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猫たちが食事をしてる。
例えばそのうちの、クマなどが大皿を一人占めしようとしてウウッ・と唸りながら他の猫を追い払ってしまう時がある。
そんな時、私は彼を叱って玄関から追い出す。戸外ではどうあれ、猫同士の力関係がこの場にまで及ぼうものなら、立場や力の弱い者の居場所がなくなってしまうからだ。
玄関から中、この食事の場が彼らにとって究極の「わが家」なのであり、仲がよかろうが悪かろうが私たちは家族だ。弱いものの最期に頼れる寝床と食べ物は、どんなことをしても守らなければならない。
そんなことを何度も繰り返すうちに、どの猫もやがてこれをしてはダメなんだと思うようになる。
こんな感じで、捨て猫迷い猫雑居世帯のわが家の秩序は保たれている。
その代わり、外ではちょっとのことは多めに見るし、もとより私の目の届かないところでは彼らはまったくの自由だ。そして今朝餌ヌキになったクマにも、可哀想だから後で少しだけキャットフードをあげた。
厳しさはそれに勝る優しさを基礎にしてこそ、活きるものだと思う。
☆ ★ ☆
「瞋り」(いかり=以後わかりやすく「いかり」と書く)というものは、まま抑えられない。猫や犬たちが自分の意のままに動いてくれない時などに、ついカッとなって必要以上に辛く当たってしまう。
それが相手が人間の場合には必ずと言っていいほどトラブルになる。なにしろ猫や犬のように決して黙ってはいないし立場上の差もそれほど開いてはいない。
更にいかってる時というものは、無理して表面に出すまいとしてもどうしても所作の端々に出てきてしまうものである。またその場では無理して抑えたとしても、そのエネルギーは必ずどこかにはけ口を探すことになる。
だから本来からすれば「いからない」のがいいのだけれど、これは感情、というよりかある意味人間の本能的な性質ではなかろうか。この世に愚かでない人がいないように、いからない人など一人としていない。
私も相手が猫・人間を問わず、今まで随所でいかりに任せてものごとに当たってしまったお陰で、随分と踏み外した生を送ってきてしまったような気がする。
人間を動かすのは心である。決して脳ではないし、その場合の「いかり」は心に直結した、喜怒哀楽を越えた抗いがたい存在だ。自分の意のままにならないことに対しての「いかり」。総体的に言えばそれは、個々人が持てる能力以上に人生を左右する重要なファクターだと思う。
そんな私が、いかりながらも時々そんな自分をなだめる際に思うことがある。
「でも、オレもこんなに恵まれているからなあ・・・」。
食べては美味しいと思う。仕事をしては、ああ今日もこんなに働けたと思う。朝起きれば幸せに眠れたと思う。その思いがこうして「生きれている」ことを恵みと感じ、一日一日を前向きに暮らせる原動力になっている。
だから、やっぱりお前にも少し餌をやろう。あいつだってあれで精一杯生きてるんだろう。こんなに自分はたくさんのものを頂いてるんだから、あの人にもほんの少しだけど分けてあげよう。・・・
いかりに拮抗するものは、そんな風に自分が恵まれてるという実感じゃないだろうか。
もちろんそれはどんな環境にあるか、どれほどのモノを持ってるのかというものに裏付けられる性質のものではない。生きている限りどの境遇の人でも感じられる「認識」の問題だ。
そして逆に言えば、いかりは「自分が世界から愛されていない」と思う土壌の上で抑えられないほどに成長してしまう。
実のところそんな風に思いつつも、日常は私にとっても後悔や反省の繰り返しだ。ああ、またやってしまった。でもそんな内省を繰り返すうちに、逆に現実を通して自分のことが見えてきたりもする。
ではその「恵まれてる」状態に気づくためにはどうしたらいいのだろう。
これは私ひとりの一面的な見解だしいささか体系性に欠けると思うのだけれど、多分「手放すこと」がある意味有効な手段なのではないだろうか。
日常当たり前と思っているたくさんのこと・・・実はそのどれひとつとして、当たり前ということはない。それはある状況ある条件が揃った時に初めて手に入れられる特殊なものであり、いかに居心地よかろうと個人的に大切なものだろうと、それらは決してあって当たり前のことではない。
