帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの「古今和歌集」 巻第二 春歌下(133)ぬれつつぞしゐて折りつる年の内に

2017-01-25 19:07:34 | 古典

             

 

                        帯とけの古今和歌集

               ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

 

和歌の真髄は中世に埋もれ木となり近世近代そして現代もそのまである。和歌の国文学的解釈は「歌の清げな姿」を見せてくれるだけである。和歌は、今の人々の知ることとは全く異なる「歌のさま(歌の表現様式)があって、この時代は、藤原公任のいう「心深く」「姿清げに」「心におかしきところ」の三つの意味を、歌言葉の「言の心」と「浮言綺語のような戯れの意味」を利して、一首に同時に表現する様式であった。原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成ら平安時代の歌論と言語観に従えば、秘伝となって埋もれ朽ち果てた和歌の妖艶な奥義(心におかしきところ)がよみがえる。

 

「古今和歌集」 巻第二 春歌下133

 

弥生の晦日の日、雨の降りけるに、藤の花を折りて人に

遣はししける               業平朝臣

ぬれつつぞしゐておりつる年の内に 春は幾日もあらじと思へば

弥生のつごもりの日、雨が降っていたのに、藤の花を折って人に遣わした・歌……や好いの果て方の卑、おとこ雨降ったので、おとこ端を、折って・逝って、女に遣わした・歌               在原業平

(雨に・濡れながらも、強いて藤の花の枝を折った、年内にこの春は、あと幾日もないと思うので……おとこ雨に・濡れ筒ぞ、強いて・肢射て、折ってしまった、疾しのうちに張るは、逝くかも、存続しないだろうと思うので)

 

 

歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る

「弥生…春三月…や好い」「ひ…日…卑…いやしいもの…おとこ」「折…逝き」。

「ぬれつつ…濡れながら…濡れ筒…ものの雨に濡れた空虚なおとこ」「つつ…継続を表す…筒…中の空洞な物」「ぞ…強く指示する意を表す」「しゐて…しひて…強いて…むりやりに…しいて…肢射て…おとこ放ちて」「おりつる…折ってしまった…逝ってしまった」「年の内…年内…疾しの内…早過ぎる間に」「いくかも…幾日も…逝くかも」「あらじ…在らじ…存続しないだろう…生存しないだろう」「じ…打消しの推量を表す」。

 

尽き果てゆく春の花との別れを惜しむ優雅な心の表出。・あなたも同感でしょう。――歌の清げな姿。

もののお雨に濡れ筒となる、強いて・射た、早々に、張るは逝くかも、長くは生存しないと思うので。・おとこのさがだ、ゆるせよおみな。――心におかしきところ。

 

「伊勢物語」の中での業平の歌は、この程度の意味に留まらない。


 伊勢物語(八十)の語るところによれば、「昔、衰えたる家に、藤の花植えたる人ありけり。弥生のつごもりに、その日、雨そほふるに、人のもとへ折りて奉らすとてよめる」歌という。次のように読める「昔、家運衰えた家に、藤の花を植えていた人がいたのだった。弥生の末ごろに、その日雨がそぼ降るときに、身分高き・人の許に、折って奉るということで詠んだと思われる・歌……武樫おとこ、衰えみせた井辺に、おとこ端を植え付けていた男がいたのだった。八好いの果てごろ、その卑、おとこ雨そぼ降るおりに、身分高き・女人のもとへ、お枝逝って奉りますということで、詠んだらしい・歌」。

「奉らせる…(使者を遣わして)差し上げる」「奉る…謙譲語・尊敬語」によって、女人は、身分の高い人と言う事になる。「伊勢物語」では、主人公(業平自身と思っていい)は、多くの女と接しているが、身分の高い人は、恋を引き裂いた憎き藤原基経の妹、基経の養父で太政大臣藤原良房の妹か娘のうち誰かだろうと想像される。いずれも后となった人たちである。伊勢物語の文脈では、「藤の花房…藤氏の良房…にくき者たちの主」の垂れ房、強いてへし折って遣った、どうせあの男の華の春は長くはないだろうと思うので、という思いを密かに共有している人に送った歌となる。歌のエロスは、后となった女人との仲睦まじき昔のありさまとなり、伊勢物語は権力者への根深い抵抗の文芸の形相を見せる。

