塵埃落定の旅  四川省チベット族の街を訪ねて

小説『塵埃落定』の舞台、四川省アバを旅する

阿来『ケサル王』 181 語り部:未来

2017-02-11 03:24:46 | ケサル
     ★ 物語の第一回は 阿来『ケサル王』① 縁起-1 です  http://blog.goo.ne.jp/aba-tabi/m/201304



語り部:未来 その3



 ジグメと活佛は下の階に戻った。そこが本堂だった。
 薄暗かったが、ジグメには見えた。
 正面中央にケサルの金の像が置かれ、彼の大業成就を補佐したリン国の英雄たちが二列に並んでいる。

 ジグメは声に出して一人一人名前をあげていった。ロンツァタゲン、王子ザラ、大将タンマ、老将シンバ、…ジャンの王子ユラトジ、魔国の公主アダナム…そして、若くして逝ったギャツァシエガ…この名を声にした時、本堂が震えたように感じた。もう一度その名を呼んだ。だが何も起こらなかった。

 最後にケサルの前に立った。それは夢の中で出会った人の世の国王ではなく、天上での神としての姿だった。威厳に満ち、気高く君臨していた。

 金色に輝くその像は神であり、ジグメの物語の主人公であり、なによりもジグメの運命だった。
 ケサルの像に向き合ったジグメは心が揺れ、思わず叫んだ。
 「獅子大王様!」

 この時、ケサルはジャンガペルポに跨り王城に戻る途中だった。どこからか叫び声が聞こえたような気がして、馬の上で背を伸ばした。その時よりはっきりと声を感じた。
 「運命の人よ!国王よ!」

 それは自分の物語を語るあの男の声だ。必死に耳を凝らしていると、体が空に浮き上がった。ジャンガペルポは少しも気づかずそのまま行ってしまった。
 ジグメの言葉が聞こえた。
 「王様。物語の結末を知りたいとずっと望んでいましたね。その時が来たのです」

 語り部の声が聞こえ、彼の涙を感じた。と、その瞬間、ケサルは千年後のアッシュ高原に来ていた。彼の未来に来ていた。

 虚空には明確な道はない。だから、神の力を身に着けたケサルでさえ、どうやってこの見知らぬ時間の結び目にたどり着いたのかは分からなかった。
 だが、彼が目にしたのは慣れ親しんだ風景であり、生まれた土地であり、リン国を興す礎を築いたアッシュ高原だった。

 草原では赤い衣を着たラマたちが息の限りにチャルメラを吹き、彼が天から下界へ降る時の一段を演じていた。新しく建てられた廟では自分の像を目にした。天に帰った後の姿のようだった。あの語り部が像の足元に額を触れていた。

 語り部ジグメは問いかけた。
 「神よ。物語を終わらせるのですね。それなら、オレの体に入っているものを取り出してください。もう年取って、こんな不思議なものを背負い続けるのは無理です」

 ケサルは思わず尋ねずた。
 「どんなものか」

 「オレの体に射った矢を忘れたんですか」
 
 「矢?」

 「矢です」

 活佛がいぶかし気に尋ねた。
 「何と言った。良く聞こえなかったが」

 ジグメは振り向き、微笑んだ。
 「神様に願い事をしているんです」

 後に活佛は人々に語った。
 ケサルの像が手をあげ仲肯ジグメの背を軽く撫でるのをこの目で見たことを。その時、カランという音が響き、鉄の矢が地に落ちて来たことを。

 後に、この矢は階上の部屋に陳列され、その中で最も大切な宝となった。

 あの時、ジグメは物語が去って行くのを感じていた。一陣の風の中で砂塵が舞い上がるように、物語が天へと飛んで行く。
 今すぐ語らなくてはならない。草原に降り立った英雄の物語をまだ語り終えてはいないのだから。
 ジグメは六弦琴を掴み、衣装を整え、舞台の中央に進んで語り始めた。

 劇を演じていた僧たちは舞台を降り、観衆に混じって息を殺し、物語の最後の一段「英雄天に帰る」の語りに耳を傾けた。

 物語がすべて漂い去る前にジグメは終に最後の一段を語り始めた。活佛は最後となる語りを録音するよう命じた。
 結末の一節を語り終えたその時、ジグメの頭の中は空っぽだった。空を見上げ、人の世の王がまだ近くを徘徊しているかどうか確かめることさえ忘れていた。

 物語を失った仲肯はその後この地に留まった。リン国の君臣の像が陳列されている堂の中を手探りで掃除しながら、日々老いていった。
 参観者があれば、彼が最後に語った一段が流された。その時彼は顔を挙げてじっと聞き入り、ぼんやりとした笑顔を浮かべるのだった。

 誰もいない時は、あの矢を撫でた。
 それは確かに鉄の矢だった。
 鉄の冷たさ、鉄の重くざらついた質感を湛えていた。