アグリコ日記

岩手の山里で自給自足的な暮らしをしています。

空の微塵

2006-03-01 20:22:55 | 思い
ここ数日、思い立って法華経を読んでいる。

どうしていきなり・・・かというと、実は私の古い友人が創価学会に入会したという。先日かかってきた電話でその決意の程を知らされた。そこで今後の彼との会話における必要性から、私も少しはその方面の知識を持っていた方がいいと思ったのだ。彼とはもう、古い友達である。例えこれから相手がどんな宗教に関わったとしても、それはそれを受け容れてつき合っていきたい。

一般に「法華経」と呼ばれるものは、「無量義経」「妙法蓮華経」「仏説観普賢菩薩行法経」の三経を一セットとしているみたいだ(「法華三部経」と言うらしい。)

読み進めるに従って当然のことながら数多い仏教用語に直面する。日常馴染みの無い言葉もあればよく耳にするものもあるが、しかしこれらの単語は仏法の世界の中ではどれも私たちが日常用いている意味では使われていない。これら難解な専門用語があるから、聖書と違って仏典というものが広く一般に読まれていないのかもしれない。

例えば仏教用語のひとつに、「空」という言葉がある。
仏法で言う空とは、本来「宇宙の至るところに満ち満ちているただひといろの実在」であり「物質でも現象でもなく、すべての働きを現す根源の能力としての絶対の存在」「永遠不滅の宇宙の実体」を指すのだそうだ。
似たような感じの言葉に「実相」というものがある。「永遠に破壊しない絶対の実在。現象の背後にある真実の世界。」とのこと。

因みに「仏」とは、「宇宙万有の根源たる大いなる『いのち』(法身仏)。」私たちが釈迦や亡くなった人たちを指して「仏」と呼ぶのも、それはそれであながち誤った使い方ではないのだろうけれど、同じ単語でも日常の意味とは随分隔たったものだということに驚いた。

しかしこれら字句の解説を参照しながら「無量義」についてのくだりを読んでいて、私の脳裏にふと思い浮かぶ文章があった。昔どこかで読んだ宮沢賢治の言葉の一節である。

まづもろともにかがやく宇宙の微塵となりて無方の空にちらばらう

後で調べてみたのだが、これは彼の「農民芸術概論綱要」の一節だった。賢治30歳。花巻の岩手国民高等学校で行った講義の骨子を取り纏めた、自らの理想の「生き方」の決意文のようなものだ。ほどなくこの趣旨に則り彼は教諭の職を辞めて野に下り、農民の中に生きる道を実践する。

断っておくけれど私は特に宮沢賢治に詳しいわけではない。ただ岩手県に住んでいることもあって今まで賢治の作品や生い立ちに触れることは幾度かあったし、記憶を辿ればこの節も、かつてとある方に頂いた本の中に記されていた文言をたまたま記憶していたに過ぎない。
ただ宮沢賢治という人をイメージする時に、百姓としての私には彼の生き方の軸としての農業への関心と食生活(いのちとの関わり方)、そして熱心な法華経信者だったことが脳裏に浮かぶ。彼の自己表現はその土台の上に築かれており、彼の人となりや作品を読み解こうとする上でそれらへの理解は割愛することのできない基本条件のようなものだと思う。

そして今、遅ればせながら私も法華経と賢治の関連に初めて気づいて、そうか、なるほどと思うのである。賢治はこんな意味を込めてこの言葉を述べたのか。今までただ不思議な表現としてしか受け取れなかったものが、仏典を通して初めてそれに込められた真意の一端に触れることができた気になった。
しかしまた、私は先に述べたとおりに仏教にも特にどころか全然詳しくなく、仏典を真正面から読むのも今回が初めてのようなものだ。だからこれから述べることは単なる私個人の思い込みであり、その方面の識者から見れば偏見と思い違いに満ちたものなのかもしれないけれど、しかし少なくとも今の私という人間が感覚として得た正直な思いであり、当人にすれば目から鱗を落とすほどのひとつの発見だったことは事実だ。

「もろともにかがやく宇宙の微塵となりて無方の空にちらばらう」・・・この一文の中に彼は仏法で言うところの自身や万物の真の姿を悟りこの世のすべての存在と皆一緒に幸せを実現しようとする決意を込めたのだと思う。そういえばこの綱要の中の序論で彼はかの有名な一節、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」と述べている。

彼の言う「農民芸術」とは世の芸術家や宗教家がそれを切り売りして生活する、いわゆる職業的なものと対比されている。芸術も宗教も古来より人間各人に創造の資質として備わり、それゆえに生きる楽しみの土台ともなっていたのだけれど、それがいつの間にか日々の労働に埋もれ消えてしまって暮らしはただ苦しいだけのものになってしまっていた。
だから教職を辞してから賢治が主催した「羅須地人協会」も、それら人間が本来持っていたものを再び手に取り戻すための試みだった。ものごとの現象に惑わされずその本質を捉えて本来あるべき生き方に気づき、もって自然と生活と芸術との一体化を実現するため互いに研鑽し助け合い学ぶ場を作ろうとした、広い視点でのひとつの「共同体」構想の具現ではなかろうか。