 

公の歌集では、、詞書から謙譲語・尊敬語を消すことによって「藤の花…藤氏」と言う戯れをも消し、世の中を恨む心が聞こえないようにしてある。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)


帯とけの「古今和歌集」 巻第二 春歌下(132)とどむべき物とはなしにはかなくも

2017-01-24 19:02:58 | 古典

             

 

                       帯とけの古今和歌集

               ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

 

和歌の真髄は中世に埋もれ木となり近世近代そして現代もそのままである。和歌の国文学的解釈は「歌の清げな姿」を見せてくれるだけである。和歌は、今の人々の知ることとは全く異なる「歌のさま(歌の表現様式)」があって、この時代は、藤原公任のいう「心深く」「姿清げに」「心におかしきところ」の三つの意味を、歌言葉の「言の心」と「浮言綺語のような戯れの意味」を利して、一首に同時に表現する様式であった。原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成ら平安時代の歌論と言語観に従えば、秘伝となって埋もれ朽ち果てた和歌の妖艶な奥義(心におかしきところ)がよみがえる。

 

「古今和歌集」 巻第二 春歌下132

 

弥生のつごもりの日、花摘みより帰りける女どもを

見てよめる                躬恒

とどむべき物とはなしにはかなくも ちる花ごとにたぐふ心か

弥生のつごもりの日、花摘みより帰ってきた女たちを見て詠んだと思われる・歌……春情の果てのおり、お花摘んで繰り返して来たおんなを見て詠んだらしい・歌。  躬恒

(留められる物ではないのに、あっけなくも散る草木の花毎に、身近に抱き、寄り添う心かな……止められるものではないのに、もろくも果てるおとこ端如きに、寄り添い・たぐり寄せる、女心かあ)

 

 

歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る

「はかなくも…もろくも・あっけなくも・あさはかにも」「花…草花…言の心は女…木の花…言の心は男」「ごとに…毎に…如に…如き物に」「たぐふ…連れ添う…寄り添う…身近に置く…たくふ…たく…(手綱など)操る…引く」「か…疑問・感嘆・詠嘆の意を表す」。

 

散る花毎に、せめて手許に留め置こうと、花摘みした優雅な女心。――歌の清げな姿。

止まる物ではないのに、はるの果てになると、散りゆくおとこ花如きを、手繰り引き寄せるように、寄り添う女心かあ。――心におかしきところ。

 

性愛における女心の微妙なところを疑問形ながら表出した。この繊細な詠み口は、躬恒の歌の特徴のようである。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)


帯とけの「古今和歌集」 巻第二 春歌下(131) 声たえず鳴けや鶯ひととせに

2017-01-23 19:01:32 | 古典

             

 

                         帯とけの古今和歌集

                ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

 

和歌の真髄は中世に埋もれ木となり近世近代そして現代もそのままである。和歌の国文学的解釈は「歌の清げな姿」を見せてくれるだけである。和歌は、今の人々の知ることとは全く異なる「歌のさま(歌の表現様式)」があって、この時代は、藤原公任のいう「心深く」「姿清げに」「心におかしきところ」の三つの意味を、歌言葉の「言の心」と「浮言綺語のような戯れの意味」を利して、一首に同時に表現する様式であった。原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成ら平安時代の歌論と言語観に従えば、秘伝となって埋もれ朽ち果てた和歌の妖艶な奥義(心におかしきところ)がよみがえる。

 

「古今和歌集」 巻第二 春歌下131

 

寛平御時后宮歌合の歌            興風

声たえず鳴けや鶯ひととせに ふたたびとだに来べき春かは

(寛平御時后宮歌合の歌)             おきかぜ(藤原興風)

