阿智胡地亭のShot日乗

日乗は日記。日々の生活と世間の事象記録や写真や書き物などなんでも。
1942年生まれが江戸川区から。

上野国立博物館の表慶館で「横尾忠則 寒山百得」展 をたっぷり楽しんだ。  その2

2023年11月20日 | 音楽・絵画・映画・文芸

NHK「横尾忠則 87歳 絵は“飽きた”けれど・・・描くワケ」⇒こちら

東京国立博物館「横尾忠則 寒山百得」展

 

 

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日本語に潜む性差別㊦  「命令形なし 女ことばの制約」   平野卿子    東京新聞

2023年11月20日 | SNS・既存メディアからの引用記事

2023年11月19日付東京新聞朝刊

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11月19日に目に留まったSNS・メディアの記事

2023年11月20日 | SNS・既存メディアからの引用記事

いずれも画像をクリックすると本文全文に飛びます。

 

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東日本大震災が起こった年の [ 2011年10月20日(水)の阿智胡地亭の非日乗ブログ ] から

2023年11月20日 | 東日本大震災ブログ
2011年10月20日(木)
 
6・11脱原発デモ、48%が初参加
 

2011年10月19日12時2分 asahi.com

6・11脱原発デモ、48%が初参加 ネット・口コミ7割

都留文科大准教授 平林祐子

3・11以降、脱原発を求める運動は全く新しい局面に入っている。脱原発関係のイベントは4月3日から9月末までの間に、全国で1195件。

そのうち216件はデモだ(ウェブサイト「脱原発系イベントカレンダー」より)。4月10日の高円寺デモに1万5千人、6月11日は全国で合わせて7万9千人、

そして9月19日の明治公園に6万人。 デモで歩いているのは誰なのか。半世紀近くも「少数派」であり続けた、今までの反原発運動と何が違うのか。

デモは本当に「推進派にとっては痛くもかゆくもない」ものなのか。

 3・11から3カ月後の6・11、6カ月後の9・11に東京都心で行われた複数の大規模デモ(パレード)の参加者を対象に調査を行った

(両日とも、3カ所のデモ前の集会における面接調査。回収数は6月は467、9月は449)。三つの特徴を挙げよう。

    ◇

 第一に、デモ参加者の多くは、これまで運動に参加したことがなかった人びとである。デモ参加は初めてという人が、6・11には実に48%、9月でも35%を占めた。

初参加者は4割から5割が30代以下とデモ経験者に比べて若い。

 第二に、利用されているメディアがまさに今日的である。デモを知った情報源のトップ3は、インターネット、ツイッター、知人からの口コミで、これらで約7割を占め、

チラシや新聞・TV等の伝統的メディアは合わせてわずか5%程度にとどまる。

 第三に、3・11以降の脱原発運動は社会の多様な層に広がっている。6月、9月とも、都内の三つのデモ(パレード)について調査したが、

参加者の性別や年齢層、運動参加経験等は互いに大きく異なった。既存の反原発運動が動員力を発揮するいっぽう、新しい人々がそれぞれの個性を活(い)かして街頭行動を展開している。

 新たな参加者がデモの主催までやれてしまう背景には、いくつかの要因がある。2000年代の反貧困、イラク反戦等の運動の積み上げ。

デモの音楽やラップ、持ち物、衣装、ウェブサイトまで「表現としてのデモ」という運動文化の浸透。原発批判派の専門家たちを擁するNPO・NGOの定着などだ。

    ◇

 これらすべてを支えているのが、新しいメディアの発達である。ネットを介した情報流通の速さと容易さが、既存組織なしで数百人から数万人の参加者を集めることを可能にした。

そして、デモの中継、ツイッターやブログでの発信など、マスメディアに代わって自分たちがメディアの役割を担う「メディア・アクティビズム」が、運動の非常に重要な一部になっている。

 90年代頃(ごろ)から、脱原発運動の目標や役割は政策策定の実務への実質的参加に一定程度シフトした。しかしいまの街頭行動はそれとは違う。

3・11が、どういう社会を選ぶのか、という最も根幹的な問いを改めて私たちに突きつけたからだ。

今回だけは自分でその問いに答えたいと考えた人々の、最新の技術や文化に支えられた楽しくも真摯(しんし)な意思表明。それが「原発いらない」の一点に絞った街頭行動である。

