帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの「古今和歌集」 巻第二 春歌下(118) 吹く風と谷の水としなかりせば

2017-01-06 19:20:36 | 古典

             

 

                        帯とけの「古今和歌集」

               ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

 

和歌の真髄は中世に埋もれ木となり近世近代そして現代もそのままである。和歌の国文学的解釈は「歌の清げな姿」を見せてくれるだけである。和歌は、今の人々の知ることとは全く異なる「歌のさま(歌の表現様式)」があって、この時代は、藤原公任のいう「心深く」「姿清げに」「心におかしきところ」の三つの意味を、歌言葉の「言の心」と「浮言綺語のような戯れの意味」を利して、一首に同時に表現する様式であった。原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成ら平安時代の歌論と言語観に従えば、秘伝となって埋もれ朽ち果てた和歌の妖艶な奥義(心におかしきところ)がよみがえる。

 

「古今和歌集」 巻第二 春歌下118

 

寛平御時后宮歌合の歌         (貫之)

吹く風と谷の水としなかりせば 深山かくれの花を見ましや

宇多天皇の御時(887897)、后か母后の宮主催の歌合の歌  つらゆき

吹く風と谷の水とが、もしも無かったならば、深山に隠れて咲く桜を見られるだろうか・流れ着いたる花びらよ……人の心に吹く春風と、谷間の蜜と肢、なかったならば、高く深い山ばでお隠れになった、おとこ花を、見られるだろうか)

 

 

歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る

「風…花散らす風…おとこ花散らす心風」「谷…言の心は女」「水…言の心は女…みづ…みつ…蜜…潤い」「とし…強調の意を表す…と肢…とおとこ」「みやま…深山…高く深い山ば…見の山ば」「み…見…覯…媾…まぐあい」「かくれ…隠れ…お隠れ…おなくなり」「花…木の花…桜花…言の心は男」「見ましや…見られるだろうか…見られるか、みられないだろう…媾できるだろうか…媾できるか出来まい」「や…疑問の意を表す…反語の意を表す」。

 

里の春に遅れて深山の桜花も散ったのだろう、谷川を流れ、漂着した川面の花びらよ。――歌の清げな姿。

心に吹く春風と、峡谷の蜜と肢、なければ、高く深い山ばで果てるおとこ花を、見られるだろうか。――心におかしきところ。

 

この歌合の詳細はわからないが、内親王をはじめ女房女官らが左右に別れて行われた、女たちだけの歌合と思われる。歌人は、それぞれ与えられた題の歌を数首提出して出席しないのだろう。歌の優劣の判定もない。寛平の御時には、このような歌合は、年に何度か行われただろう。

 

女たちは、左方の人の選んだ歌が、読み人(講師)によって、感情を全く込めずに、三度ゆっくり長く延ばして読み上げられると、「歌の様を知り言の心を心得る」女たちは、歌の心が全て心に伝わるだろう。「あはれ」とか「をかし」と声さえあげて、歌のエロスに「艶なるかな」と、しばらく酔い痴れたかもしれない、そして次に、この歌に対抗する右方の人の選んだ歌に期待感が高まる。これらが歌合の醍醐味と思われる。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)