(声絶えずに鳴けや、鶯、一年に再びだよ、来る春の季節か、来はしない……小枝絶えないように泣けや、浮く泌す女、ひとと背の君に、再びだよ来るべき張るかは・一過性よ)

 

 

歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る

「こゑ…声…小枝…おとこ…木の言の心は男…身の枝はおとこ」「なけや…鳴けよ…泣けよ」「鶯…鳥…鳥の言の心は女…春の鳥の名…名は戯れる…浮く泌す…憂く干す…うく秘す」「くべき…来て当然の…繰べき…繰り返すことのできる」「春…季節の春…春情…張る」「かは…反語の意を表す…疑問を表す」。

 

声絶えず、ゆく春惜みて・鳴けよ、鶯、一年に二度と来るべき春の季節か、ではないのだから。――歌の清げな姿。

小枝絶えず、泣きつづけよ、浮く泌す女、ひとと背の君に、二度と繰るべき、張るものかは。、――心におかしきところ。

 

晩春に聞こえる鶯の老い声につけて、男の身の小枝のはかない一過性の張るを思う心を言い出した歌。

 

春歌上下巻の歌の、春の風物、風情及びその自然に対する人の思いは、歌の「清げな姿」である。言の心と歌言葉の戯れに顕れるエロス(生の本能・性愛)こそ、「心におかしきところ」である。


 このような歌が歌合で、三度ゆっくりと長く延ばして感情込めずに、読み上げられるところを想像すると、並み居る大人の女性たちの心をくすぐり、それぞれに「あはれ」とか「をかし」と思うだろう。歌合の楽しさは、艶歌の競演を聴くのに似ている。判者によって批評が加えられ、左右の歌の勝劣を判定するようになると、さらに楽しさが増すことだろう。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)


帯とけの「古今和歌集」 巻第二 春歌下(130)おしめどもとどまらなくに春霞

2017-01-21 19:06:23 | 古典

             

 

                        帯とけの古今和歌集

               ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

 

和歌の真髄は中世に埋もれ木となり近世近代そして現代もそのままである。和歌の国文学的解釈は「歌の清げな姿」を見せてくれるだけである。和歌は、今の人々の知ることとは全く異なる「歌のさま(歌の表現様式)」があって、この時代は、藤原公任のいう「心深く」「姿清げに」「心におかしきところ」の三つの意味を、歌言葉の「言の心」と「浮言綺語のような戯れの意味」を利して、一首に同時に表現する様式であった。原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成ら平安時代の歌論と言語観に従えば、秘伝となって埋もれ朽ち果てた和歌の妖艶な奥義(心におかしきところ)がよみがえる。

 

「古今和歌集」 巻第二 春歌下130

 

春を惜しみてよめる           元方

おしめどもとどまらなくに春霞 帰道にしたちぬとおもへば

季節の春の去るのを惜しんで詠んだと思われる・歌……張るの絶えるのを惜しんで詠んだらしい・歌。 もとかた

(惜しんでも留まらないのだからなあ、春霞、帰る路にも立った・帰路に出立した、と思われるので……お肢めども・惜しんでも止まらないのになあ、春情が澄み・張るが済み、返る路に絶ってしまったと思われるので)

 

 

歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る

「おしめども…お肢めども…おとこおんなども…をしめども…惜しんでも」「おし…男肢…おとこ」「め…女…おんな」「ども…両者よ…けれども」「とどまらなくに…止まらないのだから…留まらないのに」「なくに…ないのだなあ…ないのになあ」「春霞…はるがすみ…春情が澄み…張るが済み」「帰道…春が帰り去る道…張るが返る路」「道…路…通い路…おんな」「たち…立ち…出立ち…断ち…絶ち」「ぬ…完了したことを表す」「思えば…思われるので」。

 

惜しめども留まらない・春なのに、春霞・春が済み、帰路に出立してしまったと思われるので。――歌の清げな姿。

お肢めども・諦めろ、はるは済み、通い路にて返ろうとして、惜しくも絶えてしまったと思えるので。――心におかしきところ。

 

