ふくろう日記・別室

日々の備忘録です。

旅路 自伝小説   藤原てい

2016-07-14 22:07:19 | Book




藤原ていの処女作「流れる雲は生きている 1949年(昭和24年)日比谷出版社刊」はベストセラーだった。その後「灰色の丘 1950年」が出版されたが、その後約20年間本は出版されていない、と言うよりも、彼女は主婦業を優先させたのではないか?または健康状態が原因とも思えるが。その空白の時期に、1956年に夫・新田次郎が「強力伝」にて直木賞を受賞。

「旅路 自伝小説」と書かれているのは、「流れる雲は生きている」の方では、フィクションの要素があったのではないか?フィクションでもノンフィクションでもかまわない。藤原ていが表現したかったものは「戦争と大陸からの引揚者の悲惨さ」であって、その時に女性と子供たちがどう生き抜いたかを伝えたかったのだろうと思います。

ご長男の藤原正広氏は1940年生まれ。ご次男の藤原正彦氏は1943年生まれ。末っ子の咲子さんは1945年生まれです。私の父母と二人の姉(1940年、1941年生まれ)と末っ子の私(1944年生まれ)も、満州からの引揚者でした。年齢も日本へ帰国できた時期もほとんど同じでした。

そうして我が母が書いた、満洲の哈爾浜の父に嫁ぎ、終戦後に新京へ移動し、そこから引揚までの日々のメモを思い出しました。一番驚いたことは藤原てい氏の文章の口調に、母のメモがとてもよく似ていることでした。同じ娘時代に育ち、女学校教育を受けた女性の生き方と家族への思いはどこかに共通点があるのかもしれません。ひたすら子供の命を守り、死にもの狂いで生きたのは、ただ平凡な女性でした。

私達が藤原家より少しだけ幸運だったことは、父が部隊を離れて家族と共に戦後の満州の哈爾浜と新京を生きたことでした。新京からは移動せずに、そこで引揚の日まで小さな借家で貧しく暮らしました。小さかった私は引揚げ後すぐに母と共に入院でした。「引揚がちょっとでも遅れたら、この子は死んでいた。」とドクターが言ったそうです。私よりももっと小さかった咲子さんは、よくぞ生き抜いて下さいました。

幼い咲子さんのおつむの毛が、あまりにも少なかったとか、なかなか歩かなかったとか書かれていましたが、私も3歳まで歩けませんでしたし、幼い私のおつむもどうやら少ないながら、少女らしい髪になりました。咲子さんもきっとそうだったことでしょう。

なんと申しましょうか。父母が伝えてくれた、私たちの戦後の家族のあり様に、藤原ていさんの書かれたものに共通することが多く、一気に読みました。

満洲国のことや、戦争のことについて知ろうとして、慣れない読書を続けていましたが、ふと思い出して、この本を読んでみました。読んでよかったと思っています。子供をかかえた女性が、戦後の引揚までの日々をどう生きたのか?それをたくさんの方々に読んでいただきたいと思います。

「何故、戦争をしてはいけないのか?」この古い本がそれを教えてくださいます。


(昭和57年 1982年 第12刷 読売新聞社刊)