黒猫 とのべい の冒険

身近な出来事や感じたことを登載してみました。

伝統的な思い込み

2012年02月03日 14時21分54秒 | ファンタジー

 昨年の三月以前のメモに、子どもが洪水に飲み込まれる姿と黒装束の男たちが自らの意志で川に入る姿が書き留められていた。「残酷な子どもたちのお話のはじまり」の一場面だ。あの大災厄の後、心にのしかかる鈍く重い痛みにあらがい切れず、物語の後半の大部分を削除し、今のブログの筋書きに置き換えた。洪水なんて毎年のように世界各地で起きているのだし、入水事件だって日本では連綿と昔から続いているのだから、素人が思いついた単なるフィクションにそれらの内容が含まれていたからといって、この世の中にどんな悪影響を及ぼすのか。しかし、私には、なにも気にしなくてもいいと割り切ることができなかった。
 この気持ちというのは、災害に苦しむ人々を救うために、なにか行動を起こそうなんて前向きなものではまったくない。日常生活になにひとつ変化のない安全な場所にいる者が、自分自身のやる気のナサを棚に上げて、自分だってその現場を正視できないくらい苦しんでいると弁解しているだけなのだ。被害に遭った人々を差しおいても、自分の心のよりどころを探そうとする人間の特性をひと言で表すと、自己防衛反応というような言葉になるのだろうか。日本人には、この後ろ向きの心をみんなと共有しているという伝統的な思い込みがあるからこそ、彼らはどんな災厄からも目を反らさないで、粛々と傍観できるのだと、私なりに解釈している。
 しかし、ときと場合によるが、傍観的な態度を、必ずしも悪い意味ばかりにとらえなくていいと思う。なかには傍観しなければ、生きながらえない場合もあるだろう。たとえば戦乱の時代には、あえて一部の親族を戦闘の前線から離脱させ、彼らに後事を託すことはよくあったことだ。そんなとき、かえって傍観する側に大きな忍耐を強いたことは想像にかたくないが、ここではこれ以上言及しない。
 震災以降、日本人の沈着冷静に集団行動する意識というのは、どうして養われたのか、また、日本人の道徳心・宗教心とはどんなものなのか、という点を含め、主に海外から大いに注目されている。事を荒立てないで集団行動できるのは、一般論では、日本的なムラ社会に暮らしてきた人々の意識には、集団の意志に反する行動をとると、生存の危機に関わりかねないことを察知する本能がすり込まれているからなのだろう。
 宗教社会学的な観点からもう少し煮詰めると、彼らはもともと、万物に精霊を見る力を備え、帰属する集団の神々とともに生活していた。言いかえると、彼らの生活は、多くの神々へ感謝の祈りを捧げる宗教儀礼によって支えられていた。ところが、文明の流入に伴い、幸せなアニミズムの眠りからむりやり起こされる事態となり、宗教儀礼は、神々のいない伝統行事へ変貌を遂げていった。つまり、いわゆる宗教心という意識に取って代わり、いにしえから伝わる古式豊かな作法自体が、絶大な集団統制の理念になった。
 その後の日本人にとって、伝統行事に埋没した宗教心が何度か浮上する機会があった。仏教やキリスト教はもちろん、多種多様な土俗的、迷信的な信仰なども受容した。そのなかで、一神教の統制に慣れていない彼らにとって、アニミズムや多神教の名残がある仏教的な観念にいちばん馴染みやすかったことだろう。その仏教の本義、仏の概念が、厳密な意味で日本人に受入れられたかというと、それは相当疑わしいが。
 とにかく日本人は、外国人に比べ、帰属する集団の伝統に引き寄せられる感覚を、あたかも崇高な宗教的情熱だと思い込んでしまう傾向が強い。そう思うのは、アニミズムにあこがれを抱く本能的なものなのだが、同じアニミズム好きでも、大草原で一人、星空を眺めている方が心落ち着く私のような者もいる。(H24.2.3了)
 

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