
いろんな人がいろいろなBLOGの使い方をしてるのを見て思うんだけれど、
BLOGをまったくの楽しいコミュニケーションの場として使う人もいれば「創作発表の場」ということに比重を置いて使う人もいる。もちろんみんなそれ以外にもたくさんの動機でBLOGに取り組んでいる。そしてそれぞれなりに、人を寄せることが主眼になったり良い作品を書いてたくさんの人に読んでもらおうと思ったり、多くの関心ある情報を得ようとしたりする。
そしてどのような場合にも、BLOGならではの機能を通して他者から何らかのレスポンスを得られるということはとても大きい。
しかし例えば、アクセス数やコメントというのはいろいろな情報をもたらしてくれる半面、使い方によってはちょっとした落とし穴にもなり得る。例えば創作活動をする人にとっては捉え方を誤ると徒に迎合的な作品の乱発に陥る危険性を持っているし、自己表現をする場合ではとかく「大衆受けする面」だけを取り上げがちになる。何かの目的を持ってBLOGを使う場合には気をつけないといけない。
殊にに学校の偏差値指向からこの方なんでも数値に換算して比較する習性を身に付けてしまった現代日本人は、とかく「優劣を示唆するように見える数値」で表わされるものに弱い。教育の中で培われた持ち前の競争心が多分に刺激される結果となってしまう。
もちろんBLOGはコミュニケーション・ツールとして特化したような道具だから、完全に他者との交流を期待しないでBLOGをしている人はあまりいないだろう。多くの人は誰かと何らかのコンタクトをとろうとして使っているし、そして相手が人である限り、自分がどう思われているかが気になるのも当然のことではある。
私も去年の春にBLOGに出会って以来、この未知の道具はいったい何に利用できて自分にとってどんな使い方ができるかとずっと思ってきた。当初BLOGを始めた頃の思惑は使っているうちに二転三転した。アクセス数に一喜一憂した頃もあるし連日レスを書くのに忙しかったほどコメントがたくさん付いた頃もある。自分を素直に表わせたなと思う時もどうもこの頃世間に迎合した記事を書いているなと反省した時もある。創作発表をした時も、誰かに何らかのメッセージを伝えようとして用いた時もある。
今私はBLOGを「自分という存在の記録」のために使おうとしている。基本的に「日記」として、日々思うこと、出会うことを創作や思い出を含めてそのまま表わそうとしている。だからたまに成り行きで「これは素直な自分じゃないな」と思うような表現をしてしまった時には、後から気づいて書き直したりもする。例えそれがどんなに気の利いて素晴らしく見えるものであっても、自分でないものを日記に書く気にはなれない。
しかしもちろんそんな綺麗ごとだけではない。時々アクセス数を見て喜んだり、うぅんと唸ったりもするし、コメントがあまりに付かないと少しがっかりしたりもする。特にこの記事では自分を出せた!と思う時は尚更だ。ある面狭い意味での自己表現の手段としてBLOGを使っているのだから、それはなんだか自分が世間から関心を持たれないことを象徴しているように思えて少し哀しかったりする。
そしてある時、自分の心の動きを見ていると自分が本当はどんな思いでBLOGを使っているかがわかるような気がした。自分の意識上での思惑とは別に、BLOGに取り組む本当の自分の姿を知るためにいい分析材料を与えてくれてるように思った。
レスポンスが見えない分だけ寂しがってる自分がいるし、アクセス数の増減を気にする分だけみんなの輪の中に入りたいと思う自分がいる。嘘や虚飾を書かない分だけ正直に人と接しようとする自分がいるし、コメントで深い言葉を交わしたたったひとりの人に喜ぶ自分に、自分の本当に求めているものは何かを見ることができる。
そんな思いの割合に応じて自分はBLOGを使っているし、それに期待している。言い換えればそれは、さまざまな感情が自分の心を構成する、その割合でもあるかもしれない。