 7カ月経ったいま、本当の社会的選択を行う回路と感性をこの社会が持てるかどうかが問われている。(都留文科大准教授〈社会学〉)

 ひらばやし・ゆうこ 1964年東京都生まれ。東京都立大大学院社会科学専攻科博士課程単位取得退学。富士常葉大助教授を経て2006年から現職。

☆じっとしていると、別の3.11がこれから近畿で起こることをそのまま認めることになる。☆

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国土交通省関東地方整備局は“関東軍”であってはならない
 

☆軍の出先機関の私利私欲が結果として日本国民を戦争に引きずりこんだ関東軍の行い。国土交通省関東地方整備局の作戦行動を見ていると私利私欲という観点では関東軍に通底している。☆

八ッ場ダム建設 「公開の場で再検証を」 学者50人、首相に声明文
2011年10月19日 09時48分 東京新聞

 八ッ場(やんば)ダム(群馬県長野原町)を建設することがコスト面などで最良とした国土交通省関東地方整備局の検証結果は科学性や客観性に欠けているとして、

「検証の抜本的なやり直し」を求める声明文を、五十人を超える学者が連名で二十六日に野田佳彦首相や前田武志国交相に提出する。 (伊藤弘喜)

 呼び掛け人は、京都大の今本博健名誉教授(河川工学)や東京大の宇沢弘文名誉教授(経済学)、群馬大の西薗大実教授(地球環境学)ら十一人。

声明に賛同する学者は、専門分野を問わず広がりを見せており、四十人を超える見込み。二十六日にリストを公表する。

 声明は、水没予定地の住民が移転する代替地の地滑りの危険性や、八ッ場ダムの利水・治水面の必要性をあらためて公開の場で検証することを要求。

東日本大震災並みの大災害や浅間山の噴火の可能性を踏まえることも求める。

 今本名誉教授は「従来の河川行政に批判的な専門家も入った第三者機関で公開の場で再検証すべきだ」と話している。

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新聞はただ垂れ流しで記事をだすだけ? 原発輸出継続
 

☆枝野という人の脳を開いて正常かどうか確認したいくらいだ。国内では脱原発を言い、海外には原発を売ると言う。

大新聞社の人間はこのダブルスタンダードあるいは二枚舌を不思議に思わないのだろうか。

何のコメントもつけずにこんな記事を右から左へタレながすのは、従来通りのただの瓦版屋ということだ。☆

IEA:枝野経産相、原発輸出継続を表明 閣僚理事会開幕2011年10月19日 0時23分 毎日jp

 【パリ宮川裕章】世界の主要な石油消費国で構成する国際エネルギー機関(IEA)の閣僚理事会が18日、パリで2日間の日程で開幕した。

東京電力福島第1原発事故や中東の政情混乱を受け、世界のエネルギーの安全保障体制の構築に向けて、緊急時の石油の備蓄や放出体制の拡充などを議論する。

 日本から出席した枝野幸男経済産業相は福島原発事故を踏まえ、「原子力の安全性を世界最高水準まで高めるとともに、事故の経験と教訓を世界と共有し、

国際的な原子力の安全向上に貢献する」と述べ、原発輸出を継続する姿勢を表明。また、日本のエネルギー政策については「ゼロベースで見直しを進める」と

再生可能エネルギーの拡充などを図る方針を説明した。

 閣僚理事会は2年ごとに開催され、今回は日米欧など加盟28カ国に加え、中国、インド、ロシアなど新興8カ国も参加した

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小出裕章はいかにして小出裕章になったか その背骨
 

(2011年7月23日、堅田九条の会例会・大津市での「原爆・原発と憲法九条」についての講演より)
「原爆も原発も同じ!憲法九条違反だ! 小出裕章」

1発の原爆で町がなくなった

つい何十年か前まで世界は悲惨な戦争をずっと続けていた。ナチスドイツという国がユダヤ人を中心に何百万人も虐殺したという歴史がある。

ナチスはビルケナウ強制収容所にたくさんの人を収容し、虐殺した。そのことを戦後のドイツはずっと背負って自分たちがやったことを問い続けている。

1985年に当時のヴァイツゼッカー大統領が、ドイツの国会で「荒れ野の40年」という有名な演説を行った。彼が何を言いたかったかというと、「歴史に目を閉ざしてはいけない。

