黒猫 とのべい の冒険

身近な出来事や感じたことを登載してみました。

そのころトントは猫だった

2011年12月08日 09時59分16秒 | ファンタジー

 映画やテレビに出演した多くの猫たちの中で、なぜかときどき頭に浮かぶのがトントだ。米映画「ハリーとトント」(1974年公開、日本では翌年)に猫として登場した彼だったが、残念ながら、題名に名を連ねるほどの存在感はない。年老いた相棒のハリー(人間)は、居場所の建物から追い出されたために、子どもたちの住処を訪ねて放浪の旅に出る。いっしょに暮らしていたトントは、ハリーになんとなく同伴し、映画の終盤で病死してしまう。彼にカメラが向けられるのは、前半では数回の短いショットだけ。しかし、カメラの前で萎縮も興奮もせず、まるで撮影中だなんて感じさせない演技力は大したものだ。ぼくにはマネできないな。
 中盤のバス旅行の最中、隣に座った人のパンを分けてもらったり、バスから用足しに下りたとたん走り出して、ハリーが結局バス旅行を続けられなくなる場面は、トントの猫らしい習性がよく出ていて痛快だ。猫は自分の思ったとおり行動するものさ。
 その後の筋書きでも、取り立てて彼がクローズアップされる場面はないのだが、突如、主役になる場面がやってくる。それはハリーの得意な鼻歌に送られて、トントが永眠する場面だ。彼が息を引き取る演技は玄人の域に達していると、ずいぶん賞賛が寄せられた。眠くなって、コトンと首が傾いただけなんだけどね。
 六〇年代から七〇年代にかけてのアメリカは、十数年も続く泥沼のベトナム戦争や政治家の不正、ボジティブな市民運動の衰退、先鋭化した反体制テロの続発など、暗く陰惨な世相の中でやり切れない気分が広がり、なんのために生きるのか決めかねた人たちがちまたに溢れていた。ハリーもまた、わずかに残った人生を賭けて、なにかを求めて流浪した。映画の中のトントは、適度な食べ物と落ち着ける寝床があれば、どんな場合でも悩みはしないという顔をしているけれど、妻を亡くし所を逐われたハリーの寂しさを感じていないはずはないのだ。
 ハリーは流浪の果てに、トントの死に直面して初めて、彼といっしょの生活が最良だったと気が付いたんだと思う。エンディングの浜辺で遊ぶ猫はトントによく似ているが、トントではない。そもそも人も猫もひとつの場所にとどまってはいない。そのときから数十年が経とうとする時代になっても、暁彦たち迷える人間と、名前をとのはなに変えた猫たちは、確かさとはどんなものか知らないまま、相変わらず流浪の旅を続けているのだ。(2011.12.8了)

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