その意味でBLOGは人間関係の縮図とも言える。身の周りで人との関わりに求めていること、人間関係で自分が重きを置いていることの一端を、BLOGを見ながら少しだけ窺い知ることができるかもしれない。
例え醜くても意に沿わなくても自分のありのままの心をそのまま受け留める。素直に振る舞ってそれで足る。そんな人とのつき合いを、いつかしてみたい。
どんなに時間がかかっても、少しずつそんな状態になれればいいなと思う。
【写真はマスキー。生まれながらに哲学者的容貌を備えている。】
BLOGをまったくの楽しいコミュニケーションの場として使う人もいれば「創作発表の場」ということに比重を置いて使う人もいる。もちろんみんなそれ以外にもたくさんの動機でBLOGに取り組んでいる。そしてそれぞれなりに、人を寄せることが主眼になったり良い作品を書いてたくさんの人に読んでもらおうと思ったり、多くの関心ある情報を得ようとしたりする。
そしてどのような場合にも、BLOGならではの機能を通して他者から何らかのレスポンスを得られるということはとても大きい。
しかし例えば、アクセス数やコメントというのはいろいろな情報をもたらしてくれる半面、使い方によってはちょっとした落とし穴にもなり得る。例えば創作活動をする人にとっては捉え方を誤ると徒に迎合的な作品の乱発に陥る危険性を持っているし、自己表現をする場合ではとかく「大衆受けする面」だけを取り上げがちになる。何かの目的を持ってBLOGを使う場合には気をつけないといけない。
殊にに学校の偏差値指向からこの方なんでも数値に換算して比較する習性を身に付けてしまった現代日本人は、とかく「優劣を示唆するように見える数値」で表わされるものに弱い。教育の中で培われた持ち前の競争心が多分に刺激される結果となってしまう。
もちろんBLOGはコミュニケーション・ツールとして特化したような道具だから、完全に他者との交流を期待しないでBLOGをしている人はあまりいないだろう。多くの人は誰かと何らかのコンタクトをとろうとして使っているし、そして相手が人である限り、自分がどう思われているかが気になるのも当然のことではある。
私も去年の春にBLOGに出会って以来、この未知の道具はいったい何に利用できて自分にとってどんな使い方ができるかとずっと思ってきた。当初BLOGを始めた頃の思惑は使っているうちに二転三転した。アクセス数に一喜一憂した頃もあるし連日レスを書くのに忙しかったほどコメントがたくさん付いた頃もある。自分を素直に表わせたなと思う時もどうもこの頃世間に迎合した記事を書いているなと反省した時もある。創作発表をした時も、誰かに何らかのメッセージを伝えようとして用いた時もある。
今私はBLOGを「自分という存在の記録」のために使おうとしている。基本的に「日記」として、日々思うこと、出会うことを創作や思い出を含めてそのまま表わそうとしている。だからたまに成り行きで「これは素直な自分じゃないな」と思うような表現をしてしまった時には、後から気づいて書き直したりもする。例えそれがどんなに気の利いて素晴らしく見えるものであっても、自分でないものを日記に書く気にはなれない。
しかしもちろんそんな綺麗ごとだけではない。時々アクセス数を見て喜んだり、うぅんと唸ったりもするし、コメントがあまりに付かないと少しがっかりしたりもする。特にこの記事では自分を出せた!と思う時は尚更だ。ある面狭い意味での自己表現の手段としてBLOGを使っているのだから、それはなんだか自分が世間から関心を持たれないことを象徴しているように思えて少し哀しかったりする。
そしてある時、自分の心の動きを見ていると自分が本当はどんな思いでBLOGを使っているかがわかるような気がした。自分の意識上での思惑とは別に、BLOGに取り組む本当の自分の姿を知るためにいい分析材料を与えてくれてるように思った。