自分たちがやってきた過去をしっかりと見つめておかないと、現在をまた間違える、未来のことをまた間違える」ということ。

東京大空襲と原爆

東京は1945年3月10日に東京大空襲という空前絶後の空襲を受け、一面焼け野原になった。B29という当時の最大の爆撃機が344機東京上空に飛来し、雨あられと爆弾を落としていった。

344機ということは、1機のB29 が滑走路を飛び出し、1分後にそれを追いかけるように飛んで、なんと6時間もかかる。とてつもない数のB29が飛来し、東京は焼き尽くされた。


私は東京生まれ、東京育ち。上野と浅草の真ん中当たりに私は生まれ育った。東京の市街地の40%が焼き尽くされた。

焼け死んだのは10人ではない、100人でもない、1000人でもない、1万人でもない、10万人という数の人が焼き殺された。それでも日本は戦争をやめなかった。

天皇を守らなければいけない、国体を守らなければいけないと戦争を続けた。一方、米国のほうは、なんとかして日本をやっつけなければいけないとして、原爆を作ろうとしていた。


トリニティという名前のついた原爆が1945年7月16日の朝、米国のアナマホルドというところで爆発した。

何でその日に爆発したのかというと、日本に勧告会議をするためのポツダム会談が開かれる日にあわせて米国は爆発させた。

彼らは「俺たちは勝った、これでこの世界は俺たちのものだ」ということを知った。しばらくして、米国は日本に原爆を落とした。

広島・長崎への原爆投下

広島に落とされた原爆のきのこ雲の下には広島の町がある。何のへんてつもない、日本家屋が立ち並び、路面電車が走っていて、人々が生活をしている。

東京もそうだったが、広島の町もそうだった。原爆が落とされて、町自体が全てなくなってしまった。爆心地からすこし離れたみゆき橋に、幸か不幸か即死はしなかった人々が、

生き延び、逃げ惑って集まってきた。この人たちも被曝したから、かなりの人はごく短期間に亡くなった。生き延びた人も被曝者というレッテルを貼られ、

一生背負って生きなければいけなかった。3日後に、今度は長崎に原爆が落とされた。長崎の町も家が密集していた。人々は爆撃を受けて、真っ黒焦げになった。

東京大空襲で344機のB29が落とした爆弾の総量が1685トン。当時、町ひとつが無くなる恐れがあるというのが1トン爆弾。それに換算すると、約1700発落とされた。

東京の下町がなくなってしまうくらいの量だった。広島は16キロトン、1万6千トン。東京一面を焼け野原にした東京大空襲の10倍という爆発力を持ったものが原爆だった。

長崎の原爆はもっと大きかった。たった一発で21キロトン。東京に飛んできたB29は344機。広島・長崎に飛んできたB29は3機。落とした1発の爆弾で町がなくなった

火薬と核分裂の原理

灯油は、1kg燃やすと1万キロカロリーの熱が出る。火薬の熱は1000キロカロリー。灯油の10分の1しか火薬はエネルギーがでない。ものが燃えるには酸素が必要。

例えばコップの中のろうそくに火をつければ燃えるが、ガラスをかぶせてコップの中にある酸素が無くなればそれで終わり。燃えるということは、灰、二酸化炭素、熱が出てくるということ。

火薬は、酸素が無ければ燃えないということでは困る。火をつけたら、全部燃えなければ爆発しないので、酸素が無くても燃える物質を探し続け、ようやく見つけ出したのが火薬。

非常に効率の悪いものしか見つけることが出来なかった。火薬は酸素を必要とせず燃えるが、その性質を獲得するために、発生するエネルギーが大幅に少なくなってしまった。

原爆に使ったウランの核分裂はどうか。ウランは広島に落とされた原爆の原料。原子核というものがあり、中性子がある。中性子は酸素を必要としない。

これがぶつかると、この原子核が核分裂をする。そして、このときに中性子が飛び出していく。この時に重要なことは、はじめにぶつかったのは1個だが、分裂後は2個から3個に増えている。

