アグリコ日記

岩手の山里で自給自足的な暮らしをしています。

「働く」コミュニケーション

2006-09-15 20:31:53 | 思い
猫家に来た人はみな働かされる。
特にこれから農業をしよう、なんていう人は尚更である。・・・

わが家には意外に来客が多い。
ホコリたかき男の一人所帯なのでなにも面白いことなどなかろうにと思うけれど、時々「自給自足について教えてくれ」「雑穀について」「ソバの育て方」または「これから田舎で農業したいんだけど」「鶏の捌き方を教えて」などという人たちが突然連絡をくれたりする。
まったく何を介して私のことを知ったのか不思議だ。私は格別農業で儲けてるわけでも優れた農業技術者でもなく、単に世間から遠く隔たった場所で家計を気にしながら細々と生きている貧乏な百姓である。特に目立った事業や誇れる活動をしてるわけでは決してない。
訊いてみると、知人からだったり市役所や農業委員会、または遠い昔にお世話になった誰かの紹介だったりする。本当に人の縁というのは思いがけないものだ。

そこで「ぜひお宅にお伺いしたい!」と言われるわけだけれど、そんな時に私は、「来るのはいいですが、今ちょっと忙しいものだから少し手伝ってもらえませんか?」と答えることにしている。
確かに百姓は年中することに困らないし実際いつも何かに追われてることが多い。時には本当に忙しかったりもする。
でもこの問いかけは、実は方便なのである。私なりに初対面の人をよく知ろうとする方法論に基づいたものだ。

いろんな人と付き合ったり来客を迎えたりするうちに、ある時気づくことがあった。人をよく知るためには一緒に働くにしくはない。なんとなれば人は決して言葉だけでコミュニケーションするのではないのだ。来た人とお茶を飲みながら話をするだけでは見えないことが、そこから見えてくる。

これは私が昔、脱サラして農業の世界に飛び込んだ経験にも裏打ちされていることだ。
当時私は35歳。お金も無ければ技術も経験も無い、人のコネもバックアップしてくれる知人も家族ももちろんいなかった。そんな私が一人見知らぬ農村にポンと飛び込んだ時に、当然のことながら周囲の人々は皆、異邦人を見る疑いの目と好奇の視線を私に浴びせかけた。
また私自身、一日も早く農業技術を身につけ家や土地を手に入れて就農したいと思っていた。だからとりあえず来る仕事、舞い込む仕事は拒まずに何に対しても精一杯働くことにした。農業は理論よりも実戦の部分が遥かに大きい。働くことは即最高の学びだったし、また働くことを通して周囲の農業者は私を見ようとしたのだ。

それからまた、初めての土地で思いがけず何人もの人が私を扶けようとしてくれたことにも関係がある。人の情に胸打たれるそんな時、私はその恩や厚意の幾ばくなりともなんとかその人に返そうとした。何も持ってない私のとった行動が、つまりその人の家に押しかけていって仕事を手伝うことである。ほんの一時間のこともあれば何日にもまたがることもある。
しかし受けたことに対するお礼だと思って無給で働くその思いと行動が、実は嬉しいことに更に私自身に恵みとして還ってくることになった。農家は忍耐の要る仕事や辛い仕事をたくさん抱えている。そんな仕事を進んでやろうとする一介の若者に、彼らは自分の持てる知識や経験を包み隠さず伝えようとしてくれたのである。またそれが当時の私が一番欲するものでもあった。

そのような体験から、初対面の人が互いに知り合うのに「ともに働きながら」できることはとても大きいと思っていた。そのことと春から秋の繁忙期にわが家を訪れる突然の来客、それもほとんどは農業や自給自足、就農についてのアドバイスを求める人たちへの対応と結び付くのにさして時間はかからない。これは限られた時間により深く人と接するための、私なりのひとつのコツだと思っている。
しかしともに働くといっても、もちろんべったりと働かせるわけじゃない。あくまでコミュニケーションが目的だからせいぜい30分から1時間、しかも双方に会話ができる距離で行える軽作業だ。働く、というよりは手を動かしながら会話する、と言った方が近い。そうして草や野菜を前に語り合ううちに、私やその人が今まで積み上げてきたことや農的なものに抱く思いなどが自然とわかり合えるものだ。農業や自給自足というものは頭で語れるものではない。

「お伺いしたいのですが・・・」とした時に「仕事を手伝ってくれるなら・・・」と言われたならば、あなたはどういう対応をするだろうか。
まずほとんどの人が「はい、それで結構です」と答える。ほとんどというより、今までそう答えなかった人はいない。皆さすがに農業のなにがしかを目指しているのである。

しかし実際にわが家に来て見せる対応となると、各人さまざまだ。
例えば私は「一緒に働く」という行為を、もちろん歳や男女の別に関わりなく要求する。例え親と子ほど歳が離れていても関係ない。異業種に参入しようとするのに年功序列の意識はなんの意味も持ちえないのである。
しかし、お客に対して働かせるとは何事か。または働いてやるんだから何か見返りがあって当然だ、またはタダ働きほど無意味なものはない、などと心の裡に思っている人もいる。当人はそれとは明白に思っていなかったりするけれど、そんなことは一緒に働いているとそこはかとなくわかるものである。その意味で私も伊達に社会生活をしてきたのではない。

そういう人や、明らかに働けない人、農作業に不向きな人などは確かにいて、そのような人たちに無理に働いてもらおうとは思わない。元々働かせることが目的ではないのだから。ある程度目的が果たせた時点で「ともに働く」意義はなくなるのである。
だからそんな場合には庭のミントを摘んでハーブティーでも淹れながら、一般的な会話に切り替えたりする。もちろん私なりに知っていることはすべて伝えるし何事も教えるのにやぶさかではないのだけれど、そんな人は年齢に関わらず、正直言ってこの世界ではうまくやっていけないだろうなと思う。

その反面、とても気持ちよく働いてくれる人もいる。そんな人にはこちらが教わることも多い。なるほど、こういう風に働くとこんな印象を受けるのか。そんな人には私だって何事も惜しげなく援助しようと思うし、このような人は世界中どこに行ったってやっていけると思う。かつて私が働きながらたくさんの恩恵を受けたように、この人もまた、たくさんの人から多くの厚意を受けるだろう。天から愛されるというのはこんなことを言うのかもしれない。

働く。とりわけ無償で働けるかどうか、その時に自分はどのように働くのかには、私たち自身の人間の根底的な部分が表れると思う。
それは畢竟、どれだけ自分は周囲に感謝してるか、に依っているのではないだろうか。



【写真はわが家の狛猫(こまねこ)、アポロ。
こうしていつも玄関の脇で見張ってくれてます。

・・・・・・でも郵便屋さんに怖れられたりもしています。】




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