在原元方は、巻頭の一首で、立春の日が十二月中に来たことに対する少年らしい理屈を「清げな姿」にして、それにこと付けて、少年が大人の男になる前夜の途惑いとはやる心を表出した。ここでは、春霞に包むようにして、大人の性愛における暮れゆく春情と張るものについて詠んだ。

 

和歌は人のほんとうの心を表現する文藝である。その生々しさを「春の清げな風情」に包んである歌、言い換えれば、春の「清げな姿」に付けられてある歌が、春歌上下の巻に収められてある。

仮名序の冒頭の言葉「やまと歌は、人の心を種として、万の言の葉とぞなれりける。世の中にある人、こと、わざ、繁きものなれば、心に思うことを、見る物、聞くものに付けて、言い出せるなり」も、歌を正当に聞き取れれば、正当に理解できるだろう。

「こと…出来事…言葉」「わざ…行為…業(ごう)」。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による


帯とけの「古今和歌集」 巻第二 春歌下(129)花ちれる水のまにまにとめくれば

2017-01-20 20:23:46 | 古典

             

 

                       帯とけの古今和歌集

               ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

 

和歌の真髄は中世に埋もれ木となり近世近代そして現代もそのままである。和歌の国文学的解釈は「歌の清げな姿」を見せてくれるだけである。和歌は、今の人々の知ることとは全く異なる「歌のさま(歌の表現様式)」があって、この時代は、藤原公任のいう「心深く」「姿清げに」「心におかしきところ」の三つの意味を、歌言葉の「言の心」と「浮言綺語のような戯れの意味」を利して、一首に同時に表現する様式であった。原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成ら平安時代の歌論と言語観に従えば、秘伝となって埋もれ朽ち果てた和歌の妖艶な奥義(心におかしきところ)がよみがえる。

 

「古今和歌集」 巻第二 春歌下129

 

弥生のつごもりがたに山を越えけるに、山河より

花の流れけるをよめる         深養父

花ちれる水のまにまにとめくれば 山には春もなくなりにけり

春三月の晦日ごろに、山を越えたので、山川より花びらが流れていたのを、詠んだと思われる・歌……や好いの果て方に山ばを越えたので、山ばのをみなよりおとこ花が流れたのを、詠んだらしい・歌。 深養父

花の散った川の流れのままに、咲く花を・もとめて来れば、山には春も無くなっていたことよ……おとこ花果てた、をみなのいうままに求め、繰り返し・来れば、山ばには、春の情も・張るものも、なくなったなあ)

 

 

歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る

「やよひ…弥生…三月…月の名称…名は戯れる…や好い…八好い…多くの快楽」「河…水…言の心は女…川…おんな」。

「花…木の花…おとこ花」「水…川…言の心は女」「まにまに…なりゆき任せに…言うままに…間に間に…連続ではなく間をあけて」「とめ…尋ね…訪ね…求め」「くれば…来れば…繰れば…繰り返せば」「山…山ば」「春…季節の春…情の春…ものの張る」「けり…気付き・詠嘆」。

 

流れ来る花びらのままに、咲く花を求めて山まで来てみれば、山はすっかり春では無くなっていたことよ。――歌の清げな姿。

おとこ花は散り果てた、をみなの求めるままに繰り返し来れば、山ばに張るものもなくなっていたことよ。――心におかしきところ。

 

男が性愛において心に思うことを、清げな姿に付けて表出した歌。

 

清原深養父は、清少納言の祖父か曽祖父という。


 清少納言は、このような歌と全く同じ文脈に在って枕草子を書いた。三月・弥生、花・木の花、川・水、春などは、彼女の用いるときにも、それぞれの多様な意味はそのまま孕んでいた。枕草子に、男の言葉
(例えば白楽天の詩など)も、女の言葉(主に和歌の言葉)も、われわれの言葉は「聞き耳異なるもの」とある。これは、言葉の意味は受け手によって意味の異なるものであるという言語観である。それでも、この厄介な言葉を利して(逆手に取って)、「をかし」を他人に伝達できる表現様式を和歌に学んで、彼女は知っていたのである。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)