つまり一番最初に「火(=中性子をぶつける)」さえつけてしまえば、火種は山ほど出てくる。これを次のウランまたはプルトニウムの原子核にぶつければ、次々と核分裂し、

あっという間に全てが燃え、爆弾になる。

核分裂反応は、はじめから爆弾の原理    広島型原爆の原理

核分裂反応というのは、はじめから爆弾の原理である。火をつけさえすれば、一気に爆発するといういう性質を持ったものだ。

原子力の平和利用はいいと言う人たちは、核分裂反応が原爆という形で利用されたのが不幸だというが、そうではない。

不幸でもなんでもなく、核分裂反応がもっている性質が一番開花して爆弾になっている。核反応が爆弾向きなのだ。

広島に落とされた原爆はウランだった。長崎に落とされたのはプルトニウム。ウランは地球上どこにでもある。ウランには2種類の組成がある。

この中の核分裂をする、燃えるウランというのは235番という番号がついているが、全体の0.7%しかない。99.3%は燃えない238番ウランだ。

原爆にもならなければ、原子力発電の燃料にもならない。つまり、折角ウランを地底から取ってきても、役に立つ成分は0.7%しかない。

これに火をつけようとしたらなかなかつかない。「さて困った、どうしようか?」と考えた。

「原爆を作るため、取ってきたウランの中で0.7%しかない燃えるウランをなんとかして集めよう」ということを考えた。

しかし、燃えるウランも燃えないウランも同じ元素なので、ケミカルで分けることはとてつもなく難しい。235という番号と238という番号は、重さをあらわしているが、

ほんのわずかしか重さの違いがない。その重さの違いを捉えて同位体分離という特殊なことを行い、ようやく広島原発を作った。

プルトニウムを使った原爆

でも、「やはりこれは大変だな」ということで別のことを米国は考え出した。プルトニウムという物質で原爆を作ろうとした。

しかし、プルトニウムという物質はこの世界には一つも無い物質。これは人工的に作るしかない。まず燃えるウランに中性子がぶつかると、核分裂という反応が起こり、

核分裂生成物という死の灰と膨大なエネルギーと2-3個の中性子が出てくる。これが燃えるウランの反応。では、燃えないウラン、238番については、一体どうなるのか。

中性子がぶつかると、核分裂はしないが、補核という反応をしてウラン239という原子核になる。このウラン239は放射能を持っていて、

ベータ線を出しながらネプツニウム239という放射能に変わる。このネプツニウム239も放射線を持っていてベータ線を出しながらプルトニウム239に変わる

ウラン239に中性子をぶつけさえすれば、プルトニウム239というものが自然に出来てくるということを物理学者が見つけ米軍に教えた。

米軍は「それならウランの中に0.7%しかない燃えるウランで原爆を作るよりは、99.3%を占めている燃えないウランをプルトニウムに変えて原爆にしたほうがよさそうだ。」

ということに気がついた。

米軍のマンハッタン計画

その為に米国はハンフォードという大変な僻地に秘密都市と多数の原子炉を作った。原子炉を動かすと燃えるウランが核分裂してたくさんの中性子が出てくるが、

その中性子を燃えないウランにぶつければ、自然にプルトニウムが出来る。その原理を利用しようとした。そして出来てきたプルトニウムを再処理という方法で処理して、長崎の原爆を作った

結局、米軍のマンハッタン計画というのは、燃えるウランの塊を作って、広島原爆を作った。

もう一方では、これでは大変だということで、原子炉を作ってプルトニウムを作り出し、それを再処理工場で取り出し長崎原爆を作り出した。

こうやって二つの流れから、米国は原爆を山ほど作りだす力を得た。つまり、ウランを集めるという作業、燃えないウランをプルトニウムに変換する原子炉、

そして変換したプルトニウムの再処理、原爆を作るにはこの3つの技術を手に入れるということが必要になった。

原子力の平和利用

こうして原爆というものを作り上げるためには、とてつもないエネルギーが必要だということを知った。私自身もそうだった。東京の下町に住んでいて、

東京でたくさんの原爆展というのが行われていた。それを中学・高校時代に見に行った。それで、「原爆というのはとてつもないものだな、

でも、こんなにエネルギーを出すものがあるのか」とびっくりした。ただ、驚いて恐ろしいと思ったことは、のちに私の心の中で逆転した。

「これだけのエネルギーを出すものであれば、これを平和的に利用したら人類のためになるのではないか?」と思い、私は原子力の平和利用のために自分の人生をかけようと思ってしまった。

原子力が始まった頃の夢

日本で原子力が始まった頃、どのように夢が描かれていたか。化石燃料はいずれ無くなるから、将来のために原子力が必要と私は思ったし、多くの日本人も未だに思っているだろう。

