アネモネの 草地の朝をつぎつぎに
開いてゆく 花の筋肉、
やがてこの花の胎内に高らかな
天空の多声の光が注ぎこむまで。
静かな星形の花のなかで限りない
受容のために張りつめている筋肉
時としてはあまりの充実に圧倒され、
日没が発する憩いへの合図さえ
その反りかえった花びらをおまえに
もどすことができぬかのよう――
おまえは なんと多くの世界の決意にして力!
私たち 荒らかなこの私たちは、もっと長く生きるだろう。
けれども いつ あらゆる生のうちのどのなかで
私たちはついに開いているもの 受け容れるものなのか?
(田口義弘訳)
花の筋肉よ、牧場の朝をつぎつぎに
ひらいてゆくアネモネの筋肉よ、
やがてその花のふところに、高らかに鳴る天の
多声の光がそそぎこむまで。
ひかりは、筋肉を張りひろげ
限りなく受容するしずかな星形の花にそそぎ、
ときとしてアネモネは、あまりの充実に圧倒せられ、
落日の、憩えよという合図すら、
はじけたように反りかえる花びらの先端を
もとにもどしてやることもできないほど。
なんという、多くの世界の決意、力であるおまえよ!
力ずくのわれわれは、おまえよりも長く生きるだろう。
しかしいつ、どのようないのちのなかで、
わたしたちはついに開かれ、受容する者となるだろうか?
(生野幸吉訳)
ローマにて、かつてリルケは「ルー・アンドレアス=ザロメ」宛てに書かれた手紙のなかに「それは昼のあいだあまりにも強く開いていたために、夜になっても閉じることができないままでした!暗い草地のなかにその花を見るのは恐ろしいことでした。」と書いています。この手紙の時からこのソネットを書くまでには長い歳月がありましたので、その時の恐怖や驚きが、そのまま詩作されたわけではないのですが・・・・・・。
「薔薇」と「アネモネ」はこのソネットのなかで、最も早く書かれました。わたくしが、このソネットをランダムに読み、書いてゆくことはどうやらお許しいただけるだろう、と勝手に考えています。すみませぬ。
植物である「花」に対して「筋肉」「胎内」というような動物的用語があえて与えられているのは何故でしょうか?「生殖」という意味においては動植物は共に「いのちの連鎖」を生きているという点で共有できるやもしれません。別の言い方をすれば、これは動植物共有の「Eroticism」とも言えますね。
朝の光を受けて、次々に開花するアネモネの花びらは、「やがてこの花の胎内に高らかな/天空の多声の光が注ぎこむまで。」人間や獣たちが憩う夜が来ても閉じることがない。ここにもまぎれもなく光だけではなく「音楽」が聴こえています。しかし、夜の闇のなかで花びらを閉じない花は「アネモネ」だけとは限りませんので、こうした花たちへの驚愕と賛歌と思うことにしませう。