚、仏壇、客間などの掃除をした。玄関には、昨年も飾った松竹梅の鉢を置いた。ヒーターで温度調節しながら梅の開花を調整。今年も梅一輪が開花。他の蕾も膨らみ元旦には数個開花する。正月飾りはこれでOK。経費節約となった。 
   9日(水)   大徳寺
火曜日から来た京都ウオーキング講座の仲間と午後1時大徳寺で落ち合う約束。詩仙堂前にタクシーが来たので乗車し大徳寺へ(1,440円)。約束の時間には1時間くらい余裕があったので昼食をとる。大徳寺前の食堂は高い。普通の昼食ならと食堂を紹介してもらった。残念なことに工事中。仕方がなく露地をぶらり。みつけた食堂でラーメン定植。量が多すぎて食べきれない。(800円)

 四方山話しをしていると、店主が近くに弁慶が牛若丸に負けるまで千本の刀をとるために夜な夜な橋の上で待っていた。その時腰かけていた石があるという。物好きなので出かけてみた。1本露地を間違えてうろうろしていたら地元の人が案内して見学の橋渡しをしてくれた。さすが、観光の町京都。みんなが観光案内人。会津若松市民もこの精神でボランティア案内できるようになろう。場所は、米屋さんの狭い庭にあった。昼食中に関わらずここよく部屋に通してもらい写真をパチリ。京都市で看板を建てているが???????。の石であった。興味のある方はどうぞ。


 大通りを横切り門前町を通って大徳寺へ。一休さんこと一休禅師が再興した大寺院。名庭といわれる庭園が集中。魅力ある塔頭も数多く存在する。独自の美意識を持ち、見るものに忘れられない印象を残す寺院が多い。禅や茶の湯を芸術の域に高めた先人の美の遺産に出会うエリアである。

 臨済宗大徳寺派の大本山。宗峰妙超(大燈国国師)が鎌倉末期に小さな寺を建てたのが始まり、花園上皇や後醐醍天王の庇護を受け、五山第一位に列されるなど大寺院に変貌を遂げた。室町時代になってから五山を離脱。応仁の乱で数多くの堂宇を焼失したものの、文明年間(1469~87)に一休禅師が再興。現在は24の塔頭のうち4院が常時拝観を行っている。茶の湯やさまざまな歴史との深い関わりを今に伝えている。
が鎌倉末期に小さな寺を建てたのが始まり。

広いので約束の場所がわからない。案内図をしっかり見て「黄梅院」の場所を確認。携帯電話で連絡を取りあいグループと落ち合った。

京都一人旅第3日目ー5修学院離宮を後にして

2009-12-29 20:30:22 | 旅行
12月29日(火) 今年もあと2日  今朝は、昨晩厨倶楽部(創作フランス料理店の応援)の忘年会だったのでゆっくり寝ていようと思ったのだが、ラッシュが大きな声で吠えた。午前6時。用便の催促なので、散歩へ連れ出す。孫達を探して玄関前に行く。不安な様子がわかる。落ち着くまでいろいろと餌を与えたり、だっこしたりと世話をやいた。一人で他所に泊まって不安になった子どもと同じ状態。
 正午からは同じ時期に退職した知人が亡くなり告別式に参列。頑健で山登りを趣味としていた彼の死は大きな衝撃である。
 
   9日(水)   修学院離宮を後にして
自然の起伏を利用した広大な山荘修学院離宮を後にして曼珠院へ向かった。上り坂なので実際の距離よりは遠く感じた。約13分くらいで曼珠院へ着いた。この院は「竹内門跡」とも呼ばれる洛北エリア屈指の門跡寺院。そもそも最澄が比叡山山内に建てた堂で、明暦2(1656)年、桂離宮を造営した八条宮智仁親王の子、天台座主だった良尚法親王が、現在の地に移動。重要文化財である本堂や書院、庫裡などは、この時に造営されたといわれている。室内のしつらえ、建具の意匠、庭の配置など、いたるところに工夫が施されていて、その「用の美」がみるものをうならせる。
 白砂が美しい名勝の枯山水庭園は一見の価値がある。お勧めです。