でもこれが全くの間違いだった。電気料金は世界一高い。原子力発電所は火力発電所より小さくはなく、お化けのような工場になった。もちろん都会に建てることはできない。

過疎地に押し付けた。

石油獲得と侵略戦争

石油はあと何年もつのだろう?1930年に石油があと何年でなくなると考えたかというと、18年。この年は、前年の1929年に世界大恐慌が起き、労働者が首を切られて巷にあふれるという時代。

これからは自分の国をなんとか強国にする努力をしなければいけないし、石油や石炭というエネルギー資源の確保もしなければいけないということになった。日本は非常に単純な選択をした。

日本国内にはエネルギー資源が少ないので、「そうなったら大陸の資源を押さえればいい」と満州に侵略を始めた。これから日本は15年戦争という大変な時代に入っていく。

日本だけではなくて、アジア諸国の人々、何千万人もの人を苦難の底に落とすという歴史を始めた。


長い戦争を続けて10年経った。1940年になったら、石油はあと何年になったか。10年前の1930年には18年しかないと言ったのだから、10年後の1940年には、

あと8年しかないということにならなければおかしい。では、実際どうだったかというと、まだ23年ある。

もうこれで歴然と間違えていたと反省しなければいけないのだが、でもこの時は、そうできない時代だった。日本という国は中国へも侵略戦争を始めていた。

世界中から忌み嫌われていた。
石油に関しては、ABCD包囲網という経済制裁を受けた。A=アメリカ、B=ブリテン=イギリス、C=中国、D=Dutch=オランダ。そういう国々が、

「日本には石油をやらない」という制裁を発動した。これに対しては、非常に単純な選択をした。「こうなったら南方の石油を押さえるしかない」ということで太平洋戦争を始めた。

戦後のエネルギー政策

そしてまた長い戦争が続いて、1945年になって、原爆を落とされて、遂に日本は敗北する。世界では戦争が続いている。1940年から10年経って1950年、この年に石油があと何年あるか考えた。

するとまだ20年あると言った。この時はまだ朝鮮戦争という大変悲惨な戦争が行われていて、世界中がどうやってエネルギーを確保するか血眼になっていた時代。

それで「後20年で石油が無くなってまう、大変だ」とやはり皆が言い続けた。

1960年代。この頃は私が中学時代の頃。石油があと35年で無くなると私はずっと脅かされて、「もうしょうがない。原子力だ」と思った。

しかし1964年には東京オリンピックで大量のエネルギーを使って、東京をコンクリートジャングルに改良するということをやった。

そんな時に、あと34年、35年といっていた。その後、まだ何年経っても30年といい続けてきた。オイルショックというのがあった。1回目もあったし、2回目もあった。

それでもまだ石油は約30年あるといい続けた。その後もずっと石油は30年、35年あると言いつづけた。

化石燃料と原子力

現在の石油の可採推定量値で一番新しいのは、「あと50年ある」ということ。化石燃料がいずれなくなってしまうなんて本当だろうか。

石油が20年で無くなるという時代が20年続いた。石油が30年で無くなると脅かされた時代が30年間続いた。今、石油が50年で無くなると言われている。この時代が50年続く。

1990年からそういい始めている。もう既に20年間そう言い続けている。

化石燃料が無くなってしまうというのはインチキだった。そんな宣伝に惑わされて、国の運命を決めるような選択をしてはいけない。

私のように自分の人生を掛けるような選択をしてはいけない。だが、多くの日本人は、未だに化石燃料がなくなるので原子力が必要だと思っている。

「いずれ石油は無くなる。やはり原子力必要だ」と。たしかに、化石燃料はいずれなくなる。

地球が46億年かけて地下に蓄えてきた資源を、人間が湯水のように使おうとすれば、いずれなくなるのは当たり前。しかし原子力の燃料であるウランも地下に埋まっている資源。

それを掘ってきて使えば、いずれ無くなる。問題はどっちの資源がどれだけ多いか、それだけのことだ。

原子力はエネルギー資源にならない

地球で一番多い資源は石炭だ。ただしこれは究極埋蔵量で、地球に存在しているということが分かっている資源。地下から掘ってくるということは、エネルギーが必要であり、

金勘定をして金儲けにならないと思えば全ての石炭を掘れるわけではない。今も北海道にたくさん石炭はあるが、結局、金儲けにならないとして、北海道の炭鉱は全て閉鎖されてしまった。

