一度見ると撮影者が誰かを意識しないまま、頭のどこかに映像が残る写真がある。東松照明と言う人はそういう写真を撮る写真家の一人だった。
写真家の東松照明さんが死去 NHKNEWSweb
1月7日 18時4分
長崎の被爆者や沖縄のアメリカ軍基地などを撮り続けてきた、日本を代表する写真家の東松照明さんが、去年12月、沖縄県内の病院で亡くなっていたことが分かりました。
82歳でした。
東松照明さんは昭和5年、愛知県に生まれ、愛知大学在学中に本格的な写真活動を始めました。
その後、プロの写真家になり、原爆投下がもたらした実態を伝えるために、昭和36年から長崎の被爆者の戦後を追い続け写真に収めてきました。
また、本土復帰前の沖縄で、ベトナム戦争に出撃する爆撃機や広大なアメリカ軍基地を目の当たりにして以降、基地や周辺に暮らす人々の様子などを撮り続けてきました。
国内だけでなくアメリカやヨーロッパなどで写真展を開くなど作品は国内外で高く評価され、平成7年には紫綬褒章を受章しました。東松さんは、2年前から沖縄に移り住み、撮りためた作品を去年、県立の美術館に寄贈するとともに、無料の勉強会を開いて後進の育成にも努めてきました。
東松さんは、かねてから入退院を繰り返していたということで、先月14日、肺炎のため、那覇市内の病院で亡くなりました。
写真家の東松照明さんは、昭和36年に初めて長崎を訪れた際に、原爆の悲惨さに衝撃を受け、被爆者や被爆の惨状を伝える写真をライフワークとして撮影し続けてきました。
平成11年から10年間、長崎市で過ごし、原爆以外にも、干拓事業によって干上がっていく諫早湾や、坂道の多い長崎市の風景など、幅広い分野で作品を残しました。
長崎でたびたび個展を開き、東松さんについて詳しい長崎県文化振興課の伊藤晴子学芸員は「東松さんは、被爆者と二人三脚で歩んでいこうという気持ちで撮影を続けてきたと思う。
戦後から平成にかけての長崎の姿を深い視点で捉えてきた人で、東松さんの写真は長崎の歴史の厚みを感じさせ、世界中に発信し続ける大きな力があった」と話しています。
東松さんの写真展を開いた沖縄県立博物館・美術館の新里義和主任学芸員は「東松さんは、長崎では被爆者に寄り添った撮影を行い、沖縄では基地のある現実をライフワークとして撮り続けてきた。
1度、撮影したら一生追いかけ続けるという信念の人で、これからもやりたいことがたくさんあると話していたので残念でなりません」と話していました。
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写真家の東松照明さんが死去 NHKNEWSweb
1月7日 18時4分
長崎の被爆者や沖縄のアメリカ軍基地などを撮り続けてきた、日本を代表する写真家の東松照明さんが、去年12月、沖縄県内の病院で亡くなっていたことが分かりました。
82歳でした。
東松照明さんは昭和5年、愛知県に生まれ、愛知大学在学中に本格的な写真活動を始めました。
その後、プロの写真家になり、原爆投下がもたらした実態を伝えるために、昭和36年から長崎の被爆者の戦後を追い続け写真に収めてきました。
また、本土復帰前の沖縄で、ベトナム戦争に出撃する爆撃機や広大なアメリカ軍基地を目の当たりにして以降、基地や周辺に暮らす人々の様子などを撮り続けてきました。
国内だけでなくアメリカやヨーロッパなどで写真展を開くなど作品は国内外で高く評価され、平成7年には紫綬褒章を受章しました。東松さんは、2年前から沖縄に移り住み、撮りためた作品を去年、県立の美術館に寄贈するとともに、無料の勉強会を開いて後進の育成にも努めてきました。
東松さんは、かねてから入退院を繰り返していたということで、先月14日、肺炎のため、那覇市内の病院で亡くなりました。
写真家の東松照明さんは、昭和36年に初めて長崎を訪れた際に、原爆の悲惨さに衝撃を受け、被爆者や被爆の惨状を伝える写真をライフワークとして撮影し続けてきました。
平成11年から10年間、長崎市で過ごし、原爆以外にも、干拓事業によって干上がっていく諫早湾や、坂道の多い長崎市の風景など、幅広い分野で作品を残しました。
長崎でたびたび個展を開き、東松さんについて詳しい長崎県文化振興課の伊藤晴子学芸員は「東松さんは、被爆者と二人三脚で歩んでいこうという気持ちで撮影を続けてきたと思う。
戦後から平成にかけての長崎の姿を深い視点で捉えてきた人で、東松さんの写真は長崎の歴史の厚みを感じさせ、世界中に発信し続ける大きな力があった」と話しています。
東松さんの写真展を開いた沖縄県立博物館・美術館の新里義和主任学芸員は「東松さんは、長崎では被爆者に寄り添った撮影を行い、沖縄では基地のある現実をライフワークとして撮り続けてきた。
1度、撮影したら一生追いかけ続けるという信念の人で、これからもやりたいことがたくさんあると話していたので残念でなりません」と話していました。
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