レスポンスが見えない分だけ寂しがってる自分がいるし、アクセス数の増減を気にする分だけみんなの輪の中に入りたいと思う自分がいる。嘘や虚飾を書かない分だけ正直に人と接しようとする自分がいるし、コメントで深い言葉を交わしたたったひとりの人に喜ぶ自分に、自分の本当に求めているものは何かを見ることができる。
そんな思いの割合に応じて自分はBLOGを使っているし、それに期待している。言い換えればそれは、さまざまな感情が自分の心を構成する、その割合でもあるかもしれない。
その意味でBLOGは人間関係の縮図とも言える。身の周りで人との関わりに求めていること、人間関係で自分が重きを置いていることの一端を、BLOGを見ながら少しだけ窺い知ることができるかもしれない。
例え醜くても意に沿わなくても自分のありのままの心をそのまま受け留める。素直に振る舞ってそれで足る。そんな人とのつき合いを、いつかしてみたい。
どんなに時間がかかっても、少しずつそんな状態になれればいいなと思う。
【写真はマスキー。生まれながらに哲学者的容貌を備えている。】
こうして幾つも記事を書いてると、どうしても自分のいいところを見せよう、格好いいところを出そうとしてしまうんですよ。それはそれで自然な思いだとは思いますが、でもそんな記事ばかり山になって溜まれば、それを読む人はきっと私のことを誤解してしまうでしょう。
これは「日記」として書いているんだから、そんな自分の一面だけをクローズアップしても自分自身が満足できないんです。
ズボンに入れたはずのワイシャツがはみ出て背中が見えてしまってるように、時にはカッコ悪い自分や情けない自分がいてもいいと思うんです。そんな自分に優しく気づかせてくれたり厳しくモノ申してくれる人たちのお陰で、私も一歩一歩前に進んで行けると思うんですよ。
かっこ悪さを認めることは私にとって、自分の殻を破る糸口になるんです。
ネット越しに見る活字でも、心の断面かもしれませんが、伝わってきます。
今の時代、みんな頭でばかり考えるから、同じような人になってしまうのですよね。
元々の個性は心にこそあると思います。脳は体の他の部分と同じ、器官の一部に過ぎなく、大概の人は似たようなものを持ってます。
知識・情報を集めて受け売りするだけのところに個性は生まれるべくもありませんね。個性的な人は必ずと言っていいほど、自分の感性と思いを大切にしている。
現代の知識至上主義社会では、頭でっかちのもやしのような人ばかり増えてしまいます。その中で例え異端児と言われようと、太く短い根を地面に張って生きたいですね。
こちらこそよろしく。これからも遠慮無くガンガン言ってくださいね。
面と向かって話す時は即興の思考をやりとりするので、ひらめきを熟成させる時間がほとんどありません。まるでピンポンの玉を打ち合ってるようです。
また、手紙だと一往復が長過ぎるので本当に集約した言葉を少ない回数投げ合う。例えていえばドッチボールでしょうか。
そしてBLOGだとその中間の間合いになる。お互いの生活リズムに応じて程よく考える時間がとれるし、やりとりにタイム・ラグが少ないので望む回数だけキャッチボールできる。そう、ゴムボールを気軽に投げ合う感じですね。
まったくネットは、ラジオ、テレビに次ぐ画期的な発明だと思います。そのお陰で私もQurax2さんと話せるんですよ。もしこれが無かったら、私は今頃老人クラブの最若年になっていたところです。
形あるものはわかり易いのでついそれに拘ってしまうけれど、本質はすべて形の無いものなんですよね。
曲者同士、これからもお付き合いのほど、よろしくおねがいします。なんていうと、失礼ですね。
俺は、あぐりこさんのように真剣に色々と考えてませんもん。
人の意見を読んで、「あ、俺の場合はどうなんだろう」と考えるタイプかもしれません。
