★ 物語の第一回は 阿来『ケサル王』① 縁起-1 です http://blog.goo.ne.jp/aba-tabi/m/201304
説語り部 塑像
ケサルはもう一度語り部の夢を訪れた。天に戻った後の神としてではなく、少なくとも外見だけは生身の人間であるリン国の国王として。
語り部ジグメは、多くの場所を訪ね通り過ぎたが、どこへ行っても、ほとんどの人が天界のツイバガワがどんな姿だったかには関心を持っていなかった。たまに一、二枚の絵の中にその天界での姿が描かれていたが、他の多くの神々とほとんど見分けがつかなかった。
誰もが心に刻みつけているケサルとは、人の世で戦馬に乗り鎧をつけ武器を手にしている姿なのである。
ケサルが昔戦った場所では、役所が予算をつけて彫刻家を雇い、土、石、黒い鉄、ピカピカのステンレス、銅で似たような像を作っていた。博物館、町の広場、そして新しく開店したホテルのロビーで、ケサルは永遠に宝刀を持ち、腰に弓を下げ、悠然と馬に跨っている。
当時のリン国は今ではいくつかの自治州になった。
ジグメはその内の一つに招かれ、開店したホテルにケサル像を安置するための儀式で語ることになった。ホテルの経営者は浅黒い顔にケサル像と同じ八字ひげを油で光らせ、言った。
「参列のお偉方たちはみな忙しい。だがら、短く語ればいい。一番面白い場面を選んでくれ」
ジグメは聞きたかった。あなたの考えではどこが一番面白いですか、と。
たが、彼は尋ねなかった。彼は気立ての良い語り部である。
役人たちが塑像に掛けてあった赤い絹の布を捲り上げた後で、ジグメは思いつくままに語った。
その日、彼はいつもの調子が出せなかった。このような場で出し物として語るのに慣れていなかったし、全身を金色に輝かせている像を好きにはなれなかったからだ。
ただ、経営者が彼の手に押し込んだ封筒に厚みがあったのは嬉しかった。
式典が終わった後、高原の賑わう町を歩いてみた。
本屋で、ケサルを語る自分のCDがカウンターに並んでいるのを見つけた。ジャケットに使われているのは、語り部の帽子をかぶり六弦琴を手に、草原の草の上に座って語りに埋没している写真だった。
ジグメはわざと若い女の店員にあれこれ話しかけた。自分だと気付いて欲しかった。うしろめたさを隠し、店員にどうでもよいことをいくつも尋ねたが、絶えず頬を動かしている娘は、彼が誰なのか分からなかった。
ジグメは最後にこう尋ねた。
「ずっと口を動かしてるけど、おいしいものでも食べてるのかい」
娘はガムを大きく膨らませ、ジグメの目の前で破裂させると、振り向いて向こうへ行ってしまった。
近くで本を読んでいた老人がジグメの問いの一つに答えた。
この道を突きあたりまで行くと、何とか言うビルの二階に絵を描く作業場がある。若い画師たちが毎日そこで絵を書いている。その中の一人はあまりに描きすぎてもうじき目が見えなくなるらしい、と。
ジグメはそこを探し当てた。
二階が作業場で一階は旅行用品店だった。絵が出来上がると、店に並べられる。ケサルの絵はあるかと尋ねると、店員は二階へ行く階段を指さし、前の一枚は売れてしまい、新しいのはまだ描き上がっていない、と答えた。
ジグメは二階へ上がった。数人の画師が明るく広々とした部屋で絵を描いていた。その中の一人の若者は絨毯の上に屈み、画布に向かって丁寧に筆を走らせていた。遠くからでも、描かれているのが自分の物語の主役だと分かった。彼の馬、彼の鎧兜、彼の刀と矢。
近寄っていくと、画師は宝刀に色を付けていた。顔はまだ円のままで、円の中は下地を塗っただけだった。画布の繊維がまだはっきりと見えた。
本屋でうまく話せなかったので、今回は恐る恐る尋ねた。
「どうして顔を書かないんですか」
若者はやはり答えようとせず、宝刀の刃の輝きを慎重に描き上げ、長く息を吐いてから面倒くさそうに言った。