次の資源は天然ガス。最近天然ガスが大変便利だとして、たくさん使われるようになった。ガス田開発が進められて、今や石炭に次ぐ資源だと認められるようになってきた。

天然ガスだけで、人類何百年間のエネルギーを供給できるだろう。

そのほかに石油であるとか、オイルシェール・タールサンドとか。今のところオイルシェール・タールサンドは金儲けにならないので使っていないが、

これからどんどん使う時代が来る。これはすべて化石燃料。化石燃料が無くなってしまうから、原子力が人類の生存のためには不可欠だと宣伝がなされ、私はそれを信じた。

では、原子力の資源であるウランは石油に比べて数分の1、石炭に比べたら数十分の1しかない。こんなものにもともと未来をかけること事態、間違えていた。

核燃料サイクルのインチキ

ただし、原子力を進めようとする人たちは、「原爆を考えろ。広島の原爆は確かに燃えるウランでできていた。長崎の原爆はプルトニウムで出来ていた。

プルトニウムは、燃えないウランを変換するとプルトニウムになる。燃えないウランは全体の99.3%も占めているのだから、それを効率的にプルトニウムに変えてやれば、原子力の資源になる。」

と言い出した。そして、彼らの描いた理想どおりになると、このウランの量は約60倍になると言っている。だが、60倍になったところで、ようやく石炭に並ぶくらいだ。

「原子力が未来のエネルギー源になるということは決してない。しかし、石炭に匹敵するくらいの資源にはなるだろう。だからやる価値がある」と言っている。

まずウランを取ってきて濃縮する。マンハッタン計画では、広島原爆を作るために原子炉で燃えるように濃縮加工し、原子力発電所で燃やした。

広島原爆で核分裂反応を起こした反応を原子力発電所で今やっている。だが、これをいくらやったところで、原子力はエネルギー資源にならない。

そこで、プルトニウムを作り出すと言いだした。ウランを取ってきて、プルトニウム燃料加工を行う。

加工したプルトニウム以上のプルトニウムを新たに作ろうと高速増殖炉用の燃料に再処理をして、プルトニウムをさらに加工する。これを核燃料サイクルという。

最後には核燃料の廃棄物、ごみが出てくるので、いずれ処分しなければならない。この処理が大変難しいのだ。

高速増殖炉はすでに破綻

プルトニウムは地上には全く存在しない。普通の原子力発電所でも、燃えるウランを燃やしている限りプルトニウムが効率は悪いが出来ている。

そのプルトニウムを再処理工場で処理し核燃料サイクルを回す。だから原子力は無限の資源になる、という内容である。

そのための高速増殖炉は「もんじゅ」という原子炉であり、敦賀半島の最北端、琵琶湖の北のほうに敦賀という町にある。

これが高速増殖炉の原型炉。1995年にここで原子炉を動かそうとしたが、はじめた途端に事故が起き止まってしまった。

この原子炉は作ることが大変難しい。実はみんなウランの量は貧弱だということをはじめから知っていて、プルトニウムを作り出さなければ、原子力は資源にならないということをわかっていた。

そのために世界中が高速増殖炉を作ろうとした。世界で一番初めに電気を起こした原子炉は、高速増殖炉。1940年代から既に作り始めた。


米国が始め、イギリスがやり、旧ソ連がやったりしたが全てがつぶれてしまった。日本は普通の原発で取り出したプルトニウムを、

イギリスとフランスの再処理工場に送ってプルトニウムを約45トン取り出してもらってきた。長崎原爆が4000発作れる量のプルトニウムを、既に日本という国は懐に入れてしまっている。

高速増殖炉で使うといってプルトニウムを取り出したが、これを使うことができない。そんなことを世界が許すはずがない。

世界は、日本という国は大変怪しい国だと思っている。何十年か前に、アジアで何千万人もの人たちを殺した。

その国が、長崎原爆4000発分も作れるプルトニウムを持っている。そんなことは到底許せないという。

そのため日本は使い道の無いプルトニウムというものを持たないという国際公約をさせられた。現在、熱中性子炉=サーマルリアクターという炉があるが、

プルトニウムをそこで燃やすということをやっている。愚かな行為のために、さらに愚かな選択を迫られるという「悪循環」に陥っている。

憲法違反の原爆・原発をなくそう

原発推進の理由は核兵器

2011年3月11日、東電・福島原発で事故が起きた。4つある原子炉の既に3つまでが爆発してしまい、2号機だけは形はあるが、中身は原子炉が溶け落ちるという大変悲惨なことになっている。