しばし、休んだ後家康が足利学校の分校を伏見に創建。60年後の現在地に移築した
圓光寺を見学し、詩仙堂へ足を運んだ。途中宮本武蔵が吉岡一門を破った決闘の地一乗寺下り松やお守りや絵馬があるという八大神社に立ち寄った。下り松はわからなかった。

詩仙堂は風流人として知られる江戸初期の文人、石川丈山が結んだ草庵。丈山が狩野探幽に描かせた三十六詩仙の肖像が寺名の由来。サツキの寺として有名。サンダルに履きかえて白砂を敷つめた庭園を散策した。3月は梅、5月はサツキが美しいだろうと想像しながら・・・・。

京都一人旅第3日目ー4修学院離宮

2009-12-28 11:33:03 | 旅行
12月28日(月) 官庁御用納め  昨晩、ラッシュは落ち着かなかった。夕方お迎えにくる家人がいない。何度も何度も玄関に出向いた。午後11時過ぎやっとあきらめて寝た。午前4時 新聞配達の音で起き、大きく吠えた。明かりをつけてしばらくいっしょにいたら安心して寝た。犬は寂しがりやだと思った。
 
   9日(水)   上離宮を後にして
「隣雲亭」の洗詩台に腰を下ろし、滝から池に注ぐ沢を真下に望み、紅葉谷方面に縦に深入っている浴竜池などの眺望をしばしの間楽しんだ。軒下の三和土(たたき)には赤と黒の小石の「一二三石(ひふみいし)」があり、雄大な景観に対してあまりにも慎ましい。この意匠に華道にも造詣の深かった上皇が偲ばれる。
 
「隣雲亭」を後にして沢伝いに階段を下り、浴竜池のほとりへと歩く。左手に「千歳橋」や中島の「窮邃亭」を見ながら土橋を渡り、池の周りを巡った。上皇が舟遊びをされた西浜の舟着き場には舟を繋留した石も残っていた。約1時間半の見学を終え、修学院離宮を出た。
 修学院離宮の写真を数枚アップします。ごらんください。
■上離宮の隣雲亭への石段 大刈り込みのなかに設けられた急な石段はあたりの景観を一瞬覆い隠す。■
■中島と北岸を結ぶ約16メートルの土橋。わずかな反りをもつ。素朴な欅の欄間には菊花紋の留金具が鈍色に光っている。■

■千歳橋 窮邃亭と万松場を結ぶ橋で、1824(文政7)年の大修理の際に京都所司代・内籐信敦が献上した。東側の宝形造りの屋根に瑞草をくわえた金銅の鳳凰が飾られている。西側は寄棟造りのあずまや■

■中離宮客殿の網代の欄干 内仏間の外に巡らされた鉤の手の榑縁の手すりは、網を干した形。直線を数本組み合わせ他簡素なものだが、磨かれたセンスが漂っており、見どころの一つである。■

■中離宮客殿杉戸鯉の図 一の間と二の間の境に親子の鯉が描かれている。あまりにも生き生きと描写されているところから鯉が抜け出すのを防ぐために後で網を描き加えたという伝説もある。■
■渓流を堰き止めるために築かれた、200メートルにおよぶ人口堤の脇に舟を繋留した大きな石がある。■


京都一人旅第3日目ー3修学院離宮

2009-12-27 17:50:47 | 旅行
12月27日(日) 今年もあと4日  孫達一家は、大阪のユニバーサルシティへ朝はやくでかけた。海遊館やニュニバーサル・スタジオ・ジャパンの見学。二泊三日の旅。冬休みのよい思いでとなるだろう。ラッシュは我が家で留守番。犬の面倒は祖父母で。何時も孫達と寝ているラッシュは今晩どうなるかな?
 