私もある時期職も経済基盤も手放して自分ただひとりになった時に、初めてその「当たり前の嘘」に気づいた。
どんな状態でもいいから、家があることはとても嬉しい。食べれるものがあることは幸せなことだ。またこのように何も持っていない者に対しては、付き合う相手はその本性を明らかにしてくる。つまりこの世に自分を支えてくれる人がいるならば、それは実は何にも替えられない宝なのである。
今振り返っても、あの頃よくあの状況を乗り越えれたなあと思う。そんな経験が今の私のどこかの土台石になっている。
こうして在ることがどれだけ恵まれてるかに気づいた時に、人は寛容になる。
そのために今持っているものを自ら手放す人もいれば、意図せずしてそのような状況に身を置いてしまう人もいる。つまりそれは無意識に気づきの道を選んでいるのである。
また現実にたくさんのものを失わなくてもそれに気づく人も中にはいる。でもそれは精神的に既に手放しているのかもしれない。
両手にあり余るものをがっしりと握り締めて、どうしてこんなに私は不幸なんだ、自分がこんななのはいったい誰が悪いんだと言う人は、まるで袋小路に迷い込んだ鶏のようだ。まだ足りないまだ足りないと地団駄踏んで叫んでるに過ぎない。
人も状況も、どうしても変わっていってしまうものだ。だからいっそのこと手放してしまえば、自由になってその分とらわれ無く世界を見ることができるようになる気がする。
また、誰だってそれでも充分生きれるのだと思う。
【写真は昔のクマ。
「ボクは悪いことなんてしません!」って顔してる。】
例えばそのうちの、クマなどが大皿を一人占めしようとしてウウッ・と唸りながら他の猫を追い払ってしまう時がある。
そんな時、私は彼を叱って玄関から追い出す。戸外ではどうあれ、猫同士の力関係がこの場にまで及ぼうものなら、立場や力の弱い者の居場所がなくなってしまうからだ。
玄関から中、この食事の場が彼らにとって究極の「わが家」なのであり、仲がよかろうが悪かろうが私たちは家族だ。弱いものの最期に頼れる寝床と食べ物は、どんなことをしても守らなければならない。
そんなことを何度も繰り返すうちに、どの猫もやがてこれをしてはダメなんだと思うようになる。
こんな感じで、捨て猫迷い猫雑居世帯のわが家の秩序は保たれている。
その代わり、外ではちょっとのことは多めに見るし、もとより私の目の届かないところでは彼らはまったくの自由だ。そして今朝餌ヌキになったクマにも、可哀想だから後で少しだけキャットフードをあげた。
厳しさはそれに勝る優しさを基礎にしてこそ、活きるものだと思う。
☆ ★ ☆
「瞋り」(いかり=以後わかりやすく「いかり」と書く)というものは、まま抑えられない。猫や犬たちが自分の意のままに動いてくれない時などに、ついカッとなって必要以上に辛く当たってしまう。
それが相手が人間の場合には必ずと言っていいほどトラブルになる。なにしろ猫や犬のように決して黙ってはいないし立場上の差もそれほど開いてはいない。
更にいかってる時というものは、無理して表面に出すまいとしてもどうしても所作の端々に出てきてしまうものである。またその場では無理して抑えたとしても、そのエネルギーは必ずどこかにはけ口を探すことになる。
だから本来からすれば「いからない」のがいいのだけれど、これは感情、というよりかある意味人間の本能的な性質ではなかろうか。この世に愚かでない人がいないように、いからない人など一人としていない。
私も相手が猫・人間を問わず、今まで随所でいかりに任せてものごとに当たってしまったお陰で、随分と踏み外した生を送ってきてしまったような気がする。
人間を動かすのは心である。決して脳ではないし、その場合の「いかり」は心に直結した、喜怒哀楽を越えた抗いがたい存在だ。自分の意のままにならないことに対しての「いかり」。総体的に言えばそれは、個々人が持てる能力以上に人生を左右する重要なファクターだと思う。
そんな私が、いかりながらも時々そんな自分をなだめる際に思うことがある。
「でも、オレもこんなに恵まれているからなあ・・・」。
