ふくろう日記・別室

日々の備忘録です。

オルフォイスへのソネット 第一部・3

2009-10-14 21:49:51 | Poem

神にはそれができる。しかし告げたまえ、どうして
人はその狭い竪琴を通って神に従ってゆけよう?
人の心は分裂なのだ。二つの心の道の交点に
アポロンのための神殿は立っていない。

あなたの教えられる歌は欲望ではない、
ついには達せられるものへの求愛ではない。
歌は現存在だ。神にとってはそれはたやすいこと。
いつ しかし私たちは存在するのか? いつ神は

私たちの存在に大地と星々を向けられるのか? 若者よ、
それは存在しているということではない、恋をしているということは、
たとえそのとき声が口を開いて溢れようとも。忘れよ、

おまえが歌ってきたことを。それは流れ去る。
真に歌うこと、それは別のいぶき。
何を求めもせぬいぶき。神のなかのそよぎ。風。

 (田口義弘訳)


神ならばできることだろう。だが、告げたまえ、狭い竪琴の絃をくぐって
どのように人はそのあとに従えよう?
人の心は分裂なのだ。ふたすじの心の道の
交わる場所に、アポロの神殿は立っていない。

あなたの教える歌は欲望ではなく、
やがて成就できるものへの求めでもない。
歌は現存在なのだ。神にとってはたやすいことだ。
けれどもいつ、わたしたちは存在するのか?そしていつ

神はわれらの存在のために大地と星々を用いるだろうか?
若者よ、おまえの愛はそれではない、たとえ
愛の刹那に声音は口を押し開けるとも。――おまえがかつて

叫びえた歌を、忘れるすべを学ぶがよい。その歌は流れ移ろう歌。
真実に歌うとは、それとは別の息づかい。
何のためでもない息吹。神のなかでのそよぎ。風。

 (生野幸吉訳)


 さてさて、またまた懲りもせずに難儀な読み解きをやってみようか?

 「アポロンのための神殿は立っていない。」という1行は、「第一部・1」の以下の詩行を踏まえて、対比させてはいるのではないか?

暗い欲望からの、戸口の柱が揺れうごく
隠れ家すらほとんどなかったところ――そんなかれらの
聴覚のなかに神殿を創られた。


 ここでの「神殿」は、地上に生きるものたちの耳のなかに立てられた神殿であって、これは幻聴に近いものであって、天上のものではない。アポロンとは、技芸の神「オルフォイス」の父であり、地上のものたちが「アポロンの神殿」など、立てられることなどできないのだということではないのか?

 竪琴の絃は、神の世界と現世との境界線となる「柵」のようなものではないか?この「柵」を自在にくぐり抜けて天上と地上とを自在に往来できる「オルフォイス」に対して、人間は「柵」をくぐり抜けることはできない。
 地上に生きるものの有限性、不完全性に対するものとして、「リルケ」が選んだ理想の姿が「オルフォイス」であって、双方に横たわる断絶性は動かしがたい。ただただ賞賛の言葉を送るばかりだ。

 「ドゥイノの悲歌・9」にみられる「大地への委託」とも思える断念のような感覚が、この「オルフォイスへのソネット」と対峙するように思えるのだった。「悲歌」と「ソネット」の作品誕生の時期が重複しているということは、この2つの詩集はどこかで響き合うことがあっても不思議な出来事ではない。むしろ「悲歌の兄&ソネットの弟」というような近親的な要素があるようですね。

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5 コメント

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こうして、日本語で読んでみると (takranke)
2009-10-15 07:07:09
また、それぞれの訳で、趣が違うなあ。しかし、細かな興趣は別にしても、いわんとしている詩の意味の骨格は、明らかになっていると思います。

寺院は、確かに、オルフェウスが動物たちのために建立した寺院(独逸語でTempel)と関係があることでしょう。ここで、ふたつのソネットを対照させれば、寺院の意味がわかる筈です。それは、避難場所という性格をもっていました。もうちょっと考えて見ましょう。

また続きは、土曜日に。



Unknown (Aki)
2009-10-15 14:30:06
「Tempel」はここでは2人とも「神殿」と訳していますが、takrankeさんは「寺院」と訳されていらっしゃいますね。

「寺院」が「避難場所」というところに繋がるのでしたら、これは納得できる要素となります。

では、土曜日を楽しみに。
MEMO (Aki)
2009-10-15 18:42:57
Tempel=寺院

Ein Schrein von Apollo=アポロの神殿
ところで、よく読むと、 (タクランケ)
2009-10-16 07:17:28
ふたりの解釈と、わたしの解釈は、違っているのです。それは、神が星辰を振り向けるというところの主語が、わたしは神ではなく、その男が、なのですが、それがそうなるのは、最初の文の主語、ein Mannの訳をふたりは人と訳し、わたしは、ある男、一人の男と訳しているからです。ここは、わたしは、おふたりに異議ありというところです。では、続きはまた明日。

でも、ソネットの2番の最後の文にも、わたしは異議ありだったなあ。死神が主語(わたしの理解は死ではなく、死神!)が、時間を貸与して、と解釈して、訳をつけているところです。原文には、時間は目的語にはなっていない。リルケの意図するところは、もっと深いと思います。目的語をとる筈の他動詞に敢て目的語をおいていないのです。これは、文の流れ、文脈から読む以外にはありません。リルケは余韻(と日本語ではいうと思います)を持たせていると思います。
神殿?寺院? (Aki)
2009-10-16 16:08:50
Tempel für Apoll

原文では、このように書かれているのですね。
ドイツ語はよくわかりませんので、明日ゆっくりとお話いたしませう。

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