   9日(水)   本領の上離宮
田園のなかを分けて延びる松並木道のスロープはわずかに左にカーブし、登りきって広がる玉砂利の広場の向こうに、木立の下にひっそりと上離宮の御幸門が佇む。門をくぐって右手の迷路のようなか背の高い刈り込みの暗く、狭く、直線的な山路を巡り、階段伝いに修学院離宮の最高地点「隣雲亭」の前に出た。
 
 振り返って見渡すと明るく、広く、立体的な大パノラマは眼下の浴竜池と見事に溶け合って広がり、修学院離宮の最も秀な景観を見せてくれた。ここからの景は、近景の庭園、中景の松ヶ崎の山並み、遠景の北山連峰が広大な遠近感をもって迫ってくる。それら庭園と周辺との一体感は、周到な計算によって生み出されている。
 
 後水尾上皇自ら粘土の模型によるシュミレーションを行い、ついに工事現場まで出向いて思し召すままに造営された修学院離宮は、この一景に凝縮されているといっても過言ではない。

京都一人旅第3日目ー2修学院離宮

2009-12-26 15:44:12 | 旅行
12月26日(土)   孫は今日もゲームに夢中。両親は部活指導や就職指導で留守。今年最後の腰痛リハビリプールに行く。今晩も忘年会だが、身体を動かしたので調子はよい。深酒だけは気をつけよう。 
   9日(水)   広い修学院離宮

★寿月観の前庭飛び石★かすかに勾配付けた平庭一面敷かれた白砂がすがすがしい。飛び石は丸みのある石は古く、角張ったものは文政の修理の際入れられたものと推測される。

下離宮寿月観を後にして中離宮から上離宮へと歩いた。
中離宮には楽只軒と客殿があり、やはり南に庭がある。
上離宮は、修学院離宮の本領であって、谷川をせき止め浴龍池と呼ぶ大きな池を中心にすえた回遊式庭園となっている。その浴龍池を一望におさめる東南の高みには隣雲亭、中島に窮邃亭(きゅうすいてい)がある。
 
 山麓に広がる離宮のため上と下の離宮では標高差40m近くあり、大小の滝に加え水量の早い小川もあり、どこにいても絶えず水の音を聴く事ができる。昔は畦道に過ぎなかった松並木から眺める風景もすばらしい。

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京都一人旅第3日目ー1 修学院離宮

2009-12-25 17:46:13 | 旅行
12月25日(金) 今年もあと1週間  今日は資源物回収日。午前6時半に容器を出す。孫は新しいゲーム機をプレゼントしてもらったので朝から夢中。孫達の陰の声(本当は親がプレゼントしてくれたのはわかっているが、サンタさんにもらっったと喜んでいようね。)
 
   9日(水)   修学院離宮へ
旅行も三日目となった。荷物はキャリーサービスを利用して今夜の宿「京都国際ホテル」を送った。朝食は7時半から。修学院離宮は9時集合。東本願寺前のバス停から8時10分に乗車。洛北にある修学院離宮道バス停までは遠いので40分かかる。そこから、離宮までは徒歩10分。時間的余裕がない。四条の先までバスに乗り(220円)、途中下車してタクシーを利用した(1860円)。初めからタクシーを利用すると5000円以上かかる。このバスとタクシーの併用は京都を巡る時はよい方法です。是非試してみてください。


 修学院離宮は桂離宮より30余年後、明暦元年(1655~1656年)後水尾上皇により造営工事が始まり、万治2年(1659)に完成した山荘。
 比叡山の麓、東山連峰の山裾に造られた修学院離宮は、上・中・下の三つの離宮(御茶屋)からなり、上離宮背後の山、借景となる山林、それに三つの離宮を連絡する松並木の道と両側に広がる田畑とで構成されている。総面積54万5千㎡を越える雄大な離宮である。明治期に宮内省の所管となるまでには離宮を囲む垣根も全周にはなく、自然に対して解放された山荘であった。
 
 下離宮には、創建時では最大の建物の彎曲閣があったが、比較的早い時期に失われ、今は南を庭園に囲まれた寿月観が残っている。

京都一人旅第2日目ー5川下りと嵐山

2009-12-24 12:25:36 | 旅行
12月24日(木) クリスマスイブ  年が押し迫ってくると街中の様子が慌しくなってきている。やはり師走だ。不景気でもクリスマスイブくらいは子どもへのプレゼントやケーキなどを買っている人を多く見かける。にわかクリスチャンの出現。教会でお祈りするわけではないが、なんとなくジングルベルの曲で華やいだ気分になる。我が家は明日嫁の手作りケーキやご馳走でパーテーをする予定。孫へのプレゼントは用意した。
 