こんな原子力を何で進めるのか。未だに日本は原子力発電を続けようと言っているし、1兆円もの金をどぶに捨てて、高速増殖炉もやり続けると言っている。なぜこんなことをいつまでもやり続けるのか。
そのことをどうしても諦めきれない本当の理由は「核兵器」だ。普通の原子力発電所の稼動時にプルトニウムが出来ていて、それをイギリスとフランスに送って再処理し、

日本がプルトニウムを懐に入れている。そのプルトニウムの組成は、ウランに燃えるウランと燃えないウランがあるように、プルトニウムにも燃えるプルトニウムと燃えないプルトニウムがある。

普通の原子力発電所で出来てくるプルトニウムは、約7割しか核分裂をしない。残りの3割は核分裂をしないプルトニウム。


原爆を作る時、燃えるプルトニウムが90%、或いは93%くらいはほしいというのが常識。このプルトニウムでも原爆は出来ると実験で確かめられているが、やはり高性能の原爆は作りにくい。

そこで日本は、これで4000発は確かに作れるが、「これではやっぱり嫌だ。もっと高性能な原爆を作りたい。」ということで高速増殖炉を作った。

これを動かしブランケット=炉心を取り巻く部分に燃えないウランを入れていくと、プルトニウムに変わっていく。

そこにはなんと98%の燃えるプルトニウム、超優秀な原爆材料が出来てくるのである。とにかく1基でも2基でも高速増殖炉を動かして、

核分裂性のプルトニウム98%という途方も無い超優秀な核兵器材料を手に入れたいと彼らは思っている。だから、高速増殖炉を諦めないでやっていこうとしているということだ。

憲法とニーメラー牧師

日本国憲法9条は「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、

国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。 第二項 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。

国の交戦権は、これを認めない。」 と書いてある。ものすごい明確な文章。これをどうやって解釈できるかなんて、解釈の余地もない。軍隊なんて持たない。

戦争も一切しないと書いてある。日本が平和国家で、軍隊を持っていないなんて誰がどういう面をして言えるのかと私は思う。

「ナチスがコミュニストを弾圧したとき、私はとても不安だった。が、コミュニストではなかったから、何の行動も私は行わなかった。

その次、ナチスはソシアリストを弾圧した。私はソシアリストではないので、何の抗議もしなかった。それからナチスは学生・新聞・ユダヤ人と順次弾圧の輪を広げていき、

その度に私の不安は増大した。が、それでも私は行動しなかった。ある日、ついにナチスは教会を弾圧して来た。そして私は牧師だった。が、その時はすべてがあまりにも遅すぎた。」

ドイツ福音主義教会のマルチン・ニーメラーという牧師の言葉である。

ニーメラー牧師という人は、先の戦争の時に初めは戦争に加担していた一人。それでも途中で戦争反対の活動を始めた。

ニーメラー牧師はナチスに捕らえられて強制収容所に入れられ、危うく死ぬところだったが、戦争が終わる時にようやく救出されて生き延びた。

彼は「収容所に入れられていたから何もできなかった」と言うとことはできる。だが、人が焼き殺されている時に、ニーメラー牧師はまだ自由な人間としてドイツにいた。

弾圧のことをどこまで知っていたかは別にしても、ドイツで自由な人間として彼は生きていた。

歴史に眼を閉ざすな

歴史というものは、しっかり見つめ、現在そして未来につなげていかなければいけないと思う。原発事故として起きている問題も同じだと思う。

私は今、全く自由な人間として生きている。警察から拘束されているわけでもない。刑務所にいれられているわけでもない。

今、日本では原子力というものが進められ、大変な悲劇が福島で進行している。そんな悲劇をものともしないで、日本が原子力を進めるということは、

要するに核兵器を持ちたいということだ私は思っている。それに何の抵抗もしないまま生きるということは、ニーメラー牧師が後悔したように、

いずれ私自身も後悔しなければいけないと思う。私は、なんとか原子力の真の姿を多くの人たち伝えることで、今の原子力を止めたいと願うものです。

2011年10月20日 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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