「明日、顔を書く前に祈祷するんだよ」
言い終ると若者は筆を変え、他の色を含ませ、矢羽根を描き始めた。ジグメはまた尋ねた。
「ケサル物語は知ってますか」
画師は振り向きジグメをじっと見つめたが、何も答えなかった。
ジグメは下に降り、店の中をもう一回りして、違うケサル像を見付けた。石に刻まれたケサルだった。青い石板、浅く刻まれた線、やはり馬に跨り剣を振るっている。ジグメはこの石板に描かれた姿の方が好きだった。
店員にこの石像について尋ねた。
「これも二階で作っているのかね」
「山の上だよ」
「山の上に誰かいるのかね」
「山の上にはたくさん積まれてる。誰が彫ったのかは分からないがね」
店を出て、ジグメは町のはずれでトラクターを雇った。ケサルの像がある山の上に行って欲しいと言うと、トラクターの持ち主は断った。
「あんたも石像を盗むつもりなんだろう」
「オレは石を彫る人に会いたいだけだ」
いつの頃からか、ジグメはケサルと関係ある人すべてが自分とも関係している気がして、心の中では自分の親戚のように思っていた。
当然、良い親戚もいれば悪い親戚もいる。CDを売る娘は悪い親戚で、若い画師は真面目に働いていたが少し偉そうだった。山の上で石を刻む人はきっと良い親戚だろう。
思った通り失望はなかった。
草地の縁に真っ直ぐに聳える樅の木が一列に並んでいる丘の上で、遠くから岩を叩くカンカンという音が聞こえて来た。
風に吹かれ髪を乱した男が石に鑿を打ちつけていた。彫っているのはケサルの像だった。彫られた像は尾根道に積まれ長い壁を作っていた。
ジグメは一つだけ尋ねた。
「町で売るために彫っているのかね」
風に吹かれて頬を赤くした男は積み重ねられた像を指さして言った。
「オレたちは何代も何代もリンの英雄の像を刻んで来た。オレもその内の一人だ」
次に石工がジグメに尋ねた。
「あんたは石の像を売って金を稼ぐ奴らとは違うようだな」
説語り部 塑像
ケサルはもう一度語り部の夢を訪れた。天に戻った後の神としてではなく、少なくとも外見だけは生身の人間であるリン国の国王として。
語り部ジグメは、多くの場所を訪ね通り過ぎたが、どこへ行っても、ほとんどの人が天界のツイバガワがどんな姿だったかには関心を持っていなかった。たまに一、二枚の絵の中にその天界での姿が描かれていたが、他の多くの神々とほとんど見分けがつかなかった。
誰もが心に刻みつけているケサルとは、人の世で戦馬に乗り鎧をつけ武器を手にしている姿なのである。
ケサルが昔戦った場所では、役所が予算をつけて彫刻家を雇い、土、石、黒い鉄、ピカピカのステンレス、銅で似たような像を作っていた。博物館、町の広場、そして新しく開店したホテルのロビーで、ケサルは永遠に宝刀を持ち、腰に弓を下げ、悠然と馬に跨っている。
当時のリン国は今ではいくつかの自治州になった。
ジグメはその内の一つに招かれ、開店したホテルにケサル像を安置するための儀式で語ることになった。ホテルの経営者は浅黒い顔にケサル像と同じ八字ひげを油で光らせ、言った。
「参列のお偉方たちはみな忙しい。だがら、短く語ればいい。一番面白い場面を選んでくれ」
ジグメは聞きたかった。あなたの考えではどこが一番面白いですか、と。
たが、彼は尋ねなかった。彼は気立ての良い語り部である。
役人たちが塑像に掛けてあった赤い絹の布を捲り上げた後で、ジグメは思いつくままに語った。
その日、彼はいつもの調子が出せなかった。このような場で出し物として語るのに慣れていなかったし、全身を金色に輝かせている像を好きにはなれなかったからだ。
ただ、経営者が彼の手に押し込んだ封筒に厚みがあったのは嬉しかった。
式典が終わった後、高原の賑わう町を歩いてみた。
