6 増水する大河の岸での午睡
(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)
ここを去る前、河辺の柳の下で、波が岸を打つ音を聞きながら一眠りした。
目が覚めた時、体中にじっとりと汗をかき、耳はやかましい蝉の鳴き声でいっぱいだった。
木の葉の間から眩い空を見つめていると、「山の中の一日は、地上の千年」の意味が理解できた。ここでは時間の流れが世の中と違って感じられる。
そこで突然おかしな考えが浮かんだ。
もしヨンドゥン・ラディン寺の予言の術に通じたラマが、寺の最も栄えている時に眠りに着き、今この時に目覚めたなら、自分のした予言の中から的中したといえるものを発見できないばかりか、自分はある強い魔法にかけられ、まるでなじみのない世界へ連れてこられたと思うにちがいない。
だがこれは、歴史がうまい具合にいくつかの偶然を重ね、ここまで続いてきたから起こった一種の必然なのである。
現在、私の後ろにある廃墟に代表されるギャロンの歴史の一時期の輝きは、今まさに人々から忘れられつつある。
それでも、この出来上がったばかりの寺を建てた人々は、そのことによって、あの輝かしい過去、人々に深い感銘を与える過去と、なんらかのつながりを持ちたいと考えたに違いない。
だが、世の中は移ろうものだ。この寺は完成したばかりの時に、すでにほとんど忘れ去られていたのである。
忘却は人に悲しみを抱かせる。
忘却はかえって人をあきらめの境地にさせる。
では、この忘れられた地でもう一度気持ちよく眠ろう。この騒々しい世界を駆け回っていれば、誰にでも、きれいさっぱりと忘れたいことが山ほどあるのだから。
私はまた横になった。うとうとしかけた時、朝私を乗せた船頭が駆け寄ってきて私を揺さぶり、河の水かさが増してきた、と言った。
彼に背を向けてまた眠った。大げさなやつだと思ったし、河の水かさが増すなど聞いたことがなかったからだ。
彼はまた大声で叫んだ。
「河の水があふれるぞ」
そこで私は仕方なく起き上がり、河の方を見た。
太陽は明るく輝き、蝉は声を合わせて鳴いている。だが、河の水は確かに増え始めていた。
私は頭を岸に、足を河に向けて細かい草の生える砂浜に寝ていたが、この時、河から打ち寄せる波の飛沫がすでに私の足にかかっていた。
あたふたと体を起こすと、トウモロコシ畑で草むしりをしていた船頭の家の二人の女性がけらけらと笑い出した。河の水が増しているのがよく見えなかったようだ。
まず、河の水がどんどんと濁っていくのが目に入った。川面から泥の匂いが立ち昇ってきた。
徐々に重々しさを増す流れは、河の中心から、力強くゆっくりと上へ向って盛り上がった。
岸に打ち寄せる波は益々高く、益々強くなった。浪が岸を打つごとに、水面は少しずつ上がり、一時間も経たずに私がさっき寝ていた砂地はすべて水の中に埋もれてしまった。
上流のどこかで激しい雨が降ったのだろう。
河の水が増えると、流れは逆に重々しく緩やかになった。さらさらと流れていた水の音が重く湿り気を佩びてきた。
水に埋もれた草の中に、まるで句読点のような、大きく開けた魚のくちばしがいくつも見え隠れしている。大量の土砂のために河の水の酸素が急激に減ってしまったためだ。河の深い淵にいた魚はみな岸辺に近づいて来て、争うように生命にとって重要な酸素を吸っている。
毎回河水が増すと、河辺には大勢の人がやって来て、魚を採る絶好のチャンスを逃すまいとする。
もし今私が小さな魚採りの網を持っていて、河辺の浅い流れに仕掛けて掬いあげたら、びっくりするほどの収穫があるだろう。
魚の網から伝わってくるずっしりと重い振動を感じたような気がした。
大渡河の急流が育んだ細鱗魚は魚の中でも上等で、その味は天下一品である。
金川の県城に戻れば、どこかの店で必ず新鮮な魚を食べることができる。
真っ白なスープの上に浮かぶふっくらとしたウイキョウの葉が目に浮かんだ。
船頭とその家族は、木に繋いだ船を岸に上げ、草地の上にさかさま伏せ、言った。
「上の橋から帰るしかないな」
そこで私は彼らに別れを告げ、上流のつり橋に向かって行った。
金川の県城に戻った時、一度もヨンドゥン・ラディン寺を振り返って見なかったのに気付いた。
後になって、何故なのか考えてみた。
それは、どのように振り返っても、歴史にかかる靄を透して、歴史本来の姿を見ることはできないと分かっていたからではないだろうか。
(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)
