塵埃落定の旅  四川省チベット族の街を訪ねて

小説『塵埃落定』の舞台、四川省アバを旅する

阿来『ケサル王』 180 語り部:未来

2017-02-05 01:42:52 | ケサル
     ★ 物語の第一回は 阿来『ケサル王』① 縁起-1 です  http://blog.goo.ne.jp/aba-tabi/m/201304


語り部:未来 その2




 夕日が西に沈むころ、ジグメはアッシュ高原に着いた。
 寺の周りの草地でラマたちが活佛の指導の下ケサル劇の通し稽古をしていた。若いラマたちは美しい装束に着替え、絵筆で顔を塗り、リズミカルな太鼓の音の中、次々と舞台に登った。神仙に扮したラマたちは鳥のように軽やかに舞い、金の兜に金の鎧のケサルは中央で彼らに囲まれていた。

 ジグメは尋ねた。
 「これはどの場面かね。国王天に帰るだろうか」

 活佛が答えた。
 「ここは英雄の誕生の地。英雄降臨が最も好まれている。ケサルが天上から下界の苦難を目にし、人の世に降ろうとする場面だ。だが、あなたが国王昇天を語りたいなら、その場を用意することは出来る」

 「活佛様、どうして分かったんですか」

 活佛は濃い緑色の眼鏡を掛けたままだったが、ジグメは鋭い目線が自分に注がれているを感じた。
 「仲肯よ、あなたの体からある匂いが感じられるのだが」

 「何かの匂い?」

 「終わりの匂いだ」

 「オレは死ぬんですか」

 「私が感じたのは物語の終わりだ。ここで英雄物語の最後の章を語りたいのではないか」

 「ここがその場所のようです」

 太陽が沈み、最初の星が天に躍り出ても、稽古まだ終わらなかった。
 夜、活佛はジグメの食事を用意させ、食事が終わると、茶を飲もうと誘った。
 ジグメは活佛に、以前他の場所で、アダナムが死ぬ間際に僧に対し無礼な言葉を口にする場面を語ったためにラマたちに追い出されたことを話した。

 活佛は軽く笑って何も答えなかった。そして尋ねた。
 「本当に最後の章を語るつもりかね」
 ジグメは言った。
 「もうこれ以上歩くのは辛い」

 二人は更に話しを続けた。
 仲肯の多くが英雄物語の最後の段を簡単には語ろうとしない、それは、多くの仲肯が最後の段を語り終ると物語が去って行ってしまうからである。その様はまるで、神から授かった使命を終えたかのようである、と。

 活佛は糾した。
 「終えたと言うべきではない。圓満に全うしたと言うべきなのだ」

 この時ジグメはまたためらった。彼は活佛に、もしここで語らずに物語を残したまま街へ行き、すべてを録音すれば、国は衣食に困らない生活を過ごさせてくれることになっている、と話した。
 活佛には特別な力があり、ジグメに心に隠してあった想いを語らせた。

 ジグメは昔知り合った女の語り部の話をした。ラジオの放送局での出会いを話し、最近の再会を話し、彼女の金歯についても話し、別れの時、年老いた彼女がどのように接吻したかを話した。そうしてジグメは笑った。

 「あの女性がテープに吹き込んだ語りは完全じゃなかったんです。猫がその内の一本をだめにしてしまって。それで、その欠けた一段を始めから語り直そうとしたけど、語れなかった」

 その後しばらく二人は沈黙したままだった。広い露台に座ったまま、東の空の雲の割れ目からのぞく月を見ていた。

 活佛は立ち上がり、ジグメを送りながら言った。明日の天気は、劇を演じるのに良く、物語を語るのにも良さそうだ。

 その晩、ジグメはやはり夢を見なかった。

 次の日の正午が近づいても、ジグメは語るかどうか気持ちが定まらなかった。ラマたちが稽古を続けている時活佛がまた訪ねて来て、廟の中に新しく建てられたケサル殿へと誘った。

 活佛はジグメを連れてまず二階へ上がった。中にはたくさんのケサル像が並べられていた。画布に描かれたもの、石に刻まれたもの、馬にまたがり疾駆しているもの、弓を引き絞り矢を放っているもの、剣を振り上げ妖魔に切りかかっているもの、美女と楽しんでいるもの。

 次に並んでいたのはいくつかの古物だった。馬の鞍、甲冑、矢の袋、鉄の弓、銅の剣、法具。どれも活佛が各地から集めたものだった。
 活佛は、これらはみなケサルが人の世で使った本物だと断言した。言ってから、また言葉使いを糾した。

 「いや、集めたのではなかった。掘り出したのだった。これらの宝はケサルが意図して残し、縁ある者に宝蔵として掘り出させたのだ」

 目の悪いジグメは、手で触るのを許してくれるよう活佛に頼んだ。願いを受け入れられた。
 それらは冷たく硬く、本物かどうかを知るよすがは感じられなかった。