本屋で、ケサルを語る自分のCDがカウンターに並んでいるのを見つけた。ジャケットに使われているのは、語り部の帽子をかぶり六弦琴を手に、草原の草の上に座って語りに埋没している写真だった。
ジグメはわざと若い女の店員にあれこれ話しかけた。自分だと気付いて欲しかった。うしろめたさを隠し、店員にどうでもよいことをいくつも尋ねたが、絶えず頬を動かしている娘は、彼が誰なのか分からなかった。
ジグメは最後にこう尋ねた。
「ずっと口を動かしてるけど、おいしいものでも食べてるのかい」
娘はガムを大きく膨らませ、ジグメの目の前で破裂させると、振り向いて向こうへ行ってしまった。
近くで本を読んでいた老人がジグメの問いの一つに答えた。
この道を突きあたりまで行くと、何とか言うビルの二階に絵を描く作業場がある。若い画師たちが毎日そこで絵を書いている。その中の一人はあまりに描きすぎてもうじき目が見えなくなるらしい、と。
ジグメはそこを探し当てた。
二階が作業場で一階は旅行用品店だった。絵が出来上がると、店に並べられる。ケサルの絵はあるかと尋ねると、店員は二階へ行く階段を指さし、前の一枚は売れてしまい、新しいのはまだ描き上がっていない、と答えた。
ジグメは二階へ上がった。数人の画師が明るく広々とした部屋で絵を描いていた。その中の一人の若者は絨毯の上に屈み、画布に向かって丁寧に筆を走らせていた。遠くからでも、描かれているのが自分の物語の主役だと分かった。彼の馬、彼の鎧兜、彼の刀と矢。
近寄っていくと、画師は宝刀に色を付けていた。顔はまだ円のままで、円の中は下地を塗っただけだった。画布の繊維がまだはっきりと見えた。
本屋でうまく話せなかったので、今回は恐る恐る尋ねた。
「どうして顔を書かないんですか」
若者はやはり答えようとせず、宝刀の刃の輝きを慎重に描き上げ、長く息を吐いてから面倒くさそうに言った。
「明日、顔を書く前に祈祷するんだよ」
言い終ると若者は筆を変え、他の色を含ませ、矢羽根を描き始めた。ジグメはまた尋ねた。
「ケサル物語は知ってますか」
画師は振り向きジグメをじっと見つめたが、何も答えなかった。
ジグメは下に降り、店の中をもう一回りして、違うケサル像を見付けた。石に刻まれたケサルだった。青い石板、浅く刻まれた線、やはり馬に跨り剣を振るっている。ジグメはこの石板に描かれた姿の方が好きだった。
店員にこの石像について尋ねた。
「これも二階で作っているのかね」
「山の上だよ」
「山の上に誰かいるのかね」
「山の上にはたくさん積まれてる。誰が彫ったのかは分からないがね」
店を出て、ジグメは町のはずれでトラクターを雇った。ケサルの像がある山の上に行って欲しいと言うと、トラクターの持ち主は断った。
「あんたも石像を盗むつもりなんだろう」
「オレは石を彫る人に会いたいだけだ」
いつの頃からか、ジグメはケサルと関係ある人すべてが自分とも関係している気がして、心の中では自分の親戚のように思っていた。
当然、良い親戚もいれば悪い親戚もいる。CDを売る娘は悪い親戚で、若い画師は真面目に働いていたが少し偉そうだった。山の上で石を刻む人はきっと良い親戚だろう。
思った通り失望はなかった。
草地の縁に真っ直ぐに聳える樅の木が一列に並んでいる丘の上で、遠くから岩を叩くカンカンという音が聞こえて来た。
風に吹かれ髪を乱した男が石に鑿を打ちつけていた。彫っているのはケサルの像だった。彫られた像は尾根道に積まれ長い壁を作っていた。
ジグメは一つだけ尋ねた。
「町で売るために彫っているのかね」
風に吹かれて頬を赤くした男は積み重ねられた像を指さして言った。
「オレたちは何代も何代もリンの英雄の像を刻んで来た。オレもその内の一人だ」
次に石工がジグメに尋ねた。
「あんたは石の像を売って金を稼ぐ奴らとは違うようだな」