いつも勉強になります。
ブログデータは、前のOCNの有料サービスの時は半月に1回くらい、現在の無料であるFC2では、3日に1回くらいバックアップをとってます。ブログデータ形式のテキストだけですけどね。画像は手元にオリジナルがあるからいいです。
昔、草の根ネットを主宰していたもので、データ消失の怖さは嫌というほど知ってます。
「炎」をたとえとしてもってくるあたり、しびれました。
もうここで話されているすべてを包括するたとえだと思います、炎。
火の熱。色。取り扱い。畏れと安心。・・・。
こうして触発されて思考が浮游し連想連鎖してゆく。
これですこれです、僕が言いたいこと書きたいことのほとんどは。そして僕は生きてる間はカタチにこだわってゆくと思いますが。僕は、何かを形に残そうとは考えません。
形のないものの入れ物としてのカタチに興味があるだけなのです。
いや、実はあのレスを書いた時は自分のことは思い浮かばず、他の人のBLOGばかり念頭にあったのですけどね。
確かに私好みのテーマや表現は主流から逸脱してるような気がします。その結果、自分のBLOGでも殊に「自分なりの自己主張」をした時には、他の時と比べてあまり反響はありませんね。その意味で私の意見が通らないとも言えるでしょう。
実生活の中では不必要に波風を立てない「なあなあ」の人との関わりが、この田舎に住んでると当たり前みたいなのです。それはそれでいい面があるのですが、一方でたくさんの物事が停滞してしまっている。だからそれだけのつき合いに満足しない私は、時々「出過ぎた自己主張」をしてしまうのですよ。
だけどその中で現実に歩き出すのはほんの僅かです。大概は無視されて終わりますね。
それと同じことを、BLOGでもしてるのかもしれません。
実生活でもBLOGでも、びといんさんのように言ってくれる人は珍しい方に入ります。まあ、そのような人たちに恵まれてるから私のBLOGもコミュニケーションの場として成り立っているのですけどね。その意味で深く関われる人というのは「一般的」から離れているような気がしたのです。
でもこれは、確かに自分の資質に依るところが大きいので、人と真剣に関わるためにはもっと自分を磨かないといけない、ということにもなると思います。
ちょっと考えさせられました。私の見ているBLOG社会は確かに狭いということもあるのでしょうね。
前にJUGEMでありましたが、ネットに蓄積された情報をいうのは、意外と脆い面を持っている。
ネットは情報収集や交換には便利で画期的な道具だと思うんですが、保存性ということからは過信できない。特に大切なデータはCDなりに保存しておかないと、不可避的に無くなることがありますね。特に無料のBLOGの場合、それが起こったとしてもどこにもクレームを付けれないでしょうし、それができたとしても失われた情報は戻らない。
だから私も、自分の記事で残したいものは半年遅れくらいで自分のHPに移し、更にそれをバックアップすることにしました。
面倒くさいんですけどね、またそんなことをしても、失われる時は失われるのですが、でもできるだけのことはしてしまいます。
将来子供ができた時に、残せたらいいなと思ってますよ。
もちろんBLOG全部を残せればベストなんですが、そうすると私の場合、詰まらなくて読んでくれないこともあり得る。
上のQurax2さんへのレスにも書いたんですが、自分の存在の形跡を残そうとするのは止むに止まれぬ衝動のようなものなんでしょうかねぇ。家族のいない私でもそう思ってしまうんですもの。
世に歴史的名作と言われる作品があったとしても、長くても3000年くらいしか残ることはない。ということは、そのくらいのタイム・スパンで、人類の文化や文明の消長が起きているということかもしれません。
