黒猫 とのべい の冒険

身近な出来事や感じたことを登載してみました。

最初の父親

2016年05月26日 17時25分30秒 | ファンタジー

 nhkの「サイエンスzero」で、縄文人の奥歯から核DNAの抽出に成功した模様が放映された。これまで、ミトコンドリアDNAの採取には成功していたのだが、これでは数が少なすぎるし、母方の情報しか探索できなかった。核DNAが取り出せるとすれば、ヒト類の最初の母親であるアフリカのルーシーの夫、つまり最初の父親が誰だったか探し出せるかもしれない。
 それはともかく、縄文人DNAの最新の解析によると、彼らは早い時期に、東アジア人の共通の祖先から別れ、東アジア最奥部の日本列島に分け入ったことが判明した。日本列島への現生人の流れの大きなものは三系統あったという。最初は三万年くらい前で、Cという系統の遺伝子を持ってきたらしい。次におよそ一万八千年前にO系統が、そして一万三千年前ころD系統がやって来た。
 のちに、大陸に押し寄せて来た東南・北東アジア人たちとあまり交流がなく、比較的平和な生活を長く続けることができた。なので、縄文人に似ていると確認できるのは、チベットとインド洋アンダマン諸島といった辺境の地に住むごく少数派の人たちだけ。
 では、現代の日本列島人のDNAはどうなっているのか。大きく分けると、アイヌ、本土、琉球の三タイプがある。いずれも古いC・D遺伝子を持っている。本土人は、大陸から流入した人々の影響を受け変化度が大きいが、いぜんとして大陸と縄文の中間に位置する。ところが、大陸系の人々に主流のO遺伝子がアイヌの人たちにはないという。また、アイヌと琉球の人たちは共通のD2遺伝子を持つかと思えば、それぞれにしかないC1とかC3遺伝子がある。ついでにいえば、朝鮮半島の人たちと列島人の遺伝子を比べると古層では大きな違いはなく、また、琉球人と東南アジア系の台湾人との間には隔絶した溝があるという。

 時代がずっと下り、弥生時代が始まるおよそ三千年前にも当然、ある程度の人の動きがあっただろう。地域によってはすっかり人が入れ替わるほどの激震だった。たとえば吉野ヶ里遺跡では、のっぺりした顔立ちの男女の人骨が発掘されている。しかし、列島全域にわたる人骨の発掘調査では、弥生時代に入っても、顔かたちや手足の骨がほっそりした人たちの出現が確認できるのは、九州北岸や中国地方の日本海沿岸の一部だけだという。列島は、まだまだ縄文系の骨太の人たちが主流だった。
 やまたい、やまい、やまとなどと呼称される列島の初期の国は、呪術をよくする女王を立てて何とか治まっていたという。習俗も列島土着の雰囲気を感じさせる。私には、この国が九州にあろうと大和にあろうと、やはり土着の縄文人による国だったように思えてならない。
 では、倭国の支配的な人たちがほっそりし出したのは、いつころからなのだろうか。列島に馬の姿が急に増える三~四世紀にかけての古墳時代には、半島や大陸から、大量の人と文化の流入があった。そして、四世紀後半から五世紀にかけて倭との闘いなどを記した高句麗の広開土王碑文、半島南部の金官加耶などにあったいわゆる倭の遺跡群、中国、朝鮮、倭の報道機関がそろって報じている七世紀中盤の白村江水上戦などの断片的な古代の資料からは、やまたい時代には考えられなかったような、半島と列島との強い結びつきや、両者間のときとして起きる激しい覇権争いがうかがわれる。
 また、やまとの旧族と言われる蘇我氏が滅ぼされる七世紀半ばは、列島内でも蝦夷や他民族と思われる人々への攻撃が激しくなる。阿倍比羅夫が蝦夷討伐に動き出すのはちょうどそのころ。縄文系の人たちが、やまとの地からどんどん排除されていく様が目に見えるようだ。(2016.5.26)
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