そうすれば芸術は日々の暮らしと労働の中から自ずと湧き出るものとなり、大地に根を張った己の足で立つ人間にのみ創造可能な真の姿を取り戻す。それなくして美に力は無い。確かに賢治の詩や童話の中には折に触れ魂の深みから搾り出すようなものを感じることがあるけれど、彼にとって創作とは表現の遊びでも空想でも、もちろん大衆受けを狙いとした舌触りがいいものを作ることでは決してなく、自分自身の悩み哀しみ喜び輝き更には心奥のすべてを吐き出し文字に表わすことにあった。それはつまり、自らを掘り下げた分だけ成しえる、人間の行い得る究極の表現でもある。
だから「農民芸術とは宇宙感情の、地、人、個性と通ずる具体的なる表現」であり、「なべての悩みをたきぎと燃やし、なべての心を心とし、風とゆききし雲からエネルギーをとって」生まれるものだった。

さて、紐解いた初めての経典でいきなり宮沢賢治に思いを馳せることになったのだけれど、実はこの法華経、私はまだ全体の五分の一程度しか読んでいない。どうも夜酒を飲みながら読む気になれないものだから、毎朝仕事の前に少しずつ読み進んでいる。
とかく私たち日本人には抹香臭くて堅苦しいイメージのある仏典なのだけれど、読んでみると意外と内容は面白い。現代語訳で読む限り聖書や古事記と同じように物語的に読める。元々がサンスクリット語で書かれた書物なのだから、もっと積極的に現代語訳の普及に努めた方がいいのではないだろうか。お寺で使われている漢文もそれを訓読に読み下した経典も、どちらも等しく原典でないことには変わりないのだから。聖書だって英語で読んだ方が和訳より素晴らしいということは決してない。
要はその中から今の自分で感じられることをありのままに受け容れていけばいいのだと思う。始めから奥の深い教義を正確無比に理解しようなどということはあまり考えなくてもいい。いずれにせよ長い時間のうちにはどんな言葉の意味でさえ、本人の成長の中で解釈は自然と変わってくるものだから。

「すべての存在はただひとつの漏れもなくなべて無上の悟りに達する」という教義ひとつを信じることができても、その価値は生きる上で千の書物に値するかもしれない。



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14 コメント

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初めましてm(__)m (waka)
2006-03-02 14:46:07
私は盛岡の出身で、今は学生をしております。

 自殺についての考察を読ませていただいた後、最新の記事が宮沢賢治の写真と法華経なんて、なんて面白いと思い、コメント寄せてしまいました。

宮沢賢治について、私もよく研究を目にするのですが、私の中では賢治の童話はとても宗教性が強く、子ども達にもわかる宗教の本としても書いていたのではないかと思っています。
返信する
ようこそ・・・ (agrico)
2006-03-02 20:11:22
盛岡出身の方ですか。それにしてもよくこのBLOGの自殺についての記事(多分「自殺サイト」ですね?)に行き当たりましたね。もう随分前に書いた記事です。検索しても簡単には出てこないでしょう。



実はこの宮沢賢治に関する記事を書き上げてから、図書館から「宮沢賢治の文学と法華経」という本を借りて読み始めたのですよ。いっそのことそういう本を読んでからこんな記事を書けばよかったんですけどね。順序が逆でした。でもまあ、BLOGの記事ってのは勢いに乗ってこそ書きやすいものではあるけれど・・・



その本によると、賢治は若い頃日蓮主義の団体「国柱会」に入ってから「法華文学」の創作を始めたそうですね。

はあ~そうなのかー・・・とは思いますが、賢治の作品をあまり読んでない私にはすぐにはピンと来ないのですよ。「法華文学」というのがどういうものなのかも、いまひとつわかりませんし。



しかし賢治の作品は宗教を抜きにしても充分通用するものがあります。実際私も法華経を読み始めるまで賢治作品の中の宗教性というものにまったく気づきませんでした。彼は法華経の世界に作者としての身を置きながらも、宗教色を前面に出さず囚われず、ずっと自由な意識で創作していたんでしょうね。

そこから来る作品の普遍性が、後世彼の名をこんなにまでも高めることになったのでしょう。



賢治研究をする人は多いですね。図書館に行って驚きましたが、その方面の本もかなり多く出ている。しかし私はそんなこと何にも知らないものだから、何でも思い切ったことを言えちゃうのですよ。