自分の死んだ後も残るものを作り出したいという思いはひとつの「欲」なんでしょうか。不老不死の秘薬探しや錬金術で生命を作ろうとした試みのように、果て無いもの、不可能なものを求めて人は凄まじいまでのエネルギーを使います。
そこまで極端ではないにしろ、もっと手の届く範囲で自分の存在の形跡を残したいと言う思いは誰でも持ってるでしょう。
でも思うのですが、かつて自分が多大の努力と精力をかけて作ってきた物が、今は何も残ってないのですよ。僅か10年、20年という経過は身の周りのものを一変させるに充分な時間であり、加えて私自身引越しや環境変化の多い生活をしてきたからなんでしょうね。
画家を目指していた頃の絵や彫刻はひとつも残ってません。僅かにここ10年内に作ったものが幾つかあるだけです。
恐らくは私に限らず世に生きているたくさんの人が自らを燃焼させながら創造の努力をしているのだと思います。
そしてその成果は、結果的に「物」としては残らない。
Qurax2さんの言うように、自分の存在は人をして人を介して、「形の無いもの」に変換され存続していくのでしょう。
その意味からいえば、今の瞬間BLOGを通してコミュニケーションをする。例えレスポンスが帰って来ない場合でも現時点での自分の存在や情報を一方的にも伝達することは、実は大きな意義があるのかもしれません。
それでなければ伝えられないことも確かにあるのでしょうね。炎は保存できないものですね。
>つまり、単に娯楽だけのため、「面白いとこ盗り」をするだけにBLOGを使っている人が多いと思うのです。
ネット社会の際立った特徴なんでしょうね。
それは違うと思いますよ。
そういう指摘をしてしまえば、ブログに限らず、あらゆる創作活動や自己主張の公開を否定しているようなものではないですか?
「一般的」とは、何を基準にした一般的ですか?
面白くないとか離れていくというのは、ただ単純に、その
人それぞれの嗜好の問題であって、ブログに限らず、何かを公開したい、伝えたいと方策を講じても、相手がそれに興味をもたなければ、それまでですよ。
はっきりいえば、「あぐりこさんの意見が通じなかった」の一言です。
それを覚悟しないと。ブログは、それまでの物ですわ。システムのせいにしちゃ可愛そうです。
また一方では、そういう事を面倒だと思って離れるような人は、実生活でもろくでもない人間とも言えるのではないでしょうか。俺はそう思いたいですね。
死んだ後は、ブログは跡形もなく消えてしまうかもしれないけど、実際として、gooとか無料のサービスでブログをやっていれば、「この人は死にましたのでアカウントを削除してください」というまでは、いくらかの期間は残ると思うのです。もちろん、永久的じゃないですし、死んだ翌日にデータ消える可能性も大きい。
まぁ、消滅までの間に、妻子が「死んだお父さんはブログをやっていた。そのデータを自分のパソコンにダウンロードしておこう」とか、考えるかもしれないじゃないですか。
それこそ、「墓」ですよ。
子供じみた希望ですが、そんな意味だったのです。
過大評価もしてないし、多くを望んではいませんよ。
俺は、まだまだ甘いですかねぇ。
からこその残像を記憶として、ミームmemeとして、
伝わり、繋がってゆけばいいな、
と僕は思ってブログにしろ手書きものにしろ、書いています。
僕がこれまでに受け取ってきたように。
きっかけは去年念願のHPを立ち上げたことですよ。
自給生活の紹介と将来「マルダヌキ物語」を掲載することが目的だったんですが、そのうちにBLOGというものを見つけたんです。ちょうどホームページビルダーの日記ツールに不満を感じてたので、これ幸いと日記部分をBLOGに置き換えたんですね。
以来1年近く、多分お互いにいろんなことがあったと思います。
BLOGの面白さは言うまでも無くコメントとトラックバックという相互交流機能にありますが、面白いあまりにそれに意識の比重を置き過ぎると、やがて来る沈滞期に「オレって、何のためにBLOGをやってるんだろう・・・」となるのかもしれませんね。