食べては美味しいと思う。仕事をしては、ああ今日もこんなに働けたと思う。朝起きれば幸せに眠れたと思う。その思いがこうして「生きれている」ことを恵みと感じ、一日一日を前向きに暮らせる原動力になっている。
だから、やっぱりお前にも少し餌をやろう。あいつだってあれで精一杯生きてるんだろう。こんなに自分はたくさんのものを頂いてるんだから、あの人にもほんの少しだけど分けてあげよう。・・・
いかりに拮抗するものは、そんな風に自分が恵まれてるという実感じゃないだろうか。
もちろんそれはどんな環境にあるか、どれほどのモノを持ってるのかというものに裏付けられる性質のものではない。生きている限りどの境遇の人でも感じられる「認識」の問題だ。
そして逆に言えば、いかりは「自分が世界から愛されていない」と思う土壌の上で抑えられないほどに成長してしまう。
実のところそんな風に思いつつも、日常は私にとっても後悔や反省の繰り返しだ。ああ、またやってしまった。でもそんな内省を繰り返すうちに、逆に現実を通して自分のことが見えてきたりもする。
ではその「恵まれてる」状態に気づくためにはどうしたらいいのだろう。
これは私ひとりの一面的な見解だしいささか体系性に欠けると思うのだけれど、多分「手放すこと」がある意味有効な手段なのではないだろうか。
日常当たり前と思っているたくさんのこと・・・実はそのどれひとつとして、当たり前ということはない。それはある状況ある条件が揃った時に初めて手に入れられる特殊なものであり、いかに居心地よかろうと個人的に大切なものだろうと、それらは決してあって当たり前のことではない。
私もある時期職も経済基盤も手放して自分ただひとりになった時に、初めてその「当たり前の嘘」に気づいた。
どんな状態でもいいから、家があることはとても嬉しい。食べれるものがあることは幸せなことだ。またこのように何も持っていない者に対しては、付き合う相手はその本性を明らかにしてくる。つまりこの世に自分を支えてくれる人がいるならば、それは実は何にも替えられない宝なのである。
今振り返っても、あの頃よくあの状況を乗り越えれたなあと思う。そんな経験が今の私のどこかの土台石になっている。
こうして在ることがどれだけ恵まれてるかに気づいた時に、人は寛容になる。
そのために今持っているものを自ら手放す人もいれば、意図せずしてそのような状況に身を置いてしまう人もいる。つまりそれは無意識に気づきの道を選んでいるのである。
また現実にたくさんのものを失わなくてもそれに気づく人も中にはいる。でもそれは精神的に既に手放しているのかもしれない。
両手にあり余るものをがっしりと握り締めて、どうしてこんなに私は不幸なんだ、自分がこんななのはいったい誰が悪いんだと言う人は、まるで袋小路に迷い込んだ鶏のようだ。まだ足りないまだ足りないと地団駄踏んで叫んでるに過ぎない。
人も状況も、どうしても変わっていってしまうものだ。だからいっそのこと手放してしまえば、自由になってその分とらわれ無く世界を見ることができるようになる気がする。
また、誰だってそれでも充分生きれるのだと思う。
【写真は昔のクマ。
「ボクは悪いことなんてしません!」って顔してる。】
アグリコさんの 記事読んで 少し 心が ほぐされた 感じです。
また メールしましたので お願いします。
しかしこの瞋りは、考えるにつけ本当に恐るべきものですね。まず人は誰でもこの「瞋る」という性質を持っています。そしてこの瞋りは意志の強さなどでは基本的に抑えることができません。一時的に封じたとしても、別のはけ口を見つけて発散してしまう。
なるほど、釈迦は鋭い洞察をしたのだなと感心しきりです。この「瞋り」という言葉を知ることによって、私の意識も大きく拓けました。
人である限り瞋りを無くすことはできません。できるのはそれをコントロールできるようになるだけなのだと思います。
「あ、今自分は瞋ってるな」と認識して更にそんな自分を愛することができたなら、その瞋りは自分自身の愛の中に溶け込ませることができるかもしれません。
瞋りにコントロールされてばかりの自分から、なんとか脱皮したいものですね。