知ってる人からすれば笑止ものかもしれません。知らないってことは、ある意味とても気が楽ですね。
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お返事ありがとうございますm(__)m (waka)
2006-03-03 00:59:44
 私も専門ではありませんよ(>_<)ただ、小・中学校でよく習っていたのと、今は教育を専攻しているので、『地域の作家』でいくつか研究を聞いたことがあったからです。私も気楽に話しています(笑)



 私は、宮沢賢治は宗教家だったと思うんです。彼の考え方は、まるで自然の一部のようだとも感じています。

 彼は、晩年は農耕をして、自分の作った野菜しか食べなかったそうです。彼の作品には、身を犠牲にしてもまわりのためとなるよう行動する場合が多いと思います。普遍的な物語だと思います。でも、私のような俗世の人間には、なかなか厳しいなぁと感じていて。

 私は『永訣の朝』と『風ニモマケズ』が好きなんです。辛くても、まだ大丈夫かなと思えるので。



 あと、法華経に興味を持ったのは、私自身がたまたま今般若心経を少し読んでいたからなんです(笑)絵本で、般若心経を解説した本が出ているんです。それが結構面白くて。宗教を持っていないのですが、すばらしいことが書かれていると感じています。



 知らないということは気楽なことっていうのは、その通りだと思います。研究を読んでいると、よく教授にそんなことも知らないのかとため息をつかれてしまいます。でも、知らないから知りたいと思うんですよね。だから、答えていただけてとても嬉しかったです。勉強になりました。ありがとうございます(^口^)
返信する
お互い・・・ (agrico)
2006-03-03 20:34:57
楽しく勉強していきましょう。

もしBLOGを始めた時はURL教えてくださいね。
返信する
ブログ作ってます (waka)
2006-03-03 23:33:53
お返事ありがとうございますm(__)m

ただだらだらと日記を書いております。

本の紹介やDVDの紹介もしております。

ぜひいらしてくださいm(__)m
返信する
ありがとう。 (agrico)
2006-03-04 21:27:36
たった今行ってきました。

私も子どもの頃は本の虫だったんですが、社会人になってからはほとんど本を読んでなかったのです。

それがBLOGを書くようになって、去年あたりからまた読み始めました。

やはりBLOG仲間には読書家が多いので啓発されたのですね。うちにはテレビも無いし新聞もとってないし、ラジオも電波が入りにくいので、加えて本も読んでないと、いったい今は昭和か平成かわからなくなってたんですよ。



昔学校の先生になりたいな、と思った時があったんですが、あまりに自分に合っていそうだったんで、やめたんです。

不思議に思われるかもしれないですが、あの頃の自分は変化を求めてたんですね。変わりたい、自分を変えたい、と切実に願ってました。

知らない世界に飛び込むのが好きだったんです。その結果しばしば自分の苦手なもの、不得意なものをするはめになったりしてました。なぜか自分の有利なものや得意なものを選ばなかったのです。

そんな人生も、ありなんですね。



いい先生になれるといいですね。
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お返事ありがとうございます (waka)
2006-03-06 20:04:02
 来てくださり、ありがとうございます。

 光栄です。



 実は私、先生になるのはやめようかと考えているんです。

 教員と言うのはとても特殊な環境にいるのだと強く感じています。『先生』と呼ばれ、強い立場に立ち、自分の知識を伝える。これは、よっぽどの覚悟がないとできないことだと思います。

 また、先生っていっても人間なんですね。先生同士、足の引っ張り合いや、意識の違い、教育方法の違いなど、人間関係がやっぱり嫌になって。それに、今は金を出しているからそれ相応の授業をしろという親御さんも増えているそうです。教員とは、荊の道だと、やめた研究室の教授が言っていました。

 理想が強かった分、落胆も大きいようです。もうすこし、考えたいと思います。



 あまり、思い入れの少ない仕事から始めたほうが、いいのかもなぁと思っております。
返信する
先生 (agrico)
2006-03-07 19:17:22
人から「先生」と呼ばれることはある意味、当人の人格形成上大きな危険を含んでいます。

なぜ私がこんなことを思い始めたかというと、以前仕事の都合で「先生」と呼ばれる人たちとたくさん付き合ったんですよ。学校先生、医者、代議士など。そして思いました。どうして「先生」には、これほど人間性の低い(または社会性に欠ける)ような人が多いのだろうかと。

そして気づいたんですよ。人は先生と呼ばれるとまるで自分が人より偉いように誤解してしまうんじゃないか。

これは大きな落とし穴です。人は生きている限り自分の人格を形成し続けている。その努力は現実の自己に対する気づきと謙虚さから生まれるものですよね。

先生の中には稀に素晴らしい人もいます。そしてそんな人は、確かに本物だとうのです。私の先生との付き合いは、今振り返ればそんな両面においてとてもためになるものでした。