BLOGでは一般的に真面目なことが受けない。真剣に人と関わろうとしても、面白くないこと、面倒なことが少しでもあると相手は簡単に離れていってしまう。
つまり、単に娯楽だけのため、「面白いとこ盗り」をするだけにBLOGを使っている人が多いと思うのです。
ネット社会の際立った特徴なんでしょうね。
できればそんな移り変わりの激しい外部環境に左右されず、理想を言えば、他力で無い部分で自分なりのBLOGをする目的を意識できればいいんでしょうね。自立した人間が誰から褒められなくても自分の道を歩き続けられるように。
私もそんなことを考えながら、自分のBLOGのあり方を模索してますよ。
これから半年、1年経つうちに、どのような人がどんな風にBLOGを続けているのか、また自分のBLOGの使い方がどう変わっていくのか、楽しみではありますね。
自分が死んだ後まで残すことを考えると、BLOG自体は決していい道具とは言えないと思いますよ。何かの拍子に跡形もなく消えてしまう危険性を持っている。
BLOGに留まらず、何がしかの形(例えば記事の抜粋をCDや印刷物にする)に変えてしまえば、もしかしたら子供や子孫に対して価値ある遺産になるかもしれない。
俺もそうだけど、「流行っているので、ちょっとやってみるか」から始って、そのシステムに面白さを感じてやってきたけど、そろそろ1年経って……ってな人が多いですね。
俺は、ブログを思いっきり日記及び忘備録として使ってます。趣味のガンダム関係のウンチクやプラモデルを自慢したりもしてます。
ブログ以前にも、約6年間、従来Webで「不定期日記」と銘打って、同じような事を続けてましたから、それをブログに移行させただけという感じです。
ブログを初めたのが去年の4月3日。もう1年です。途中、確かに「今日は更新してないな」とか気になったりしたこともありますが、まず飽きるとかノルマとか、更新の義務感や依存症を感じたことはないです。日記ですから(笑)。
ただ、ブログは、乱暴な表現をすれば、掲示板などの機能もくわえられ、「日記」にすぐコメントが入る。関連ある記事にはトラックバックがつく。
「読まれている」という手応えを感じるんです。
そして、従来掲示板のように閉鎖的(俺を知っている人しか楽しめないような、仲良し倶楽部的)にはしたくないとも思ってます。
という事で、毎度のように(笑)、あまり深く考えてないです。
そんな中、ある時、馬場工場長こと、盟友すしバーさんが「ブログには、俺の分身を作っている。もし死んだ場合は、その後しばらくは記録が残るので、それが墓になる」というような事を言っていたんです。
上手い表現だなぁ、そうだ。俺も、無意識のうちに、そんな感じでブログやってるんだと、非情に同感しました。
日記、分身。
だから、気負うことなく、その日その時の気分で書いてます。
もう「日記」としてしっくりしちゃったもんだから、公表できる事は大抵ブログに書いてしまい、PDAに書いている本物の日記は、この1年間は、天気や歩数計のカウント、体重計データしかない日が多いです。もちろん、公表できない事はPDAの方にだけ書いてますけど(笑)。
以上が、俺のブログでの自己分析、みたいなものです。
結局、あまり深く考えてない、です(笑)。
これは確か・・・あん♪さんの24番目のBLOGだったですか・・・
今までHP経由で見てましたが、さっそくお気に入りに追加します。
全部のBLOGをひとつに纏めれば、あっという間にトップ・ランクになるのでは?
上の他にも俳句のBLOGがありますよね。怪人20面相みたいです。
今のところ私はこのBLOGだけで精一杯ですよぉ。自分のHPも年に一度くらいしか更新できてなかったりして・・・
よしっ!これから頑張って、あん♪さんのBLOGを踏破することを目指しますっ!
