塵埃落定の旅  四川省チベット族の街を訪ねて

小説『塵埃落定』の舞台、四川省アバを旅する

阿来『ケサル王』 120 語り部:非難

2015-09-15 01:29:10 | ケサル
語り部:非難 その2




 ジグメは落ち着かない気持ちのまま旅を続け、途中で二人の苦行僧と出会った。
 老若二人の僧は小さな湖のほとりで休んでいた。彼らはジグメにどこへ行くのかと尋ねた。

 ジグメは答えた。
 「どこかへ行こうとしてるんだが、忘れてしまった」

 若い僧は言った。
 「冗談がうまいですね」

 ジグメは大まじめに言った
 「オレは冗談を言ったことなどない。どこかへ行かなきゃならないんだが、思い出せないんだ」
 ジグメは真面目に天を指した。
 「あのお方が怒って、忘れさせたんだ」

 「冗談がうまい人は誰も自分は冗談は言わないというものです。人を笑わせておいて、自分は笑わない」

 年を取り厳格そうな僧も笑顔を見せた。
 「どこへ行くか分からないというが、それならどこから来たのかね」

 ジグメは僧の耳元に屈み、言った。
 「ちゃんと覚えてたんです…昨日の夜、そこで寝たんですから。でも今は思い出せない」

 そう言うと、ジグメはやっと何かに気付き、怯えたような表情を浮かべた。
 「どうしよう、何も思い出せなくなった」

 老僧はハハハと笑って言った。
 「お前は本当にユーモアがある。アク・トンバのようだ」

 アク・トンバ!

 ジグメは数え切れないほどの人たちがこの名前を口にするのを聞いた。
 この人物は特別な力を持っていて、多くの人々に語り伝えられた物語のユーモアと機知に富んだ主人公である。
 だがその物語からは、彼の出身も姿かたちも、それほどの機知とユーモアがあるようには思えない。

 機知を持たない者は人より優れることは出来ず、優れていない者はユーモアを身に着けることは出来ない。
 だがなんと、アク・トンバは誰よりも劣っているのに―地位もなく財産もなく学問もない―却って多くの物語の中で機知とユーモアのある主人公になったのである。

 ジグメは老僧の手を掴み言った。
 「アク・トンバを知っているんですね。なら、オレを連れて行ってください」

 老僧は立ち上がり、ジグメの手を振り払って言った。
 「アク・トンバに会った者はいない」

 雲が空中を飛ぶように流れ、泉の水がさらさらと音をたてた。
 すべてが、これから何かが起こりそうな気配を見せた。
 だが、何も起こらなかった。

 若い僧は慣れた動作で、茶を沸かす鍋と茶を飲む碗を片づけ、背嚢に入れた。

 ジグメは言った。
 「オレはアク・トンバを知りたい」

 若い僧は背嚢を肩にかけた。
 「もう一度言ったらそれはユーモアではなくなります。それは、うわごとと同じです。さて、師匠は行ってしまわれた。これ以上付き合っていたら、追いつけなくなってしまう」

 老僧は軽い足取りで、あっという間に道が曲がる辺りのアズキナシの茂みの先に姿を消した。
 若い僧もいつの間にか去って行き、アズキナシの茂みは人も道も覆い隠した。

 ジグメにもやっと分かって来た。
 アク・トンバには会うことはできないのだ、と。

 アク・トンバはただ物語の中でのみ生きているごく普通の人間で、ジグメが語る物語の中の神のようではないのだ。

 アク・トンバは人が自分の物語を語るのを求めない。
 みなと同じ人間で、神でもなく、かつての国王でもなく、特別な資格もない。
 だがほとんどすべての人たちはみな彼の物語を語りたがる。

 ジグメは湖の岸辺で水に映る自分の姿を見た。
 羊飼いをしていた頃は、雪の峰の麓の湖で自分の顔をしげしげと見たことはなかった。

 その頃の自分の顔はふっくらとして浅黒く、穏やかな表情だったのを思い出した。
 今、水に映った顔は痩せて気難しく、下顎にはまばらな髭が伸びていた。

 自分は温和な性格のはずだ。
 今そこにあるこの世への憤りと恨みの表情が信じられない。
 水の中の人物は自分が知っている自分、自分が考えていた自分とは違っていた。

 かなり長い時間彼はこの小さな湖のほとりに座り、湖の水が出口から水草を浸して用水路に流れて行く音を聞いていた。
 そうしているうちにやっと、憂鬱そうな目の中に微かな笑みのかけらが浮かんだのが見えた。
 彼はそれで満足した。

 太陽が山に落ち、あたりが冷え始めると、昨日どこから来て明日どこへ行けばよいのか、思い出せないまま、歩き始めた。

 その夜、一軒の家で宿を借りた。
 彼らはすぐにジグメが語り部だと分かり、一段歌って欲しいとねだった。
 断わるわけにはいかなかった。
 だが、みなの失望した表情を見るまでもなく、自分がうまく語れていないのが分かった。

 神が怒っている。

 一部の語り部はある日突然語れなくなるが、それは神が物語を取り上げてしまうからである。
 だが彼はまだ語ることが出来る。
 だが、力ははっきりと落ちている。
 神はジグメに物語を残したが、その豊かな表現、心を揺さぶる調べを取り上げ、物語の骨組みだけを残したのだ。

 主人はそのことで彼を見下げているようだった。
 それは用意された料理や寝床を見れば分かった。
 ジグメは心苦しく、自分から進んでアク・トンバの物語を語りたいと申し出た。

 主人は言った。
 「疲れただろう。早く休みなされ。アク・トンバの物語は誰でも語れる。ケサルの物語はそうはいかん。決められた者が語らなくてはならない」

 ジグメは急いで立ち上がり、女主人について自分の寝床を見に行った。
 その時、この家の子どもが突然言った。

 「ねえ、この人、アク・トンバみたいだね」

 「いい加減なこと言うな!物語はたくさんあるが、アク・トンバがどんな格好をしてるか、どこにも書いていないはずだ」

 「でも、きっとアク・トンバはこのおじさんみたいだと思うよ」

 ジグメは寝床に入って考えた。
 アク・トンバは、痩せて貧相で、下顎にまばらなひげをたなびかせているのだろうか。

 眠りに落ちる前に、ジグメは自分が立てる自嘲の笑い声を聞いた。