現代家庭内の躾けや学校教育の荒廃が叫ばれて久しく、また社会も子どもに対して決してよいものを与えてはくれなくなった感じもあります。かつて社会全体でフォローし合っていた子どもたちの育成システムが機能しなくなっている。子どもは孤立してしまってるんですね。両親を始め関係者は互いに責任の押し付け合いをしているようにも見えます。

だからこそ今、優秀な先生が欲しいのでしょうね。逃げ道の無い子どもたちのために優しく厳しく働ける存在が。



私の友人にもそんな情熱と行動力を持った先生がひとりいますよ。今までたくさんの素晴らしい事例を作り上げたようです。多くの生徒を立ち直らせ、また慕われてもいるみたいです。

でも彼が言うのですよ。もう年ごとに思うとおりに動けなくなってきている。生徒も、生徒の父兄も、そして学校内部も、出る釘は打ち、かと言って誰ひとり責任持って教育の場に立とうとする人がいない。

彼は私より年長ですが、未だに臨時採用の高校教師です。毎年採用試験に落ち続けてます。素晴らしい人材なんですけどね。



最終的に先生の道を歩むにしても、それはエスカレーターの延長線上にあるべきものではないでしょうね。場合によっては他分野での豊富な経験、さまざまな人間と深く関わった体験、そして何よりも人一倍悩み苦しみ壁に当たってもがき続けたその人生と人格が問われる時代なんでしょう。

その意味からも、安直に最短コースを辿ることは殊「先生」にとっては価値あることではないかもしれない。

私も「先生」と呼ばれない生き方を目指しています。けれど心底現代の子どもたちのために何かしてあげたい、働きたいと思っているんですよ。
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お返事ありがとうございます (waka)
2006-03-08 14:44:05
 今思うと、自分は、苦労していらっしゃる先輩を見て、エスカレーターに乗ろうとして、その先にあるものが違うと感じたから、飛び降りたようなもんだったのだと思います。

 出る杭は打たれ、若い目は潰すような先生も確かにいらっしゃいます。『先生』と呼ばれ、自分がその部屋の中ではトップの立場になってしまいます。それを『特殊』な場合なのだと、自覚していかなければいけないし、生徒にとって、その先生は一人しかいないと言うのも、とても重い責任ですね。

 『先生』も、人間ですから、劣等感やプライドや、いろんな思いがあると思います。しかし、それを子ども達にぶつけっては絶対にいけないんだと思います。また、先生は自分ではなく、『先生』として見られます。そのメリハリも大事だと思います。

 

 ひとつお聞きしたいのですが、アグリコさんはどのような人物を立派だと感じますか?



 私は、常にどんな状態にあっても、たんたんと自分の仕事をこなし、まわりに働きかけたり耳を傾け優しくできる人はすばらしいと思います。

 私は、愛情と言うものがよくわかりませんでした。最近、なんとなく理解できるようになりましたが、まだ他の人にうまく与えられません。そういうふうになれたらと、最近は思います。

 アグリコさんは、自分はどのような人物になりたいとお考えですか?
返信する
尊敬できること (agrico)
2006-03-08 19:07:34
考えてみれば私はかなり昔から、人として尊敬できる人物を持ったことが無いんですよ。「師を持つこと」は人生でとても大切だと言われるんですけどね。どうしてなんでしょう。自分にも他人にも厳しすぎたのでしょうか。

でもその人全体を尊敬するわけじゃなくて、ちょっとした行為、さり気ない行動を立派だと思うことはたくさんあります。そんなことがあるから今までひねくれないで来れたんでしょうかね。



例えば、相手の話をよく聞こうとする人は素晴らしいと思います。仕事だとか役割だとか、その人その機会でさまざまな事情があることもありますが、でもどんな場合でもそれのできる人はまだまだ成長して行く人だと思います。



また身近なものを大切にしている人は素晴らしいです。それが家族でも同居人でも職場の仲間でもいい。一番自分に近いところにいるものとどう接するかにはその人の人格が現れますね。家族が仲良ければそれは来客に対する態度やその家の雰囲気にも現れますしね。目下私の一番身近なものたちは猫や犬、鶏たちですが。



本来の意味で名実共に先生だ、という人はいないんでしょうね。現代ではただ何かを教える人、指導する人を「先生」と呼んでいる。それはそれで割り切って先生にならないといけませんね。

子どもたちが学校でする価値あることのひとつに、先生とつき合うことがあるでしょうね。彼らにとっては人生で最初に近い他人である「おとな」との出会いでしょう。そこから得る人間観・社会観は大きいでしょうね。

だから先生の職をまっとうしようとすれば研鑽するしかないですね。最初からできた人間はいない。素晴らしいと思う人も、やはり一歩から踏み出して来たのだろうから。

愛は自分の中で育てるものですよ。

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