(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)
ここを去る前、河辺の柳の下で、波が岸を打つ音を聞きながら一眠りした。
目が覚めた時、体中にじっとりと汗をかき、耳はやかましい蝉の鳴き声でいっぱいだった。
木の葉の間から眩い空を見つめていると、「山の中の一日は、地上の千年」の意味が理解できた。ここでは時間の流れが世の中と違って感じられる。
そこで突然おかしな考えが浮かんだ。
もしヨンドゥン・ラディン寺の予言の術に通じたラマが、寺の最も栄えている時に眠りに着き、今この時に目覚めたなら、自分のした予言の中から的中したといえるものを発見できないばかりか、自分はある強い魔法にかけられ、まるでなじみのない世界へ連れてこられたと思うにちがいない。
だがこれは、歴史がうまい具合にいくつかの偶然を重ね、ここまで続いてきたから起こった一種の必然なのである。
現在、私の後ろにある廃墟に代表されるギャロンの歴史の一時期の輝きは、今まさに人々から忘れられつつある。
それでも、この出来上がったばかりの寺を建てた人々は、そのことによって、あの輝かしい過去、人々に深い感銘を与える過去と、なんらかのつながりを持ちたいと考えたに違いない。
だが、世の中は移ろうものだ。この寺は完成したばかりの時に、すでにほとんど忘れ去られていたのである。
忘却は人に悲しみを抱かせる。
忘却はかえって人をあきらめの境地にさせる。
では、この忘れられた地でもう一度気持ちよく眠ろう。この騒々しい世界を駆け回っていれば、誰にでも、きれいさっぱりと忘れたいことが山ほどあるのだから。
私はまた横になった。うとうとしかけた時、朝私を乗せた船頭が駆け寄ってきて私を揺さぶり、河の水かさが増してきた、と言った。
彼に背を向けてまた眠った。大げさなやつだと思ったし、河の水かさが増すなど聞いたことがなかったからだ。
彼はまた大声で叫んだ。
「河の水があふれるぞ」
そこで私は仕方なく起き上がり、河の方を見た。
太陽は明るく輝き、蝉は声を合わせて鳴いている。だが、河の水は確かに増え始めていた。
私は頭を岸に、足を河に向けて細かい草の生える砂浜に寝ていたが、この時、河から打ち寄せる波の飛沫がすでに私の足にかかっていた。
あたふたと体を起こすと、トウモロコシ畑で草むしりをしていた船頭の家の二人の女性がけらけらと笑い出した。河の水が増しているのがよく見えなかったようだ。
まず、河の水がどんどんと濁っていくのが目に入った。川面から泥の匂いが立ち昇ってきた。
徐々に重々しさを増す流れは、河の中心から、力強くゆっくりと上へ向って盛り上がった。
岸に打ち寄せる波は益々高く、益々強くなった。浪が岸を打つごとに、水面は少しずつ上がり、一時間も経たずに私がさっき寝ていた砂地はすべて水の中に埋もれてしまった。
上流のどこかで激しい雨が降ったのだろう。
河の水が増えると、流れは逆に重々しく緩やかになった。さらさらと流れていた水の音が重く湿り気を佩びてきた。
水に埋もれた草の中に、まるで句読点のような、大きく開けた魚のくちばしがいくつも見え隠れしている。大量の土砂のために河の水の酸素が急激に減ってしまったためだ。河の深い淵にいた魚はみな岸辺に近づいて来て、争うように生命にとって重要な酸素を吸っている。
毎回河水が増すと、河辺には大勢の人がやって来て、魚を採る絶好のチャンスを逃すまいとする。
もし今私が小さな魚採りの網を持っていて、河辺の浅い流れに仕掛けて掬いあげたら、びっくりするほどの収穫があるだろう。
魚の網から伝わってくるずっしりと重い振動を感じたような気がした。
大渡河の急流が育んだ細鱗魚は魚の中でも上等で、その味は天下一品である。
金川の県城に戻れば、どこかの店で必ず新鮮な魚を食べることができる。
真っ白なスープの上に浮かぶふっくらとしたウイキョウの葉が目に浮かんだ。
船頭とその家族は、木に繋いだ船を岸に上げ、草地の上にさかさま伏せ、言った。
「上の橋から帰るしかないな」
そこで私は彼らに別れを告げ、上流のつり橋に向かって行った。
金川の県城に戻った時、一度もヨンドゥン・ラディン寺を振り返って見なかったのに気付いた。
後になって、何故なのか考えてみた。
それは、どのように振り返っても、歴史にかかる靄を透して、歴史本来の姿を見ることはできないと分かっていたからではないだろうか。
(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)