ランキングを気にしているがありましたよ。
海の写真館。
ここだけは、訪問者数を気にしてます。
じっくり読みたいから、
時間のあるとき限定で繋いでます。
自分のBlogは、う~んと、
最初はどれも興味本位で始めたものばかりです。
テンプレートが気に入ったとか、BlogPetを設置したかったとか、そんな理由から。
今は、なんだか枝分かれしちゃってきたようで。
gooは、当たり障りのない雑談コーナー。
絵日記はほぼ、日記。
こうさぎは、ぼやき。
ガラスのかけら~は、れんちゃんとの遊び場。
で、
実は、当初アップローダー代わりに借りていたんだけど、
ナイショにしていた場所のため、いつしか彼のことを書いてしまったBlogも・・
アドレスは、FC2のメッセージででも・・・。
私の場合は「自己表現」として意識して使ってるので、BLOGでの関わり方が即、実際の自分の人間関係での関わり方と一致する面が出て来る。
でも人によって、BLOGによっては必ずしもそうとも言えないということになりますね。
確かにそうです。私もつい自分中心の狭い世界の中でものを考えがちなので、いつもKenさんのすることや発想することには驚かされてばかりです。
それでも絵や文章と同じように、BLOGというものを通じてその人の人間の一部は必ず出ているのでしょうね。言い換えれば、自分に無いものは表わしようがない。
同時に、BLOGで表れたものは必ずしもその人のすべてではない、ということを念頭に置く必要もあるのでしょう。
私ももっと熱心にネットを使い込めばサイトに応じてカラーを出せるかもしれませんが、今のところBLOGひとつで精一杯ですよ。
KenさんのBLOGの11月の記事、以前にも読んだ記憶があります。
その時も思ったのですが、BLOGの持つ有用性のひとつの方向性を突き詰めた形としての(言い方によれば極論に近い)わかり易い考えだなと思いました。
また確かにBLOG自体元々その方向で作られてるし、BLOG特有の機能をフルに活かしてこそ可能な使い方(その意味では正論ですね)でもありますね。
KenさんのBLOGが異彩を放つのはその先進性にもあるのでしょう。
一方私自身は、今のところ自身の記録80%、コミュニケーション20%でしていこうと思ってます。
自分の人生を自分のために今目に見える形にしてみたい、ということが強い欲求としてあるのですよ。
それが所詮刹那的で表面的なことだというのはわかります。人生のスパンで見れば、口をついた言葉と大して差がないかもしれない。そうと知りつつも僅かな期間でもいいから明らかな形で残してみたいのです。
たくさんの素晴らしい人、貴重なものごとと出会い、やがてそれらが過ぎ去るのを見送り、私は今もひとりで生きている。
そんな私が、今内心から湧き出るようにそんな自己表現をしたいと思っているんですよ。
自分自身をありのままに表現することは、私の場合必ずしも他者から歓迎されることではないようです。
だから書きたいことを思い切って書くためには、ある程度コミュニケーションを期待しない、また場合によってはかえってそれを阻害することを覚悟してしなければならないみたいです。
しかし、それでいてあまりに反響が無いと落ち込むのだから、面白いものですね。
どこかで自分に無理したり誤魔化したりしてるのかもしれません。
ところでこの場で言うのも場違いだとは思うのですが、
「BLOG FRIEND'S」の一連の記事、興味深かったですよ。こういう人が関わる企画はいい方向に進むだろうなと思いました。
でも私はKenさんの記事を通してほんの僅かしかBLOG FRIEND'Sのことを知らないので、あまり意見を公言する気にはなれないのです。
多分たくさんの人が関わったのだと思いますが、それにもかかわらずあの記事にあまりに反響が無いのが不思議な気がします。
BLOGのつき合いをそんな程度に捉えている人が多いのでしょうかね。
http://www.enpitu.ne.jp/usr1/bin/day?id=13001&pg=20031126
これとは180度異なる方向性を持った試みが、昨年5月に開始したgooブログでした。
さらに、半年後の11月に僕はこんな記事を書いています。