   8日(火) 川下りして再び嵐山へ
保津川下りは、 亀岡から嵐山まで約16kmの渓流を下る舟下り。定員は一艘20名。所要時間は約2時間位かかる。

熟練した船頭3名が竿と櫂で操りながら狭い岩間をすり抜けていく。スリリングな急流下りを体験した後、緩やかな流れになると屋台舟が近づいて来た。おでんと熱燗を注文して身体を温めた。昨日から冬用屋根を付けたお座敷船と屋台舟を営業。よい体験ができた。
 
歴史的には、この保津川下りの始まりは慶長11(1606)年。角倉了以が、木材や薪炭など丹波地方の産物を京都に送るために産業水路として開いたものである。
 
嵐山で下船。紅葉が残っていた宝厳寺の庭園を散策し、宗派を問わず遺骨と位牌を預かり永代供養をしてくれる「無礙光堂(むげこうどう)」を参拝。
 
その後、嵐山羅漢をみて阪急嵐山駅(阪急嵐山線)より乗車し、桂駅(阪急京都線)で乗り換え、終点烏丸で下車。そこで地下鉄烏丸線に乗り、烏丸五条で下車。歩いて宿へ。日暮が早く辺りは暗くなっていた。
 今日も歩いた約17,300歩。
 夕食の時刻は午後6時。なんとか間に合った。宿泊客と一緒に食事。母娘、若い女性二人と小生。外出せず荷物の整理などをして、早めに床につく。





京都一人旅第2日目ー4 保津峡

2009-12-23 19:57:52 | 旅行
12月23日(水) 天皇誕生日 6年生の孫はドッチボールクラブの遠征試合で午前6時母親の車で新潟へ出かけた。父親は部活の指導。5年生の孫と犬が我が家へ。
 象徴天皇について最近の民主党幹事長の発言は非常に気になる。内閣の助言と承認とかプライバシーはないなど。即位20年の記念すべき年に憲法上のことが問題になるのは心が痛む。国民としては健康に留意され、ゆとりある時間を過していただきたいと願う。
   8日(火) 保津峡の旅へ
 天皇即位20年の記念グッツを土産に買い桂離宮を後にする。タクシーで阪急電車桂駅へ行き、電車に乗り嵐山へ。

嵐山公園を通り、渡月橋を渡って天龍寺前を右折「さがのトロッコウ駅」へ歩く。観光の名所。人、人、人で賑わっていた。観光バスなどで時間に追われて散策したと時と違い、のんびりとあっちこっち眺めなが駅へ向かった。約30分。
 
駅は、蒸気機関車の展示するレストランや植物園がある土産物店、食堂などよく整備されていた。トロッコ列車・バス・船賃の切符4,300円で購入。出発時間まで昼食を取り一休み。
 
嵯峨野からカラフルなトロッコ列車に乗り、亀岡駅まで全長7.3km、約25分。イスは木製で硬い。昔の汽車を思い出す。8ヶ所あるトンネルのうち2つ目を抜けた鉄橋あたりから広がる雄大な渓谷美はすばらしい。沿線の紅葉は終わっていた。車掌が「高原列車は行くよ」の替え歌「保津峡は行くよ」を歌ったのはご愛嬌である。

亀岡駅に着き、そこから保津峡船着場までバスで移動。
 修学旅行などの団体で、乗船は待たされた。一本のモミジの紅葉が鮮やかだったのでパチリ。
 明日は保津川下りをアップします。




京都一人旅第2日目ー3桂離宮

2009-12-22 18:52:48 | 旅行
12月22日(火) 冬至  第2学期終業式。5年と6年の孫が元気よく帰宅。自分なりにがんばったことを話してくれた。通知票はそれなりに。冬休み家族旅行の計画があるらしく早速冬休みの宿題をはじめた。明日からは犬と孫で賑やかになる。
   8日(火) 桂離宮の一面を写真で
 元和元年(1615年)頃八条宮家の別荘として桂山荘が建てられた。その後、増築などがなされた。創建以来火災に遭うこともなく、ほとんど完全に創建時の姿を今日に伝えている。日本人の美感覚の素晴らしさを桂離宮を参観して思った。何度でも訪れたい場所である。すべてをアップできないので特徴的なところの写真をアップします。