塵埃落定の旅  四川省チベット族の街を訪ねて

小説『塵埃落定』の舞台、四川省アバを旅する

阿来『ケサル王』 73 物語 愛する妃

2014-11-03 02:12:37 | ケサル
物語:愛する妃 その1



 リンが国として興ってから、ケサルは、国王とはなすべきことが少ないものだと感じていた。
 国家として整った構造は、これまでを一つの政の単位としていた纏まりのない状況よりはるかに優っていた。

 この状況について宮廷の医師はうまい喩えをした。
 それはあたかも人の体のように、経絡と血脈がきちんと通じていれば、活力にあふれた命の気は一巡りしては元に戻り、それを繰り返しながら、自然に流れていくのです、と。

 医師は言った。
 「文では首席大臣ロンツアチャケンがすべてを執り行い、武では将軍たちが辺境を守っております。王様は安心して国王としての楽しみを味われますように」

 「では国王としての楽しみとは何だ」ケサルは尋ねた。

 ケサルは、国王であるということは、毎日楽士の奏でる優雅で魅惑的な音楽を聴きながら金や玉の杯で酒を飲み、寝てはまた醒め、美しい女たちの間を行き来することであるはずがない、と言いたかった。
 日毎行われる朝の政務で上奏されるのはすべて、作物はよく実り、辺境の治安は良く守られ、国は太平、民は平安、というものばかりである。

 国王は何か事が起こるのではないかと思えてならなかった。
 「お前たちが言うことはすべて本当なのか」

 こう尋ねられて、全身全霊を捧げ責務を果たしている大臣たちは深く傷つき、首席大臣であるロンツアでさえも悲しげな表情で言った。
 「王よ、国を上げての安泰を、お喜びになるべきです」

 こうしてケサルは、一国の王であっても心のままを口にしてはならないのだと知った。

 彼は、朝の政務を終え宮殿に帰ると、重い朝服の着替えを手伝うジュクモに言った。
 「なぜ、瞬く間に何もすることがなくなってしまったのだろう」

 ジュクモはいぶかしげな表情をした。
 「国が安らかだというのはそういうものです。天が王様を下界へ遣わされたのは、リンを一つの国とし、英明な国王によって民に穏やかな日々を与えるためではありませんか」

 ケサルの笑顔には疲れの色があった。
 「国王になるとはこういうことだとは思ってもいなかった」

 そこでジュクモはケサルに寄り添い、体の中にある深い愛で国王を慰め、楽しませた。
 だが、ケサルの目には、空に黒い雲が漂うように、けだるさが浮かんでいた。

 ジュクモは御殿医を呼び、国王がこれまでのように生気を漲らせる方法を考えるよう命じた。
 医師が示したのは一種の媚薬だった。

 首席大臣はこれを知り、言った。
 「我が国王は神そのものである。そのようなつまらぬ処方は必要ない」

 またしてもトトンが一つの策を上奏した。
 「王妃はリン一番の色香をお持ちだが、毎夜のお相手には無理がある。国王は女に飽きたのではなく、毎日同じ方と過ごしたために、その感覚が鈍くなったのではないか」

 「お前の考えとは…」

 「ワシだけの考えではない。尋ねてみれば分かるだろう。この人の世のどの国でも、国王の周りには妃が雲のように集まり、後宮が並んでいるのだぞ」

 このことをジュクモに相談するのは憚られた。
 ロンツァは文の大臣を引き連れて、太后となったメドナズに相談した。

 メドナズは剛毅な龍の宮の出であり、当然のようにそれを良しとした。
 「ジュクモは生まれながらに勝ち気な性格です。もし他の国から妃を娶ったら彼女は受け入れないでしょう。
  息子が王になる前、彼女はリンの美しい娘と共に12姉妹と呼ばれ、お互いに慈しみ合ってきました。
  いっそのことその11人の娘をみな宮中に入れ、12王妃としてはどうでしょう」

 そこでまた盛大な宴が催され、楽隊は技の限りを尽くし、武人は宮殿の前で矢を競い合った。
 11人の姉妹は国王の前で喜びの表情を見せた。

 ジュクモは心の内で涙を流したが、皆の前では姉妹たちと睦まじくしていた。

 国王は妃たちと楽しそうに打ち融け合い、心の中にあった憂鬱は消えたかのように見えた。

 ある日、朝の政務を終え、国王は特別に首席大臣の労を慰め、温かくねぎらった。
 ロンツァは胸の前の白い髭を撫で、朗らかに答えた。

 「私は齢八十となりました。これからの80年も王さまに仕えたく存じます。
  我が国が安らかで繁栄しているのは、国王が天の意を受けもたらした賜物であります。
  どうぞリンの磐石な国土をいつまでもお治め下さい」

 臣下たちはみな国王の安穏が国の安穏と信じていた。
 ケサルも彼らの想いに従い、暫く静かな時を過ごした。

 この夜は妃メイサが王の世話に当たっていた。
 朝起きると、ケサルはまたジュクモに言ったと同じ言葉を口にした。
 「これが国王になるということか」

 メイサは言った。
 「今日は小国の者たちが珍しい宝を献上するそうです。王様もいらっしゃったらいかがですか」

 ケサルはけだるい表情で言った。
 「数日前、首席大臣が、新たに貢物を収めるための蔵を建てるよう上奏していた。
  それ程多くの貢物をすべて見尽くすことは出来ないだろう」