http://blog.goo.ne.jp/kanimaster/e/32bb69c5214c455e3fc0d60d818c1b76
ブログに関しては、コミュニケーション・ツールとして、割り切っているわけですが、これはこれで楽しんでやってますよ。
猫や犬にはそれがないんだろうか、なんて思ったりしますよ。
それだけ人間は脳だけじゃなくて心も多層化、複雑化させてるんでしょう。
自分の心の構造を紐解くことは、例えれば何の専門知識も無い私が車のボンネットを開けて、自動車が動く仕組みを解明しようとしてるのにも等しいのでしょうね。
でも矛盾がある、とさえ自覚できれば、矛盾は矛盾であった方がかえって楽しいかもしれない。
私たちはこの世界で最も精緻な感情と記憶蓄積体系を持っている、そのひとつの表れなのでしょうから。
花鳥風月さんの詩にはいつも楽しませてもらってますよ。
先日教えていただいた私の「BLOGをしてる」と「然」(だと思う)との関連性が自分なりによく呑み込めないのでちょっと残念だったりしますが、十人十色の感性やアプローチでものに触れ、それを表現するから面白いのですよね。
私はBLOGでも個性のあるものに惹かれますね。
人の記憶がその人自身にしか価値を持たないように、「記録」というものも、それを認める本人にのみ本質的な価値があるものなのでしょう。
内面から湧き起こる表現の衝動、それは詩や散文、絵画、記録などいろいろな形をとって現れますが、その根幹の目的は「自分のため」なのでしょうね。
(もちろん営利や業務、商業目的で書く場合は除きます。)
だから純粋な創作品(そういうものがあればの話ですが)は、例えBLOGで公開してもなんらレスポンスを求めないこともあり得るでしょう。その場合は一方通行の伝達媒体としてBLOGを使ってるということになりますか。
私自身この1年近くBLOGを書いていて思うのですが、自分の深い部分を表わせたと思う記事を書いた時は、BLOGのことなど念頭から離れてる時だったりします。
つまりアクセス数を上げたいとかコメントを欲しいとかいうことと離れた心の状態にいる時に、思いが溢れ出してすらすらと形になる。
もっとも、それが大衆受けするとは限りません。だけど例えレスポンスは少なくても確実に人の心に響くのは、そんな作品のような気がします。
最近幾つか現代小説を読んだのですが、有名な作家の作品には確かに心打たれるものも幾つかありますが、一方で面白くはあるけれど内容の無い、読んで娯楽にはなるけれど心の奥には届かないものが多いですね。
それが文筆を職業をする人の行き着くところならば、自分はこれから先何かを書き続けるにせよ、あくまでアマチュア作家を突き詰める方がいいような気がします。
南無さんの言葉を借りれば、「遮断タイプ」で書いてるくせにランキングをかなり気にしてる。いただくコメントに時に舞い上がって返事を書いて、で自意識過剰だった・・・と後悔したりする。矛盾だらけのしょーもない人です(笑)
やっぱりアホやった~という事実と、でもこんなBlogを毎日誰かが見に来てくれるという事実、その二つのバランスをとりながら、今ここにある世界の勉強をさせてもらってます。
私にとっては良い経験でした。
無料ブログが多いですから、使い分けている方も多いと思います。
つまり言葉に語弊がありますが「迎合タイプ」と「遮断タイプ」というふうに。
先日ブログの調査をある記事で読んでいたのですが多くの方が二つ以上のブログを持っているようです。なにか人間の二面性を表しているような気がしますけど、これについて私は肯定も否定も出来ません。
私の場合のブログは「goo」はあくの強い迎合型であり、「はてな」はコミュニケーションに対して一切の期待をしない「遮断型」と云う決めつけで運営しています。こんなに簡単に分けれるのか、という否定的になりがちな気持ちもあるのですが、まだブログは発展途上だと思うんですね。ですからいろんな事を試してみたくなるんですね。でもなかなか人間なんて上手い具合に使い分けが出来ないようになっていてバランスを取るのが難しくできているような気もします。
またこれとは別に海外のブログサイト(blogger.com-Google系)にも英文でブログを書いています。もっともアタマの運動の為にですけどもね。しかも更新はほとんど無い。コメントも付かない(汗